フランツ・ミクロシッチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

フランツ・ミクロシッチスロベニア語: Franc (Franco, Fran) vitez pl. Miklošič, ドイツ語: Franz Xaver Ritter von Miklošić (Mikloschich), 1813年11月29日 シュタイアーマルク公国下シュタイアーマルクルッテンベルク Pichelberg bei Luttenberg(現スロヴェニア・リュトメル Radomerščak, Ljutomer) – 1881年3月7日)はスロヴェニア出身のオーストリア言語学者1850年-1886年までウィーン大学教授

独自の体系を持つ、近代スラヴ語学を創始。 ルーマニア語アルバニア語ロマーニー語の研究も行った。 ロマーニー語の資料を集大成し、本格的な研究の基礎を築いた。

生涯[編集]

故郷リュトメル(Ljutomer)の小学校とヴァラジディン(Varaždin: 現クロアチア)とマリボルギムナジウムを卒業した後、1838年グラーツ大学(現オーストリア)で文学の博士号を取得した。そこで少しの間、法学を教える傍ら研究を行い、1840年にウィーン大学で法学の博士号を取得した。

1844年にウィーン宮廷図書館に職を得たため、法学の研究はせず、スラブ語研究に身を捧げた。同年、 フランツ・ボップ比較文法に批判的な評価を行った。この比較文法は、後にスラブ学に革新を齎らす意義深い研究の先駆けとなっている。

スロベニアの言語学者イェルネイ・コピタルの死後、ミクロシッチはスラブ語、ルーマニア語及びギリシア語検閲官となった。1846年にはフランツェ・プレシェーレンの「祝杯」の第3と第4詩節の検閲を行った。

1848年革命時にはスロベニア・ドナウ共同体委員長となり、統一スロベニアの政綱を共同策定した。政綱は、同年4月20日ウィーンのスロベニア人がオーストリア国会上院で同胞に向かって提唱した。

1849年にウイーン大学にスラブ学研究室が設立された。ドイツ学研究室が設立されたのは翌年の事である。ミクロシッチはそこで教授となり、3年後には文学部学長となった。1854-1855年にはウイーン大学総長を務めている。1864年には、今までの功績によりナイト(独:de: Ritter /スロベニア語sl:vitez)の称号を得た。

1886年に引退し、5年後に永眠した。


著書[編集]

  • Lexicon linguae slovenicae veteris dialecti1850年)(1862-65 als Lexicon Palaeuslovenico-graeco-latinum)
  • Vergleichende Grammatik der slawischen Sprachen (四巻、1852年-1874年
  • Vergleichende Formenlehre der slawischen Sprachen1856年
  • Monumenta Serbica Spectantia Historiam Serbiae, Bosniae, Ragusii1858年
  • Etymologisches Wörterbuch der slawischen Sprachen1886年
  • Über die Mundarten und Wanderungen der Zigeuner Europas (12巻、1872年-1880年

関連項目[編集]