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フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブリュッヒャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブリュッヒャー、1790年頃

フリードリヒ(フレゼリク)・ヴィルヘルム・フォン・ブリュッヒャーFriedrich(Frederik) Wilhelm von Blücher, 1760年1月14日 ペンツリン英語版 - 1806年5月16日 コペンハーゲン)は、北ドイツ出身のデンマークの軍人・廷臣。

メクレンブルクの古い貴族家門ブリュッヒャー家ドイツ語版の生まれ。父はデンマーク陸軍オルデンブルク連隊ドイツ語版の将校だったカール・フォン・ブリュッヒャー(1719年 - 1775年)、母はヘンリエッテ・ゾフィー・フォン・プレッセン=ヘルツベルク(1738年 - 1783年)。

デンマーク王クリスチャン7世の異母弟で、王家の推定相続人として世継ぎ王子(Arveprins)の称号を有していたフレゼリク王子の宮廷に侍従、後には高級副官、宮内長官として仕え、さらに王子の妻ゾフィー・フリーデリケ・ツー・メクレンブルクの愛人となって彼女の産んだ第2子から第5子の計4人の実父になったと、王室内で広く信じられていた[1][2][3][4]

ゾフィー・フリーデリケ王女の産んだ次の4人の子供たちは、ブリュッヒャーが実父であった可能性がある。

1805年、王子の同名の甥フレゼリク王太子は、妹の夫であるアウグステンボー公フレゼリク・クリスチャン2世に宛てた手紙の中で、叔父とその宮内長官との関係を次のように記述している:

叔父上はとても愛らしい4人の子供を[妻に]産ませた男のことを好いていて、奴を追い出そうとかいう気は微塵もないらしい[5]

ブリュッヒャーは軍人として陸軍中佐まで昇り、近衛騎兵連隊英語版隊長の肩書も得た。私生活では、1802年に結婚した妻ヘレーネ・ティーゲソンとの間に1男1女をもうけ、息子フリッツ・エマヌエル・フォン・ブリュッヒャーデンマーク語版もデンマーク宮廷に仕え、陸軍少将にまで昇った。また、弟コンラート・ダニエル・フォン・ブリュッヒャードイツ語版はデンマーク王領アルトナ総督などの行政官を務めた。

引用・脚注

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  1. ^ Christian 8.”. Den Store Danske. 2016年8月15日閲覧。
  2. ^ Bramsen 1985, p. 29-31 & 36-37.
  3. ^ Bo Bramsen (2002) (デンマーク語). Huset Glücksborg. Europas Svigerfader og hans efterslægt. 1. Copenhagen: Forum. p. 200. ISBN 87-553-3230-7 
  4. ^ Rie Krarup (1985) (デンマーク語). Kvindelist og kongelast. Blide duer og stride fruer i danmarkshistorien. Copenhagen. ISBN 978-87-15-05057-2 
  5. ^ Dehn-Nielsen 1999, p. 12.

参考文献

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  • Bramsen, Bo (1985). “Arveprins Frederik og hans ægteskab”. Ferdinand og Caroline : en beretning om prinsen der nødig ville være konge af Danmark [Ferdinand and Caroline : an account of the prince who was reluctant to be king of Denmark] (4th ed.). Copenhagen: Nordiske Landes Bogforlag. ISBN 87-87439-22-0 
  • Dehn-Nielsen, Henning (1999). Christian 8. : konge af Danmark, konge af Norge [Christian VIII : King of Denmark, King of Norway]. Copenhagen: Sesam. ISBN 87-11-13191-8