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ブカ (イルハン朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ブカ(Būqā بوغا、生没年:? - 1289年)は、イルハン朝に仕えた軍人・政治家。アルグン・ハンに仕え、ワズィール(宰相)となり、ハンに次ぐ絶大な権力を持ったが処刑された。

生涯

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アバカ・ハンの崩御

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1282年、第2代君主アバカ・ハンが崩御したため、マラーゲ市に居合わせたハトゥン、親族の王侯および諸将軍はアバカに対する葬礼とその後嗣を選出する審議をするために会議(クリルタイ)を開いた[1]。これより先、アバカから召されていた息子アルグンはその途中で父の崩御の知らせを聞き、マラーゲ市に赴いた[1]。この地でハトゥンたちや親族の諸王侯は慣習に従ってアルグンに杯を献じた[1]。アルグンに忠誠をつくしている将軍ブカはアバカ家の将校たちに対してアルグンに仕えるよう命じた[1]。やがてアバカの弟であるテグデルグルジア王国から葬礼の場所に到着した[1]。葬礼が終わったのち、集会に参加した人々はジャガトゥに赴いた[1]。会議は三派に分かれ、フレグの子であるアジャイ、コンクルタイ、フラジュウの3人、フレグの次男ジュムクル(ジョムクル)の子である王侯ジュシカブ、キンシュウは将軍シクトルスウンジャク、アラブ、カラ・ブカと共にテグデルを推挙した[2]。将軍ブカ、アルク、アク・ブカおよびアバカ家の将軍たちはアルグンを推挙した[2]。フレグの妃でアバカの妃となったオルジェイ・ハトゥンはアバカの弟モンケ・ティムール(モンケ・テムル)を推挙した[2]。しかし、まもなくモンケ・ティムールが死去したのでオルジェイ・ハトゥンはクトイ・ハトゥンと同じく、アルグン側についた[2]。しかしながら、チンギス・カンのヤサによれば、カン(ハン)位を継承すべき者は王室の年長者であったため、テグデルの方が優勢であった[2]。アルグンの重臣の一人であるシーシー・バクシーはテグデルが軍の諸将の大多数に支持されているのを見て、アルグンに自発的に譲歩するよう勧め、アルグンがこれを承諾するやいなや、1282年5月6日に満場一致でテグデルは第3代カン(イルハン)に推戴された[2]

アルグンが降伏する

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アルグンと手を取り合うスルターン・アフマド(テグデル)

1284年4月26日、アルグンが反乱を起こしたため、スルターン・アフマド(テグデル・ハン)はトダイ・ハトゥンとの結婚式を挙げた後、モンゴル軍、ムスリム軍、アルメニア軍、グルジア軍合わせて8万騎を率いてムーガーンを出発した[3]。アルグンの2人の使節はアク・ホージャ平原でアフマドに謁見した[3]。二人はアルグンからの伝言をアフマドに差し出した[4]。伝言では「自分は陛下と戦うつもりはなく、アリナクが攻撃したから自分を守ったまでです」と言っていた[4]。アフマドの諸将はアフマドにアルグンを許して作戦を終えるよう諫めたが、アフマドは耳を傾けなかった[4]。そこで占星術者はこの遠征はアフマドになんの有利な状況を示していないと明言すると、アフマドは怒った[4]。アルグンの使者レグズィーはアフマドに対し、「和睦しなければアルグンとカラウナスが合流し、取り返しのつかないことになるぞ」と脅した[4]。6月1日、アルグンの子ガザン、ネグデル・オグルの子オマル・オグルが多数の将校を伴ってスィームナーン地方の1村落で和睦を求めてきた[4]。3日後、アフマドは王侯トガ・ティムールとスケイを将軍ブカ、ドラダイ・ヤルグチとともに派遣し、アルグンに対して「服従を証明するには自ら自分のもとへ来見するべきである」と通告させた[5]。6月29日、アルグンはアフマドに降伏した[6]

ブカがアルグンを救出

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将軍ブカはもともとアルグンと親密な関係にあったが、スルターン・アフマド即位の時以来アフマドのもとにいた[7]。しかし、最近ではアフマドはブカよりもカラ・ブカという将校の方を重用するようになっていたため、ブカはアルグンを救出することを決意し、7月4日、数人の将軍に連絡して「アフマドはかつてその腹心スケイ、カラ・ブカ、アリナク、エブゲンとともにイスファラーイン市付近でなんじらを殺そうとしていた」と言い、あることないことを吹き込んだ[8]。これにそそのかされた王侯ジュシカブ、フラジュウと諸将はブカに従い、その夜アルグンが軟禁されている幕営に入り、アルグンを救い出した[9]。その後、彼らは甲冑をつけてアリナクの幕営を襲ってアリナクを粉々にして殺した[9]。その他の者は殺されるか臣従した[9]。カラ・ブカ、バヤン、クトブは逮捕されて翌日死刑となった[10]

アルグンの即位

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アルグンとクトルグ・カトゥン

1284年、アルグンの反撃によりスルターン・アフマドは処刑され、代わってアルグンが第4代イルハンに即位した[11]

アルグンは王侯バイドゥバグダードの統治権を、王侯ジュシカブにディヤールバクルの統治権を、王侯フラジュウにルームの統治権を、叔父のアジャイにはグルジアの統治権を、長男のガザンにはホラーサーンマーザーンダラーン、ライおよびクーミス地方をそれぞれ与え、ガザンには王侯キンシュウとアルグン・アカの子アミール・ノウルーズを副官として付けた[12]。1284年9月15日、アルグンはブカにワズィール(宰相)の地位を授与し、彼の頭上に金粉を散布させた[12]

そのころ、前宰相であったシャムスッディーン・ジュヴァイニーは混乱の最中逃げまどい、イスファハーン市にいた[13]。どういう状況になっているのか情報がつかめないまま3日滞在し、ルリスターンへ逃げ込んだ[13]大ルルアタベクであるユースフ・シャー1世はシャムスッディーンをアルグンにとりなした[13]。シャムスッディーンはアルグンの宮廷へ赴く途中、アルグンの派遣した将校たちから大赦をもらい、9月22日にクルバーン・シラへ到着した[14]。シャムスッディーンは旧友であるブカの家に宿泊し、翌日ブカによってアルグンに紹介された[14]。アルグンはシャムスッディーンを厚く歓迎し、ブカの代理宰相に任命した[14]

シャムスッディーンの処刑

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シャムスッディーンは多くの官吏から嫉妬を受けており、なかでもアリー・タムガーチー・ファフルッディーン・ムスタウフィーとフサームッディーン・ハージブは彼を陥れようと考えた[15]。彼らはブカにシャムスッディーンの脅威を言葉巧みに説き伏せた[15]。ブカは彼らの話に動かされ、同じ話をアルグンにし、シャムスッディーンに対する怨みをかき立てた[15]。アルグンはこれまでも同様の話を別の人から聞いてはいたが、信じることはなかった[15]。しかし、最も信頼を置くブカからの進言だとしたら、ためらいなく二人の裁判官カダガイとウゲデイに命じてシャムスッディーンの訊問を始め、罪状を調査させた[15]。モンゴルの風習に従ってシャムスッディーンの手が縛られ、杖刑に処された[16]。また、シャムスッディーンには国庫に二千金トゥメンの支払い命令があったが支払うことはできないと固辞したため、1284年11月16日アブハル市外のアブハル河畔の処刑場で手足を縛られた状態で高い場所から3回地面に落とされ、さらに足で踏みつけられて絶命した[17]。最後に死刑執行人たちはシャムスッディーンの首を斬り落とした[17]。彼の死はペルシア全土において歎き悲しまれた[17]

ホージャ・ハールーンの死

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ブカはアミール・アリー・タムガーチーをタブリーズ市に派遣してシャムスッディーンの財産を没収させた[18]。彼の子のひとりヤフヤーはこの都市で死刑に処された[18]。しばらくしてイラーク・アラビーで王侯バイドゥのもとに軍隊を指揮していた将軍アルクは富豪マジュドゥッディーン・アシールからバグダード州の租税収入の莫大な額を横領しているのではないかと指摘されており、そのマジュドゥッディーンと、シャムスッディーンの別子でこの地方の徴税官であったホージャ・ハールーンが内通しているという疑いがあったため、君主の命令なしに二人の首をはねた[18]

クビライ・カアンより封冊される

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大元モンゴル第5代カアン・クビライ

1286年2月24日[注釈 1]、将軍オルドカヤがクビライ・カアンの勅書を奉じて元朝より到着した[20]。クビライはアルグンにカン(ハン)の称号を与え、その父アバカの王位継承を追認し、ブカにはチン・サン(丞相)という中国風の称号を与えた[19]。4月7日、これによりアルグンは改めて即位式と祝宴をおこなった[19]。アルグンは勅令によってブカにほぼ無制限の大権を授与し、9つの大罪を犯さない限りハン自身にしか訊問できないこと、ハンの勅令はブカの印璽(アル・タムガ)が押印されていない限り執行できないこと、ブカの命令はハンの裁量を必要としないことを決定された[19]

ファールスの采邑問題

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シーラーズ市の著名なサイード族のひとりで、アバカ・ハンの時代にアルグンに仕えていたファフルッディーン・ハサンはアルグンに対してシーラーズ地方にある多くの土地はブワイフ朝のスルターン・アズド・アッ=ダウラの娘から継承した自分の祖父で大法官のサイード・シャラフッディーンに属していること、ファールスの王侯アタベク・アブー・バクルがこれらの地所を国庫へ没収し、これによってサイード・シャラフッディーンの子孫を不正にも踏み倒したものであることを何度も進言した[21]。ファフルッディーンはその苦情申し立ての証拠としてアズド・アッダ=ウラの時代の勅令、法官(カーディー)たちによって証明され、有力者たちの証言する不動産登記証書などの公正証書を提出し、アルグンにこの地所を国庫から分離し、これをアルグンの采邑(インチュウ)へ合併する命令をアバカ・ハンから求めてほしいと懇願した[21]。アバカはこれに同意し、自分の将校のひとりをサイードとともに派遣し、シーラーズ市へ行ってこの財産譲渡を行わせようとした[21]。この都市へ着いて、彼らは峻厳な手段に訴えて、税務官庁の主な役人に問題の地所を彼らの所有へ移すよう強制しようとした[21]。しかし、ムハンマド・ベイならびに他のモンゴル司令官たちはこれらの税務官を庇護し、もたらされた命令を執行することに反対したのでこの計画は失敗した[22]。サイード・ファフルッディーンはアルグンのもとへ帰り、隠忍自重した[22]。その後、アルグンが即位すると、彼は勅令を出してファフルッディーン家の地所をその手に残ってる証書に基づき、国庫から回収しようとした[22]。将校サイードはこの時オルドにいたファールスの財務官吏たちを集め、これらの地所とさらには最近数年間の収入の返済を彼らに要求した[22]。ブカはかつてこの問題に関して道理にかなった意見をアルグンに進言していた[22]。しかし、アルグンはこの地所を分離させようとしており、ブカの反対を受け入れず、ブカにはこの件には一切口出ししてはならぬと命じた[22]。同時に全国におけるこれら私有地の管理はノヤン・タガチャルに委ねられた[22]。サイード・ファフルッディーンはアルグン・アカの子ユル・クトルグとともにシーラーズ市へ赴いて、横領された地所を占有すべしとの命令を受けた[22]。長官(マリク)、法官(カーディー)たちの誰も法律または慣習に当然基づいている手段と食い違ったことを主張できなかったので、この二人の委員はその好きなように行動する自由をもって私有地のためにファールス全州において村落、田畑、園林、賦役、河渠、水磨の四分の一を占有し、これら私有地の収入は毎年、60ディーナールで請け負われることになった[22]。多くの地所に関して多くの家族の間で100年以来、相続あるいはその他の方法で取得されてきた財産に対する権利があると異議申し立てがされたが、それらも同じく私有地に併合された[22]。しかしながらサイード・ファフルッディーンはシーラーズ到着後18日で死んだ[23]。ユル・クトルグはその子サイード・クトブッディーンに作業の完遂を委ねた[23]

ブカの陰謀

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この事件はブカを怒らせ、彼の敵の筆頭にはクーヒスターン州の長官タラガイの子トガンがおり、トガンはアルグンの懇意な人々のなかでも最も親密な関係にあった[23]。トガンはアルグン・ハンと二人きりになった時「ブカは絶大な権限を行使して親族の諸王侯、ハトゥンたち、アミールたちに大きな影響力を及ぼしているので、もし彼が悪巧みを抱いたならばきわめて恐ろしいことになるでしょう」と進言した[23]。アルグンはこの話を話半分で聞いていた[23]。ある日、アルグンがアタラクに住んでいた時、ブカとタクナはアルグンのいるところで酒を飲んだ後、酔って喧嘩を始めたが、アルグンはタクナの常軌を逸した振る舞いをまったく叱責しなかった[23]。このことはアルグンに対するブカの怨恨の一つとなった[23]。その後、タガチャルとその取り巻きがブカに対する敵意を表しはじめたため、ブカはリウマチと偽ってしばらく宮廷への出仕を欠席した[24]。その間に、王侯フラジュウ、ジュシカブ、カラ・ブカ、キンシュウ、トガ・ティムール、ガバルチン、アミール・アルク、クルミシ、マチュウ、トグルク、カラウナス、グルジア王デメトレ2世、その他の人々と次々と盟約を結び、行動を起こす機会を待った[24]。ケユゥニュクレミシ[注釈 2]と呼ばれるモンゴル人の新年の日に際し、ジュシカブは朝賀に来た際にアルグンにブカの計画を暴露した[24]。アルグンはブカを信用していたので、証拠を出すよう要求した[24]。そこでジュシカブは盟約書(ムチェルガ)を提出するとアルグンはようやく信じて憤慨した[24]

逮捕・処刑

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アルグンの命令によって3人の将校、スルターン・イダージー、ドラダイ、トガンはその夜、軍隊を率いてブカを逮捕するためクル河畔に向かった[25]。彼らは夜明けにブカの天幕を襲撃したが、ブカはいなかった[25]。ブカは事前に察知し、クル川を渡ってオルジェイ・ハトゥンの幕営に逃れていた[25]。オルジェイ・ハトゥンがブカを受け入れるのを拒否したので、ハトゥンの厩吏ザンギーの天幕のなかに宿泊した[25]。ドラダイとトガンはここにも探しに来てようやくブカを逮捕した[25]1289年1月6日、ブカがアルグンのもとに連れてこられると、将軍シクトルがブカを問い詰め、ブカは否認するばかりだったが、ジュシカブが盟約書を見せると気絶した[25]。アルグンは即座にブカの処刑を命じた[25]。人々はブカを天幕の外の処刑場に引きずっていき、トガンがブカの胸を蹴り、「なんじは君主になろうとした。ここがなんじの席である」と言い、首をはねた[25]。軍隊はブカの幕営を掠奪すべしとの命令を受け、ブカの共謀者たちは訊問され、処刑された[25]

ブカの弟アルクも処刑

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ブカの弟アルクはバグダード、メソポタミア、ディヤールバクル諸州の総督であり、当時、ディヤールバクル地方で冬営していたが、アルクを逮捕するため、ムーガーン地方からバイトミシュという将校が派遣された[26]。バイトミシュはアーミド市付近に到着してこの地方に駐屯していたモンゴル軍を動員し、アルクを包囲した[26]。アルクが何が起きたかわかっていなかったため、バイトミシュはブカが処刑されたことと逮捕状が出ていることを伝えた[26]。アルクは鎖につながれて逮捕されると、1289年2月22日に処刑された[26]。アルクの首級とブカの首級はチョガン橋上にさらされた[26]

脚注

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注釈

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  1. Arendsは1284年2月23日とし、K.Jahnは1284年2月3日としているた[19]
  2. モンゴル語で「新年」「新年宴会」の意。語尾の「ミシ」はテュルク語形である[24]

出典

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  1. 1 2 3 4 5 6 佐口 1976, p. 130.
  2. 1 2 3 4 5 6 佐口 1976, p. 131.
  3. 1 2 佐口 1976, p. 163.
  4. 1 2 3 4 5 6 佐口 1976, p. 164.
  5. 佐口 1976, p. 165.
  6. 佐口 1976, p. 167.
  7. 佐口 1976, p. 169.
  8. 佐口 1976, p. 170.
  9. 1 2 3 佐口 1976, p. 171.
  10. 佐口 1976, p. 172.
  11. 佐口 1976, p. 190.
  12. 1 2 佐口 1976, p. 191.
  13. 1 2 3 佐口 1976, p. 192.
  14. 1 2 3 佐口 1976, p. 193.
  15. 1 2 3 4 5 佐口 1976, p. 194.
  16. 佐口 1976, p. 195.
  17. 1 2 3 佐口 1976, p. 196.
  18. 1 2 3 佐口 1976, p. 197.
  19. 1 2 3 4 佐口 1976, p. 200.
  20. 佐口 1976, p. 199.
  21. 1 2 3 4 佐口 1976, p. 201.
  22. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 佐口 1976, p. 202.
  23. 1 2 3 4 5 6 7 佐口 1976, p. 203.
  24. 1 2 3 4 5 6 佐口 1976, p. 204.
  25. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 佐口 1976, p. 205.
  26. 1 2 3 4 5 佐口 1976, p. 206.

参考資料

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  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 5巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫298〉、1976年12月。ISBN 4582802982 
先代
シャムスッディーン・ジュヴァイニー
イルハン朝の宰相
1284年 - 1289年
次代
サアド・アッ=ダウラ (イルハン朝)