フリッパーズ・ギター
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フリッパーズ・ギター | |
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出身地 |
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ジャンル | |
活動期間 | 1987年 - 1991年 |
レーベル | ポリスター |
旧メンバー |
フリッパーズ・ギター(英語: The Flipper's Guitar、Flipper's Guitar)は日本のバンド。「パーフリ」「フリッパーズ」という略称で呼ばれる。
経歴[編集]
原型は、小山田圭吾(当時は「圭悟」、ボーカル、ギター)と井上由紀子(キーボード)の二人で結成したバンド「Pee Wee 60's」。この二人以外のメンバーが脱退したことを機に「ロリポップ・ソニック(Lollipop Sonic)」へ改名し引き続きライブハウスなどで活動。二人でのライブを数回、行なった後に吉田秀作(ベース)、荒川康伸(ドラムス)が加入。最後に小沢健二(ギター、サイドボーカル)が加わり、五人編成となる。当初はネオGSの枠で捉えられていた。メジャーデビューの際、「ロリポップ・ソニック」はあまりにも造語感が強く、この名前で活動するには窮屈なのではないか、という牧村憲一の助言に基づき、「フリッパーズ・ギター」と改名した[3]。
1989年、小沢が作詞を担当した全曲英詞の1stアルバム『three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった』でポリスターよりデビュー。その直後に小山田の大事故により、活動が一時停止[4]。その後、荒川、井上、吉田が脱退し、小山田と小沢の2人編成となる。1990年、全曲日本語による2ndアルバム『CAMERA TALK』をリリース。
1991年、3rdアルバム『DOCTOR HEAD'S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-』をリリース後、程なくして突然の解散表明。既にチケットの発売が開始されていたライブツアーの直前に解散したため、世間から少なからず批判を受けた。その後、二人はそれぞれコーネリアス、小沢健二としてソロ活動を開始した。後日、小山田はインタビューで、「(フリッパーズは)突然やめちゃったんで、当時、新聞にたたかれたり、みんなに迷惑かけました。なにか一つ理由があったわけじゃなく、もうお互い、そういう感じになってたんです、きっと。「やめよっか」みたいな感じだったと思います。」とインタビューで答えている[5]。
影響[編集]
1stアルバムは全曲英語による歌詞という当時としては極めて異例の挑戦的なものだった。2ndアルバムはある程度聴衆に歩み寄り全曲日本語詞となる。1st、2ndアルバムは、アズテック・カメラ、スタイル・カウンシル、ヘアカット100、モノクローム・セットを彷彿とさせるいわゆるネオアコ、ギターポップなどのインディー・ロックに属する楽曲に仕上がっている。しかし、3rdアルバムはトレンドフォロワー的な傾向が強く、ビーチ・ボーイズやプライマル・スクリーム、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインなど、当時の流行を積極的に取り入れたものとなっており、また当時のイギリスなどに見られたレイヴ・カルチャー、シューゲイザーの影響も色濃く反映された音に仕上がっている。アルバムのアート・ディレクションとプロモーション・ビデオの監督は信藤三雄が手がけた。
また、ファッション雑誌『Olive』に盛んに広告を出したことでも知られており、彼らのベレー帽やボーダーシャツ、ホワイトジーンズなどのファッションは当時の若者たちに強い影響を与えた。
2000年代までテレビ番組(例:落下女)やコマーシャル(例:日産K12型マーチ)でBGMとして使われていた。なお、小泉孝太郎出演の『孝太郎プラス』のオープニングにも曲が使用されていた。
2015年から、TBS系情報ワイド番組『あさチャン!』の実質的なテーマ曲として所々に使用されている。
ディスコグラフィー[編集]
シングル[編集]
- Friends Again(1990年1月25日)
- Friends Again フレンズ・アゲイン
- Happy Like a Honeybee ピクニックには早すぎる
- 恋とマシンガン(1990年5月5日)
- カメラ! カメラ! カメラ!(1990年9月25日)
- LOVE TRAIN(1990年11月21日)
- LOVE TRAIN
- SLIDE ※アルバイト情報誌『an関西版』CM曲
- GROOVE TUBE(1991年3月20日)
- GROOVE TUBE Part1 ※マツダ・ファミリアCM曲
- GROOVE TUBE Part2
- 星の彼方へ(1991年8月25日)
- BLUE SHININ' QUICK STAR 星の彼方へ ※'91~'92 ミズノ・スキーウェア カラーケルヴィンサーモCF曲
- DOLPHINE SONG ドルフィン・ソング
スタジオ・アルバム[編集]
- three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった(1989年8月25日)
- CAMERA TALK(1990年6月6日)
- DOCTOR HEAD'S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-(1991年7月10日)
※『three cheers for our side』と『CAMERA TALK』は2006年8月25日に紙ジャケット仕様の限定版として再発。同じく両タイトルが2010年1月27日にSHM-CD化され再発された。
コンピレーション・アルバム[編集]
- fab gear(1990年12月)
- フリッパーズ・ギター・プロデュースのオムニバス・アルバム。当時解散していたモノクローム・セットをポリスターが予算を工面し再結成させた。
ベスト・アルバム[編集]
いずれも解散後に発売。
- colour me pop(1991年12月21日)
- マイク・オールウェイ監修のベスト・レアトラック集。
- on PLEASURE BENT (1992年4月1日)
- ライブ・トラック集。オリジナル盤は『続カラー・ミー・ポップ -on PLEASURE BENT-』だったが、再発に際しタイトルを変更。
- Singles(1992年9月26日)
- シングル集。2010年1月27日にSHM-CD化され再発。
- TREASURE COLLECTION / フリッパーズギター
- ベスト盤。レコード会社主導によるTREASURE COLLECTIONシリーズの一枚。
映像[編集]
- The Lost Picutures 〜それゆけフリッパーズ!!名画危機一髪〜 (1990年3月10日)- VHS
- Original Clips & Cms 〜続・それゆけフリッパーズ!! オリジナルクリップとCM集〜(1990年10月15日)- VHS
- Testament 〜新・それゆけフリッパーズ!! フリッパーズ・ギターは二度死ぬ〜 (1991年12月1日)- VHS
- THE LOST PICTURES, ORIGINAL CLIPS & CM'S plus TESTAMENT TFG Television Service (1993年9月1日)- VHS
- 上記3タイトルを1つにまとめたもの。2004年1月28日にDVD化。
タイアップ[編集]
タイトル | タイアップ先 |
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Friends Again -フレンズ・アゲイン- | 映画『PとJK』劇中歌[6] |
Happy Like a Honeybee -ピクニックには早すぎる- |
エピソード[編集]
- バンド名は、アメリカのテレビドラマ『わんぱくフリッパー』から取られている。「『フリッパー』っていう言葉の響きが良くて、新しいバンド名に使いたかった」と、後日コメントした。当時ドラムスの荒川康伸は後に「前略小沢健二様」に収録のインタビューで「『フリッパーズ・ドラム』が良かったのに」と述べている。
- 前述の「Pee Wee 60's」結成のきっかけは、当時別のバンドのメンバーだった井上がファッション誌に載っていた小山田に自分とバンドを組むようにナンパしたところから始まったという。1stアルバムの歌詞カードにはそのいきさつが漫画で描かれている。
- 小沢が後に自身のエッセイで、「二人(小山田と小沢)には、なんとなく取り決めがあった。」と記載している。取り決めは、「リードボーカルは、小山田が歌う。」、「作詞とかタイトルは、小沢が決める。」というもの。2ndアルバム以降は作詞作曲は共作名義となっているが、楽曲によっては一人で作曲した作品があることも、記載している[7]。
- ビデオ『The Lost Pictures』には、後に小山田がプロデュースするカヒミ・カリィ(当時は本名の「比企真理」)が出演している。オープニングには東幹久のデビュー映画『オクトパス・アーミー』の映像が挿入されている。ちなみにこの映画の主題歌は「Friends Again」だった[8]。
- 上記ビデオで小山田は足を引きずっているように見えるが、これは撮影前に事故で怪我をしたためである。また、彼はその入院中にブライアン・バートンルイスと知り合い、濃密な関係を築いていく。
- ニューエスト・モデル(現ソウル・フラワー・ユニオン)のライヴにゲスト参加し、その直後、中川敬とロッキング・オン誌上で対談した二人は、中川に「もっとライヴをやるべきやで」と言われ、即「中川さん、もっとオリーブとかに出なきゃ」と切り返した。のちに中川は、影響を受けた日本の同時代アーティストに、ボ・ガンボスとフリッパーズ・ギターの二者だけを挙げていた。
- 解散後に出された『colour me pop』『on PLEASURE BENT』は、後に小山田が主宰するレコードレーベル「トラットリア (trattoria)」のMENU1、2となっている。
- 1990年秋、NECノートパソコン、ハンディ98のCMキャラクターとして新聞広告に登場したが、その後のTVCMでは大江千里に交代した。
脚注[編集]
- ^ a b Martin, Ian. Flipper's Guitar | Biography & History - オールミュージック. 2020年12月10日閲覧。
- ^ a b c 森朋之 (2020年6月24日). “フリッパーズ・ギター『CAMERA TALK』から30年 日本の音楽シーンに影響与えた再構築の手法”. Real Sound. blueprint. 2020年12月10日閲覧。
- ^ 「MUSIC MAGAZINE 増刊 Japanese Rock/Pop 1」70頁
- ^ 「Friends Again」のMVで小山田が松葉杖を引きずっているのはそのため。
- ^ 「音楽は空気の振動に戻りつつある」 小山田圭吾と音楽の30年 2019年4月17日 Yahoo!ニュース
- ^ “映画「PとJK」音楽は大橋トリオ、劇中歌にパーフリ&ブルーノ・マーズ”. 音楽ナタリー. (2016年11月30日) 2016年11月30日閲覧。
- ^ 「連載「DOOWUTCHYALIKE」 75 無色の混沌」『Olive 1997年12月18日号』第16巻第23号、マガジンハウス、1997年9月20日、 67頁、 通巻358号。
- ^ 2004年発売のDVD『THE LOST PICTURES, ORIGINAL CLIPS & CM'S plus TESTAMENT TFG Television Service』では、この映画のシーンはカットされている。
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