ブラウン・ドッグ事件

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ブラウン・ドッグ事件
Brown Dog statue by Joseph Whitehead, Battersea, London.jpg
Brown Dog - Battersea Park - 2008-04-09.jpg
: 『The Brown Dog』ジョセフ・ホワイトヘッド(Joseph Whitehead)作 1906年 ラッチメア・リクリエーション・グラウンド 1910年に取り壊されたと推定
下: 新たな彫像 ニコラ・ヒックス(Nicola Hicks)作 1985年 バターシー・パーク
日付1903年2月 - 1910年3月
場所イギリス、イングランド、ロンドン、とりわけバターシー(Battersea)
座標北緯51度28分19秒 西経0度9分42秒 / 北緯51.47194度 西経0.16167度 / 51.47194; -0.16167座標: 北緯51度28分19秒 西経0度9分42秒 / 北緯51.47194度 西経0.16167度 / 51.47194; -0.16167 (元の彫像の位置)
テーマ動物試験
鍵となる人々
  • ウィリアム・ベイリス
  • スティーブン・コールリッジ(Stephen Coleridge)
  • Lizzy Lind af Hageby
  • アーネスト・スターリング(Ernest Starling)
裁判Bayliss v. Coleridge (1903)
王立委員会(Royal commission) 第二生体切開王立委員会(Second Royal Commission on Vivisection)(1906年–1912年)

ブラウン・ドッグ事件(ブラウンドッグじけん、Brown Dog affair)は、1903年から1910年までイギリスで荒れ狂った、生体切開をめぐる政治論争である。それが含んでいたのは、スウェーデンフェミニストらによるロンドン大学医学講義の潜入。医学生らと警察との会戦。 イヌの彫像の警察の保護。王立裁判所(Royal Courts of Justice)での文書誹毀訴訟。そして実験における動物の使用を調査する王立委員会(Royal Commission)の設置である。この事件は国を分割する『cause célèbre』(名高い裁判事件)になった[1]

論争は、1903年2月に、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン生理学部のウィリアム・ベイリスが、医学生60人の聴衆の前で、――ベイリスと彼のチームによると、十分に麻酔がかけられた。スウェーデンの活動家らによると、意識があり、もがいていた――ブラウン・テリア・ドッグに対して違法な生体切開を行なったという申し立てによって引き金を引かれた。この処置は、National Anti-Vivisection Societyによって残酷かつ違法である、と非難された。イヌの研究が諸ホルモンの発見につながったベイリスは、自分の評判にたいする攻撃に憤慨し、文書誹毀で訴え、勝った[2]

反生体切開者らは、1906年にバタシー(Battersea)のラッチメア・レクリエーション・グラウンド(Latchmere Recreation Ground)で除幕されたイヌの彫像を記念碑として委託したが、しかし、医学生らはその挑発的なプラーク――「イングランドの男ら女らよ、これらのものことはどれくらいの期間になるのだろうか?」("Men and women of England, how long shall these Things be?")――に立腹し、記念碑の頻繁な破壊行為と、いわゆるアンチドガーらに対する24時間警察警備の必要につながった[3]。1907年12月10日に、医学生数百人がロンドン中心部をブラウン・ドッグの人形をつけた棒を振りながら行進し、女性参政権者ら、労働組合主義者ら、および警察官300人と衝突した。これはブラウン・ドッグ暴動(Brown Dog riots)として知られる一連の戦いの1つであった[4]

1910年3月に、バタシー議会は論争にうんざりして、警察官120人を伴った労働者4人を派遣し、闇に乗じて彫像を撤去したし、その後、それは2万人の強い請願にもかかわらず、議会の鍛冶屋によって溶かされたとされる[5]。1985年に反生体切開グループらから委託されたブラウン・ドッグの新しい彫像が、バタシー・パークに建てられた[6]

背景[編集]

1876年の動物虐待法[編集]

クロード・ベルナール (1813年–1878年)
フランシス・パワー・コッブ(Frances Power Cobbe)(1822年–1904年)

ビクトリア女王(1837年–1901年)の治世下、イングランド議会両院で生体切開に対する重大な反対があった。女王自身が強く反対した[7]。『生体切開』(vivisection)という用語はしばしば、麻酔の有無にかかわらず、医学生の聴衆の前での生きている動物の切開を指した[8]。1878年にイギリスで300未満の動物実験があった。この数字が、ブラウン・ドッグが生体切開された1903年に19,084に上昇し(第2のブラウン・ドッグの像の碑文による)、1970年までに500万に上昇した[9][注釈 1]

19世紀の生理学者らはしばしば、その仕事について批判された[11]。フランスの著名な生理学者クロード・ベルナールは、妻を含む批評家の嫌悪感を共有していたように見え[12]、「生命の科学」("the science of life")を、「長く恐ろしい厨房を通り抜けるだけで到達できる、見事でまばゆいばかりの光のホール」("superb and dazzlingly lighted hall which may be reached only by passing through a long and ghastly kitchen")と呼んでいる[13]。アイルランドのフェミニスト フランシス・パワー・コッブ(Frances Power Cobbe)が1875年にロンドンにNational Anti-Vivisection Society(NAVS)を、1898年にBritish Union for the Abolition of Vivisection(BUAV)を設立した。前者は生体切開を制限しようとしたし、後者はそれを廃止しようとした[14]

反対は、1875年7月にイギリス政府を、「生きた動物を科学的目的で実験にかける慣行」("Practice of Subjecting Live Animals to Experiments for Scientific Purposes")に関する最初の王立委員会を設立するようにしむけた[15]。いち科学者エマニュエル・エドワード・クライン(Emanuel Edward Klein)は――研究者らが定期的に麻酔を使用していないと聞いた後――委員会に、動物の苦しみを「まったく考慮していない」("no regard at all")と語った――委員会は、犬、猫、馬、ロバ、およびラバの実験の禁止を含む一連の措置を勧めた。General Medical Council と 『British Medical Journal』 が反対したために、代わりに追加の保護が導入された[16]。その結果が、NAVSによって「悪名高いが有名な」("infamous but well-named")と批判された1876年の動物虐待法(Cruelty to Animals Act 1876)であった[17][注釈 2]

同法は、研究者らは残虐行為で訴追され得ないが、しかし動物は麻酔が実験の要点を妨げないかぎり、麻酔をかけられねばならない、と規定した。それぞれの動物は一度しか使用され得なかった、ただし同一実験の一部と見なされるいくつかの手順が許可された。動物は、実験の目的を挫折させないかぎり、研究が終わったとき殺されねばならなかった。訴追は内務大臣の承認があってはじめてなされ得た。ブラウン・ドッグ事件の時、これはエレタス・エーカーズ=ダグラス (初代チルストン子爵)(Aretas Akers-Douglas, 1st Viscount Chilston)であり、彼は反生体切開者の大義に同情しなかった[18]

アーネスト・スターリングとウィリアム・べーリス[編集]

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アーネスト・スターリング(Ernest Starling)(1866年–1927年)
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ウィリアム・べーリス(William Bayliss)(1860年–1924年)

20世紀前半に、University College Londonの生理学教授アーネスト・スターリングとその義理の兄弟ウィリアム・ベーリスは、イワン・パブロフによって仮定されたように、神経系が膵臓の分泌を制御しているかどうかを判断するために、イヌの生体切開を利用していた[19]。ベーリスは1890年から生体切開をいとなむ免許を取得していたし、1900 年から生理学を教えていた。スターリングの伝記作家ジョン・ヘンダーソン(John Henderson)によると、スターリングとベーリスは「強迫的な実験者ら」("compulsive experimenters")であったし[20]、スターリングの研究室はロンドンで最も忙しかった[21]

この男らは、糜汁(chyme)のそこへの到着ゆえに、膵臓は十二指腸および空腸の酸性度の増加に反応して消化液を生成することを知っていた。彼らは、麻酔をかけたイヌの十二指腸および空腸の神経を切断し、血管はそのままにしながら、その後十二指腸および空腸に酸を注入することによって、この過程は神経反応によって媒介されるのではなく、新しい型の化学反射によって媒介されることを発見した。彼らは、腸の内層から血流に分泌され、循環で膵臓を刺激するから、その化学的メッセンジャーをセクレチンと名付けた。1905年に、スターリングは『ホルモン』(hormone)という用語を作り出した―― 「わたしは起きる」("I arouse")または「わたしは興奮する」("I excite")と意味するギリシャ語『hormao』から――セクレチンのような、離れた場所から、非常に少量で、臓器を刺激し得る化学物質を説明するために[22]

べーリスとスターリングは、1899年に麻酔されたイヌの生体切開を行ない蠕動(ぜんどう)を発見した。彼らは、他のさまざまな重要な生理学的現象や原理を発見しつづけた。その多くは、動物の生体切開を含む実験的研究に基づいていた[23]

Lizzy Lind af Hageby と Leisa Schartau[編集]

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Lizzy Lind af Hageby (1878年–1963年)

スターリングとべーリスの講演は、2人のスウェーデンのフェミニストと反生体切開者Lizzy Lind af HagebyおよびLeisa Schartauによって潜入されていた。この女らは子供の頃から互いを知っていて、著名な家の出身であった。Cheltenham Ladies Collegeに通っていたLind af Hagebyは、スウェーデン王の侍従の孫娘であった[24][25]

1900年に、女らは動物実験の中心、パリのパスツール研究所を訪れたし、研究者らによって疾病を与えられた、ケージに入れられた動物らでいっぱいの部屋らにショックを受けた。彼女らは帰国したとき、スウェーデン反生体切開協会(Anti-Vivisection Society of Sweden)を設立し、運動を支援する医学教育を受けるために、1902年にLondon School of Medicine for Womenに入学した。これは、他のカレッジとの訪問の取り決めがあった生体切開のない大学であった[24]。彼女らはKing's and University Collegeでの100回の講義とデモンストレーションに参加した。そのうち50回は生きた動物での実験で、うち20回はメーソンのいわゆる「本格的な生体切開」("full-scale vivisection")であった[26]。彼女らの日記は、最初『Eye-Witnesses』と呼ばれたが、後に『The Shambles of Science: Extracts from the Diary of Two Students of Physiology』(1903年)として刊行された。『shambles』は屠殺場の名前であった[27]。ブラウン・ドッグが生体切開されたときこの女らは居たし、講義室で処置中に彼女らに聞こえた笑い声に言及して、「"Fun"」というタイトルの章を書いた[28]

ブラウン・ドッグ[編集]

そのイヌの生体切開[編集]

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裁判所はこの生き返りを見せられた。ウィリアム・ベーリスは手術台のイヌの後ろに立っており、彼の右側にはアーネスト・スターリング、ヘンリー・ハレット・デール、チャールズ・スカットル、検査技師。[21]
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スターリングによると、ブラウン・ドッグは「ショート・ラフィッシュ・ヘアのテリアと関連する、重量で約14–15 lb [c. 6 kg]の小さな茶色の雑種、」("a small brown mongrel allied to a terrier with short roughish hair, about 14–15 lb [c. 6 kg] in weight")であった。彼はスターリングによって1902年12月に生体切開で最初に使用された。彼は彼の腹部と、結紮された膵管を切り開いた。次の2か月間、彼はケージの中で生き、ついに1903年2月2日、スウェーデンの女らが居た日に、スターリングとベーリスが処置2つのために彼をふたたび使用した[21][29]

スターリングその他が法廷で行なった証言によると、学生らが到着する前に講義室の外で、スターリングはそのイヌを再び切り開いて前の手術の結果を調べ、それは約45分かかったし、その後、彼は鉗子で傷をクランプし、そのイヌをベーリスに引き渡した[30]。ベーリスはそのイヌの首に新しい開口部を切り、唾液腺の舌神経を露出させ、それに電極を取り付けた。その目的は、電気で神経を刺激して、唾液圧が血圧とは無関係であることを実証することであった[31]。そのイヌはその後、階段教室に運ばれ、脚は手術板に結び付けられ頭部はクランプされ口吻は口輪をかけられて、板に仰向けに伸ばし広げられた[30]

ベーリスによると、犬はその日もっと早くにモルヒネ注射を受けていて、その後、男性が働いていたベンチの後ろに隠されたパイプを介して。処置中に6液量オンスの、アルコール、クロロホルムおよびエーテル(ACE)を前室から彼の気管の管に届けられた。スウェーデンの学生らは、このイヌが十分に麻酔されていたということに異議を唱えた。彼女らは、そのイヌが処置中に意識を持っているように見え、板から身体を持ち上げようとした、麻酔の臭いも装置の通常のシューという音もなかった、と言った。また一部の学生は、そのイヌはもがかず、ただひきつっただけだ、と言った[32]

ベーリスは学生約60人の前で、30分間電気で神経を刺激したが、しかし自分の主張を示せなかった[21]。そのイヌはその後、或る学生、ヘンリー・ハレット・デール、将来のノーベル賞受賞者に手渡され、彼はそのイヌの膵臓を取り除き、その後ナイフで心臓でつらぬき彼を殺した。べーリスの実験助手チャールズ・スカットル(Charles Scuttle)が、そのイヌがクロロホルムまたはACE混合物で殺された、と証言したとき、これは、文書誹毀の公判中に困難の点になった。デールは、スカットルの証言の後、裁判所に、自分は、実際には、ナイフを使用した、と語った[30]

女らの日記[編集]

1903年4月14日に、Lind af HagebyとSchartauは、その年後半に『The Shambles of Science』として発行された未発表の200ページの日記を、National Anti-Vivisection Societyの書記で法廷弁護士のスティーブン・コールリッジ(Stephen Coleridge)に見せた。コールリッジは、ジョン・コールリッジ、第1男爵コールリッジ(John Coleridge, 1st Baron Coleridge)の息子であり、元イングランド主席裁判官(former Lord Chief Justice of England)であり、詩人サミュエル・テイラー・コールリッジの曾孫であった。彼の注意はブラウン・ドッグの話に引き付けられた。1876年の動物虐待法は、2つ超の実験で動物を使用することを禁じていたが、それでも、ブラウン・ドッグはスターリングが膵臓の手術を行うために使用され、前の手術の結果を検査するために彼がイヌを開いたときに彼によってふたたび使用され、そして唾液腺を研究するためにみたびべーリスによって使用されたようにみえた[33]。日記はブラウン・ドッグの処置について言った――

今日の講義は、前回失敗したデモンストレーションの繰り返しをふくむ。手術台に仰向けに伸ばされた大型犬が、デモンストレーターと実験室係員によって講義室に運びこまれる。脚は板に固定され、頭部は通常の方法でしっかりと保たれ、口輪がしっかりとはめられている。

首の側面に大きな切開が1つあり、腺が露出している。その動物は激しい苦痛の全兆候を示している。彼はもがきながら、何度も何度も板から身体を上げ、自由になろうと力強く試みる[34]

繰り返される使用と不十分な麻酔との申し立ては、動物虐待法(Cruelty to Animals Act)の『一見しただけでの』(prima facie)違反を表している。そのうえ、日記は、このイヌが無免許研究生ヘンリー・デール(Henry Dale)によって殺された、学生らが処置中に笑い声をあげた、と言った。講義ホールには「いたるところにジョークと笑い声」("jokes and laughter everywhere")があった、とそれは言った[35][36]

スティーブン・コールリッジの演説[編集]

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スティーブン・コールリッジ

メーソンによれば、コールリッジは同法の下での訴追に頼る意味がないと判断したし、それは故意に妨害をする、と見なした。代わりに、彼は1903年5月1日に、ピカデリーのセントジェームズ・ホール(St James's Hall)で開催された、2,000〜3,000人が参加した、National Anti-Vivisection Societyの年次総会に、そのイヌについて怒りをこめた演説をした。メーソンは、支持と欠席の謝罪がジェローム・K・ジェローム、トマス・ハーディ、およびラドヤード・キップリングによって送られた、と書いている。コールリッジは科学者らを拷問で非難した――「もしこれが拷問でないならば、ミスタ・ベーリスと彼の友人らに … 一体全体拷問とは何なのか教えていただこう」("If this is not torture, let Mr. Bayliss and his friends ... tell us in Heaven's name what torture is.")[37]

翌日、演説の詳細が、ラジカルな『Daily News』(1846年にチャールズ・ディケンズによって設立された)によって発表されたし、下院では、特に保守党議員であり生体切開のデモを終わらせることをめざした法案のスポンサー サー・フレデリック・バンベリー、サウサムのバンベリー初代男爵(Sir Frederick Banbury, 1st Baron Banbury of Southam)によって質問が提起された。バンベリーは内務大臣に述べるように求めた、「最後の2月2日にユニバーシティ・カレッジ病院でブラウン・ドッグの手術がいかなる証明書の下で行われたのか。そして、最初の手術によって引き起こされた傷が治る前に、この動物に対して2回目の手術が行われたのを見て、彼はその問題に対して何らかの行動を取ることを提案するか。」("under what certificate the operation on a brown dog was performed at University College Hospital on Feb. 2 last;and, whether, seeing that a second operation was performed upon this animal before the wounds caused by the first operation had healed, he proposes to take any action in the matter.")[38]

ベーリスはコールリッジに公式謝罪を要求したし、5月12日までにそれが実現しなかったとき、彼は文書誹毀の令状を発行した[39]。アーネスト・スターリングは訴訟しないことに決めた。コールリッジの味方でない『The Lancet』は、「ドクタ・スターリングとミスタ・ベーリスが、その下で彼らが実験を行った同法の技術的侵害を犯したと主張されるかもしれない」("it may be contended that Dr. Starling and Mr. Bayliss committed a technical infringement of the Act under which they performed their experiments")と書いた[40]。コールリッジは、公判が始まる前に女性らを説得して日記を公開しないようにさせようとしたが、しかし彼女らはとにかく先に進み、1903年7月にコベント・ガーデンのアーネスト・ベル(Ernest Bell of Covent Garden)によって公開された[41]

『べーリス対コールリッジ』[編集]

公判[編集]

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フランク・ジレットによる法廷スケッチ。『The Daily Graphic』1903年11月。スターリングが右下隅にいる。ベーリスが備品を持って中央にいる。

公判は1903年11月11日にオールド・ベーリーで、主席判事リチャード・ウェブスター、初代アルヴァストン子爵(Richard Webster, 1st Viscount Alverstone)で、開かれ、4日間続き、11月18日に閉じられた。裁判所の外には30ヤードの長さの列があった[42]。ベーリスの法廷弁護士ルーファス・アイザックス、初代レディング侯爵(Rufus Isaacs, 1st Marquess of Reading)は、スターリングを最初の証人として呼んだ。スターリングは、自分はイヌを2回使用して法律に違反したと認めたが、しかし自分はイヌ2匹を犠牲にすることを避けるためにそのようにした、と言った。べーリスは、そのイヌがその日もっと早くに1.5粒のモルフィアを与えられ、その後6オンスの、アルコール、クロロホルム、およびエーテルが前室から、犬の気管に接続されたチューブ1本で送られた、と証言した。彼は、それらチューブは壊れやすかった、そのイヌがもがいていたならば壊れていただろう、と言った[43]

獣医師ミスタ・アルフレッド・シーウェル(Alfred Sewell)は、ベーリスが使用していたシステムが適切であったとはありそうもない、と述べたが、しかしロイヤル・ベタリナリー・カレッジ(Royal Veterinary College)のフレデリック・ホブデー(Frederick Hobday)を含む他の証人は同意しなかった。ベーリスが麻酔を使いすぎていた、それだからイヌは電気刺激に反応しなかった、という主張さえあった。ベーリスによると、そのイヌは舞踏病をわずらっていた。これは不随意のけいれんを引き起こす、そしてLind af HagebyとSchartauによって報告されたいかなる動きも目的を持っていなかった病気である[44]。女3人と男1人の、学生4人が、そのイヌは意識がないように見えた、と証言した[45]

コールリッジの法廷弁護士ジョン・ローソン・ウォルトン(John Lawson Walton)は、Lind af Hageby と Schartauを呼んだ。彼女らは、自分たちが最初に到着した学生であり、約2分間そのイヌと一緒に放置されていた、と繰り返した。彼女らは、以前の手術複数の傷跡と、チューブ2本が配置されていた首の切開を目撃していた。彼女らは麻酔薬の匂いを嗅いでいなかったし、麻酔薬を投与する器具を見ていなかった。彼女らは、そのイヌは、彼女らが逃げるための努力と見なすものの中で背をアーチ状に曲げ、脚複数をけいれんさせた、と言った、とメーソンは書いた。実験が始まったとき、イヌは「腹部を隆起させ」("upheave its abdomen")、震え続けた、と彼女らは言った、これは彼女らが「激しい、目的のある」("violent and purposeful")と見なした動きである[43]

ベーリスの弁護士は、コールリッジが確証を求めないままに女らの発言を受け入れたことと、そうすることが訴訟につながる可能性があることを知っていたにもかかわらず、最初にベーリスに近づくことなく問題について公然と話したことを批判した。コールリッジは、自分は主張が否定されることを知っていたから検証を求めなかった、自分は女らの声明を真実であると見なし続けた、と答えた。『The Times』は彼の証言について書いた――「被告人は、証人席に入れられたとき、目的のために彼が自由に使える時間と同じくらい多くの損害を自身の事件に与えた。」("The Defendant, when placed in the witness box, did as much damage to his own case as the time at his disposal for the purpose would allow")[46]

評決[編集]

ロード・アルバーストーンは陪員に、この事件は国益の重要な事件である、と語った。彼は『The Shambles of Science』を「ヒステリカル」("hysterical")と呼ばわり、生体切開の有効性についての議論に左右されないよう陪審に助言した。1903年11月18日に、陪審は25分間引き下がった後、パブリック・ギャラリーの医師の拍手により、ベーリスが名誉を毀損したことを満場一致で発見した。べーリスは経費3,000ポンドとともに2,000ポンドを授与された。翌日にコールリッジは彼に小切手を渡した[47]。『Daily News』は、コールリッジの費用を賄うための寄付を求め、4か月以内に5,700ポンドを集めた。ベーリスは、研究に使用するために彼の損害賠償金をUCLに寄付した。メーソンによれば、ベーリスは、それを「"Stephen Coleridge Vivisection Fund"」と呼ぶという『Daily Mail』の提案を無視した[48][49]。Gratzerは2004年に、この基金は動物らを買うためにまだ使用されていたかもしれない、と書いた[50]

The Times』は、評決に満足していると宣言したが、ただし公判中の医学生らの乱暴な行動を批判し、彼らを「医学的フーリガン」("medical hooliganism")と非難した。『Sun』『Star』および『Daily News』は、この決定を誤審と呼んでコールリッジを支持した[48]。『The Shambles of Science』の発行者アーネスト・ベル(Ernest Bell)は、11月25日にベーリスに謝罪し、日記を撤回しその残りのコピーをベーリスの弁護士らに渡すことを約束した[51]

1903年にLind af Hagebyによって設立されたAnimal Defence and Anti-Vivisection Societyは、この書籍を再刊行し、1913年までに第5版を印刷した。「"Fun"」の章は、実験と公判を説明する「"The Vivisections of the Brown Dog"」と称する章に置き換えられた[52][53]。小説家トーマス・ハーディは、訪問者らのために本のコピーをテーブルの上に置いていた。彼は通信員に、自分は「実際には[それを]『読んだ』わけではないが、それがわたしのテーブルの上にあるこの部屋に来たひとはみな、それにざっと目を通すなどして、何か得ればいいとわたしは思う」("not really read [it], but everybody who comes into this room, where it lies on my table, dips into it, etc, and, I hope, profits something")と語った。歴史家ヒルダ・キーン(Hilda Kean)によると、反生体切開者運動に対抗するために1908年に設立されたロビー・グループResearch Defence Societyは、この書籍のインパクトゆえに改訂版を撤回させる方法について議論した[54]

1903年12月に、生体切開に反対するマーク・トウェインは、イヌの視点から書かれた短編小説『A Dog's Tale』を『Harper's』に掲載した。そのイヌの子犬は実験され殺される[55]。マーク・トウェイン学者シェリー・フィッシャー・フィッシュキン(Shelley Fisher Fishkin)によると、タイミングとトウェインの見解を考えると、この物語は文書誹毀の公判に霊感を受けたかもしれない。コールリッジは、『A Dog's Tale』を3,000部注文した。それは『Harper's』によって彼のために特別に印刷された[56]

生体切開に関する第2王立委員会[編集]

1906年9月17日に、政府は生体切開に関する第2王立委員会を任命し、科学者らや反生体切開グループから証言を聞いた。アーネスト・スターリングは、1906年12月に3日間、委員会に演説した[57]。かなりの遅れ(メンバー10人のうち2人が死亡し、数人が病気になった)の後に、委員会は1912年3月にその調査結果を報告した[58]。その139ページの報告書は、常勤の検査官の人数を2人から4人に増やすことと、実験中に動物を固定するために使用される毒クラーレの使用を制限することを勧めている[59]。委員会は、動物は十分な麻酔をかけられるべきで、もし痛みが続きそうであるならば安楽死させられるべきである、実験は医学部などで「講義の実例として」("as an illustration of lectures")行われるべきでない、と決定した。もし彼らが「実験の目的を挫折させる」("frustrate the object of the experiment")つもりなら、すべての制限が撤廃される可能性があった[60]。ピシング(pithing)[脊柱管を穿刺して脊髄または中枢神経系を破壊すること]の定義と実践の引締めもあった。委員会は、もっと詳細な記録の維持と、動物虐待法(Cruelty to Animals Act)に関連する事項について国務長官に助言する委員会の設立を勧めた。後者は、1986年の動物(科学的処置)法(Animals (Scientific Procedures) Act 1986)の下の動物処置委員会(Animal Procedures Committee)となった[61]

ブラウン・ドッグの記念物[編集]

Inscription

In Memory of the Brown Terrier
Dog Done to Death in the Laboratories
of University College in February
1903 after having endured Vivisection
extending over more than Two Months
and having been handed over from
one Vivisector to Another
Till Death came to his Release.

Also in Memory of the 232 dogs
Vivisected at the same place during the year 1902.

Men and Women of England
how long shall these Things be?

—Inscription on the Brown Dog memorial[62]

公判の後、World League Against Vivisectionの創設者アンナ・ルイス・ウッドウォード(Anna Louisa Woodward)は、公の記念物のために120ポンド集め、彫刻家ジョセフ・ホワイトヘッド(Joseph Whitehead)に犬の青銅像を委託した。彫像は花崗岩の記念石の上にあり、高さは7フィート6インチ(2.29 m)で、ヒトのための噴水式水飲み器とイヌらおよびウマらのためのより低い飼い葉桶を収容した。それはまた、1910年に『The New York Times』によって、「反生体切開者らの慣習的なヒステリックな言葉」("hysterical language customary of anti-vivisectionists")と「医療専門家全体への口頭誹毀」("a slander on the whole medical profession")と記された碑文もおびていた[49]

グループは記念の場所を求めてバタシー特別区に向かった。ランズベリーは、その地域は急進主義ラジカリズム―プロレタリアン、社会主義者の温床で、噴き出す煙とスラムに満ちており、そして反生体切開運動と密接に関連している、と書いた。National Anti-Vivisection and Battersea General Hospital――1896年にアルバート・ブリッジ・ロード(Albert Bridge Road)とプリンス・オブ・ウェールズ・ドライブ(Prince of Wales Drive)の角に開院し、1972年に閉院した――は、1935年まで、生体切開を行うこと、生体切開に従事する医師を雇うことを拒否し、地元では「アンチビブ」("antiviv")または「オールドアンチ」("old anti")として知られていた[63]。1907年に、Battersea Dogs Homeの会長ウィリアム・キャヴェンディッシュ・ベンティンク、ポートランド6代目公爵(William Cavendish-Bentinck, 6th Duke of Portland)は、失われたイヌらを生体切開者に売るという要求を、「恐ろしいだけでなく、ばかげてもいる」("not only horrible, but absurd")として、拒否した[64]。National Anti-VivisectionとBattersea General Hospital――バタシー評議会は、ラッチメア・レクリエーション・グラウンド(Latchmere Recreation Ground)に彫像のためのスペースを提供することで合意した。それは評議会の新しいラッチメア・エステート(Latchmere Estate)の一部で、それは、週7シリング6ペンスで貸すテラス・ハウスを提供する[65]。像は1906年9月15日に大群衆の前で除幕された。ジョージ・バーナード・ショー、アイルランドのフェミニスト シャーロット・ディスパード(Charlotte Despard)、バタシー市長、ジェームズ・H・ブラウン(James H. Brown)(バタシー貿易労働評議会書記(secretary of the Battersea Trades and Labour Council))、チャールズ・ノエル師(Reverend Charles Noel)を含む講演者がいた[66][67]

暴動[編集]

1907年11月ー12月[編集]

photograph
古いブラウン・ドッグ ジョセフ・ホワイトヘッド作

ロンドンの各教育病院(teaching hospitals)の医学生らは、そのプラークに激怒した。彫像の存在の最初の年は静かな年であったいっぽうで、ユニバーシティ・カレッジはそれに対して法的措置を取ることができるかどうかを調査したが、しかし1907年11月から、学生らはバタシーを頻繁な分裂の現場に変えた[68]

最初の行動は11月20日にあった。その日、学部生ウィリアム・ハワード・リスター(William Howard Lister)はテムズ川を渡って医学生の1グループをバタシーに導き、バールとハンマーで彫像を攻撃した。そのうちの1人ダンカン・ジョーンズ(Duncan Jones)はハンマーで彫像を叩き、それをへこませ、その時点で、10人全員がたった2人の警官によって逮捕された[69][70]。メーソンによると、或る地元の医師は『South Western Star』に、これは後輩医師らの「まったくの退化」("utter degeneration")を示している、と語った――「わたしは1人の学生を連れて行くことは10人超の警官がなし得る以上のことだった時代を思い出せる。アングロサクソン人種は疲れ果てている」("I can remember the time when it was more than 10 policemen could do to take one student.The Anglo-Saxon race is played out.")[71]

学生らは、バタシーの南西ロンドン警察裁判所(South-West London Police Court)で治安判事ポール・テーラー(Paul Taylor)から罰金5ポンドを科され、次回は収監されるであろう、と警告された[70]。これが2日後に別の抗議の引き金を引いた。その日、UCL、キングス、ガイズ、およびウェスト・ミドルセックスの各病院の医学生らが、スティックに付けたミニチュアのブラウン・ドッグと、治安判事の等身大人形を振りながら、「"Let's hang Paul Taylor on a sour apple tree / As we go marching on."」と歌いながら、ストランド沿いにキングス・カレッジに向かって行進した[72][73]。『The Times』は、彼らがその人形を燃やそうとしたが、しかしそれに点火させられず、代わりにテムズ川に投げ込んだ、と報じた[59]

女性参政権会議が侵されたが、ただし学生らは、あらゆる女性参政権者が反生体切開者であるとはかぎらないことを知っていた。1907年12月5日にベイズウォーターのパディントン・バスス・ホールでミリセントフォーセットが主催した会合は、椅子とテーブルが壊され、執事1人が片耳を引き裂かれたまま、残された。花火2発が打ち上げられたし、フォーセットの演説は、『John Brown's Body』を歌っている学生らによってかき消されたし、彼らはその後、バグパイプを持った何者かに率いられてクイーンズ・ロードを行進した。『Daily Express』は、この会合を「医学生らの、女らとの勇敢な戦い」("Medical Students' Gallant Fight with Women")として報じた[74][75]

1907年12月10日[編集]

As we go walking after dark,
We turn our steps to Latchmere Park,
And there we see, to our surprise,
A little brown dog that stands and lies.
Ha, ha, ha! Hee, hee, hee!
Little brown dog how we hate thee.

—Sung by rioters to the tune of Little Brown Jug[76]

暴動は5日後の12月10日火曜日、医学生100人がこの記念物を引き倒そうとしたときに最高潮に達した。以前の抗議は自発的であったが、しかし、これはウェスト・ケンジントンのクイーンズ・クラブで毎年開催されるオックスフォード-ケンブリッジ・ラグビー・マッチと同時に開催された。抗議者らは、何千人ものオックスブリッジの学生の何人かが彼らの数を増やすことを望んでいた(結局のところ無駄であった)。その意図は、彫像を倒してテムズ川に投げ込んだ後、午後11時30分にトラファルガー広場に学生2,000ー3,000人が集まるというものであった。露天商らは、抗議の日付と「ブラウン・ドッグの碑文は嘘であり、小像はロンドン大学への侮辱である」("Brown Dog's inscription is a lie, and the statuette an insult to the London University")という言葉がスタンプされたハンカチーフを売った[77]

午後に、抗議者らは彫像に向かったが、しかし地元の人々によって追い払われた。学生らは代わりに、Anti-Vivisection Hospitalを攻撃するつもりでバターシー・パーク・ロードを進んだが、しかしふたたび強制的に戻された。いち学生が路面電車から落ちたとき、労働者らは、これは「ブラウン・ドッグの復讐」("the brown dog's revenge")だ、と叫び、彼を病院に連れて行くことを拒否した[78]。『British Medical Journal』は、それがAnti-Vivisection Hospitalであったことを考えると、群衆の行動は「博愛心によって促された」("prompted by benevolence")かもしれない、と応じた[79]

学生の第2グループはブラウン・ドッグの人形を振りながらロンドン中心部に向かい、、これに警察護衛と、短時間バグパイプを持った或る大道芸人1人が加わった。行進者らがトラファルガー広場についたとき、彼らは総勢400人であって、警察官200〜300人、うち15人は騎馬、と向き合った。学生らはネルソン記念柱の周りに集まったし、そこで首謀者らが演説するためにそのベースに登った。学生らが地上で警察と戦っているいっぽうで、騎馬警察は群衆をより小さなグループに分散させたり、浮浪者らを逮捕したりしながら、攻撃し、その中には学部生アリグザンダー・ボーリー(Alexander Bowley)を含み、彼は「犬のように吠えること」("barking like a dog")で逮捕された。戦闘は何時間も続き、その後警察が支配権を握った。翌日に、ボー・ストリート治安判事裁判所(Bow Street magistrate's court)で、学生10人が平穏を保つよう申し渡された。数人は40シリングの、または警察と戦っていたならば3ポンドの罰金を科された[80]

奇妙な関係[編集]

学生らは1906年12月のブラウン・ドッグ会合で悪臭爆弾を放った

医学生らと獣医生らが団結したために、暴動はその後何日も何か月も他の場所で発生した。Lizzy Lind af Hagebyが話すときはいつでも、学生らは彼女をどなりつけて黙らせたものであった。彼女が1906年12月11日にアクトン・セントラル・ホールでEaling and Acton Anti-Vivisection Societyの会合を手配したとき、とりわけ彼女が自分に投げキスをした学生に異議を唱えたとき、学生100人以上が椅子と悪臭爆弾を投げながらそれを混乱させた。 『Daily Chronicle』は報じた――「ミスLind af Hagebyの残りの憤慨は、今やホールを激しく転がっている美しい「エギーな」('eggy')雰囲気の中で失われた。「靴下をはきかえろ!」('Change your socks!')学生の1人が叫んだ。」("The rest of Miss Lind-af-Hageby's indignation was lost in a beautiful 'eggy' atmosphere that was now rolling heavily across the hall. 'Change your socks!' shouted one of the students.")家具が壊されたし、衣服が破かれた[81][25]

ニュー・イングランド大学のスーザン・マックヒュー(Susan McHugh)にとって、彫像の防衛に結集した労働組合主義者ら、社会主義者ら、マルクス主義者ら、リベラルら、および女性参政権者らの政治的連立は、ブラウン・ドッグの雑種の地位を反映していた。暴動は彼らが医学生らと戦うためにバタシーに降りてくるのが見えた、たとえ女性参政権論者は、男性労働者らが暖かみを感じるグループではなかったにしても、と彼女は書いている。しかし、男の科学エスタブリッシュメントによる「"Brown Terrier Dog Done to Death"」は、彼ら全員を団結させた[82]

Lizzy Lindaf-Hagebyとシャーロット・ディスパード(Charlotte Despard)は、この事件を、フェミニズムとマチスモとの戦いと見なした[83]。コーラル・ランズベリー(Coral Lansbury)によると、女性選挙権を求める戦いは、反生体切開運動と密接に関連するようになったし、生体切開の図像は女らの共感を呼んだ。National Anti-Vivisection Hospitalの副プレジデント4人のうち3人は女であった。ランズベリーは、ブラウン・ドッグ事件は、対立しているシンボル複数の問題になった、と主張している――手術板上の生体切開されたイヌがぼやけていき、ブリクストン刑務所で強制給餌される女性選挙権論者ら、あるいは出産のために縛られる、あるいは「躁病」("mania")の治療法として卵巣と子宮を切除することを余儀なくされる女らのイメージになった。その「生体切開された動物は、生体切開された女を表わした」("vivisected animal stood for vivisected woman")[84]

両者ともに、自分たちを未来の相続人と見なしていた。ヒルダ・キーン(Hilda Kean)は、スウェーデンの活動家らは若くて女であり、反エスタブリッシュメントでプログレッシブで、そして科学者らを前の時代の名残と見なした、と書いている[54]。彼らの高等教育へのアクセスが、フェミニスト学者スーザン・ハミルトン(Susan Hamilton)が「証言の新しい形」("new form of witnessing")と称したものを創りながら、事件を可能にしていた[85]。ランズベリーは書いている、これに反対して、その学生らは自分たちとその教師らを「新聖職」("New Priesthood")と、そして女らと労働組合主義者らを迷信と感傷の代表と、見なした[86]

「『ブラウン・ドッグ』退場」[編集]

「『ブラウン・ドッグ』退場」――『The Daily Graphic』1910年3月11日、ブラウン・ドッグが立っていた空きの場所を示す。

下院では、彫像の警備費用について質問がなされ、これには、年間700ポンドの経費で1日6人の巡査が必要であった。1908年2月に、ロンドン大学選挙区議員サー・フィリップ・マグナス(Sir Philip Magnus)は、内務大臣ハーバード・ジョン・グラッドストーン初代グラッドストーン子爵(Herbert Gladstone, 1st Viscount Gladstone)に、「物議を醸す碑文をおびているバタシーの公共記念物の警察的保護の特別費用に注意を引かれたかどうか」("whether his attention has been called to the special expense of police protection of a public monument at Battersea that bears a controversial inscription")尋ねた。グラッドストーンは、彫像を保護するために毎日巡査6人が必要である、追加の警察活動の全体的な経費はいちにちに、警部27人、巡査部長55人、および巡査1,083人の雇用に相当していた、と答えた[87]

ロンドンの警察長官はバタシー評議会宛てに書き送り、彼らが経費に寄付するように頼んだ。評議員ジョン・アーチャー(John Archer)、後にバタシー市長、ロンドン最初の黒人市長は[88]、『Daily Mail』に、バタシーがすでに警察の料金で年間22,000ポンドを支払っていたことを考えると、自分はその要求に驚いた、と語った。Canine Defense Leagueは、まんいちバタシーが研究所複数への襲撃を組織したならば、それら研究所が警備費用を自分で支払うように求められるだろうか否かを考えた[89]

また一部の評議員は、彫像を鋼のケージに入れ、有刺鉄線のフェンスでとり囲むことを提案した。『Times』の手紙のページその他で、ひょっとすると反生体解剖病院の敷地かもしれない所に移動させる提案が、なされた。『British Medical Journal』は1910年3月に書いた――

願わくはわれわれは、拒否された芸術作品の最も適切な休憩場所は、バタシーのHome for Lost Dogsであることを提案するように。そこでは、碑文が言うように、ミス・ウッドワード(Miss Woodword)、ライオネル・S・ルイス師(Rev. Lionel S. Lewis)その他友人の居るところでハンマーを使って「死ぬまで行ない」("done to death")得るだろう。もし彼らが気持ちにとても耐えられないならば、おそらく麻酔薬が処方され得よう(May we suggest that the most appropriate resting place for the rejected work of art is the Home for Lost Dogs at Battersea, where it could be "done to death", as the inscription says, with a hammer in the presence of Miss Woodword, the Rev. Lionel S. Lewis, and other friends;if their feelings were too much for them, doubtless an anaesthetic could be administered.)[90]

photograph
彫像の撤去に抗議するデモ 1910年3月19日 トラファルガー・スクエア[91]

バタシー評議会はだんだん論争にうんざりしてきた。1909年11月に新しい保守評議会が、彫像を撤去するといううわさの中で選出された。それを支持する抗議があったし、総勢500人のブラウン・ドッグ記念物保護委員会(Brown Dog memorial defence committee)が設立された。2万人が請願に署名したし、1910年2月に1,500人が、Lind af Hageby、シャーロット・ディスパードと自由党議員ジョージ・グリーンウッド(George Greenwood)が演説する集会に出席した。ロンドン中心部でさらに多くのデモンストレーションが、ハイド・パークで演説が、あり、支持者らはイヌの仮面を着けていた[6][92]

抗議は役に立たなかった。彫像は1910年3月10日夜明け前に、警察官120人を伴った評議会の労働者4人によって静かに撤去された。9日後に、反生体解剖者3,000人がトラファルガー広場に集まり、その帰還を要求したが、しかしそのときまでにバタシー評議会が事件に背を向けていたことは明らかであった[93]。像は最初、ボロー・サーベイヤーの自転車小屋(borough surveyor's bicycle shed)に隠されていた、これは彼の娘が1956年に『British Medical Journal』宛てに書いた手紙による。 [注釈 3]当時は評議会の鍛冶屋が破壊し鋳(い)つぶしたと伝えられた[95]。反生体解剖者らは、高等裁判所にその返還を要求する請願を申し立てたが、しかしこの訴えは1911年1月に却下された[96]

新たな記念物[編集]

新しいブラウン・ドッグ ニコラ・ヒックス(Nicola Hicks)作

彫像が撤去されてから75年以上経った1985年12月12日に、ポンプ・ハウスの裏のバターシー・パークで、ブラウン・ドッグの新しい記念物が女優ジェラルディン・ジェームズによって除幕された。彫刻家ニコラ・ヒックス(Nicola Hicks)によって作成され、National Anti-Vivisection SocietyとBritish Union for the Abolition of Vivisectionによって委託され、新しいブロンズ犬は5-フート-high (1.5 m)のポートランド石の台座に載り、ヒックス自身のテリア、ブロック(Brock)に基づいている。ピーター・メーソン(Peter Mason)はそれを「そのじみな前任者とのあだっぽい対照」("a coquettish contrast to its down-to-earth predecessor")と説明した[97]

British Medical Journal』(Clinical Research 版)は、1986年3月に、バタシー評議会と大ロンドン市議会(Greater London Council)がそれを許可したことを批判する社説「バタシーの新しい反生体解剖者の傲慢な彫像」("A new antivivisectionist libellous statue at Battersea")を掲載した[98]

前の記念碑の運命をこだまさせて、新しいイヌは1992年にバタシー・パークの所有者ら、保守党のワンズワース特別区(Borough of Wandsworth)によって保管場所に移された、彼らは公園の改修計画の一環として言った。反生体切開者らは、その説明を疑がってその帰還を求める運動を行なった、それは1994年に、以前より人里離れた場所であるオールド・イングリッシュ・ガーデンの近く、その公園のウッドランド・ウォークの中に、復帰した[99]

新しい像は2003年に歴史家ヒルダ・キーン(Hilda Kean)によって批判された。彼女は古いブラウン・ドッグをラジカルな、まっすぐな、けんか腰な声明と見なした。「このイヌは反抗の公的なイメージからペットに変わっている」("The dog has changed from a public image of defiance to a pet")。キーンにとって、「遺産」("heritage")としてオールド・イングリッシュ・ガーデンの近くに位置する、新しいブラウン・ドッグは、あまりに安全すぎる。それは、その物議をかもす先祖とは異なり、だれをも心地よくなくさせない、と彼女は主張している[100]

情報源[編集]

[編集]

  1. ^ 2012年にイギリスで411万件の実験が、うち4,843件がイヌで、行われた。[10]
  2. ^ 1876年の法律は、1986年の動物(科学的処置)法(Animals (Scientific Procedures) Act 1986)に置き換えられるまで有効であった。
  3. ^ マージョリー・F・M・マーティン(Marjorie F. M. Martin) (『The British Medical Journal』、1956年9月15日)――「最終的に自治区議会が彫像を撤去しなければならないと決定したとき、彼[特派員の父親であり、バタシーの自治区の調査官]は、その夜、それをわれわれの自転車置き場に持ってきた。そこは法廷闘争が終わるまで、発見される可能性が低かった。最終的には、それはコーポレーション・ヤードに移動させられた。」("When eventually the Borough Council decided that the statue must be removed, he [the correspondent's father and borough surveyor of Battersea] brought it that night into our bicycle shed, where it was unlikely to be found, until the legal battles were finished.Eventually it was removed to the Corporation yard.")[94]

脚注[編集]

  1. ^ Baron 1956; Linzey & Linzey 2017, 25.
  2. ^ Lansbury 1985, 10–12, 126–127.
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  8. ^ Tansey 1998, 20–21.
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  13. ^ Bernard 1957, 15.
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  15. ^ Hampson 1981, 239; Cardwell 1876.
  16. ^ Tansey 1998, 20–21; for Klein, see Rudacille 2000, 39.
  17. ^ Hampson 1981, 239; National Anti-Vivisection Society, 24 July 2012.
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引証された著作[編集]

書籍

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  • West, Anna (2017). Thomas Hardy and Animals. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 978-1-107-17917-2 

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