フランツ・ブライトハウプト

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フランツ・ブライトハウプト(親衛隊中佐時)

フランツ・ブライトハウプトFranz Breithaupt1880年12月8日 - 1945年4月28日)は、ナチス・ドイツ親衛隊の将軍。親衛隊の12ある本部の1つ「親衛隊法務本部」の本部長を務めた。最終階級は親衛隊大将及び武装親衛隊大将。

略歴[編集]

初期の人生[編集]

1880年12月8日にプロイセン王国軍の大尉の息子としてベルリンで生まれる。

1891年に陸軍士官学校に入り、1899年に卒業した後第42歩兵連隊の第5大隊に配属された。1905年10月に第42歩兵連隊の第3大隊に転属した。 第一次世界大戦が勃発すると、1914年8月に第42歩兵連隊の第5中隊の指揮官に任命される。1914年5月20日に大尉へと昇進した。1914年8月に頭部を負傷して入院するも10月には戦線へ復帰した。大戦中に一級鉄十字章および二級鉄十字章戦傷章の黒章と銀章を受章した。

ドイツ敗戦後の1919年に、エアハルト海兵旅団に参加し1921年まで所属した。その後はドイツ体操協会を1923年から1931年まで管理していた。 1929年4月1日から11月15日まで鉄兜団に所属した。

親衛隊入隊後[編集]

1931年8月1日に国家社会主義ドイツ労働者党に入党(党員番号602,663)。 1931年11月27日に突撃隊へ入隊。

1932年12月1日に親衛隊へ入隊(隊員番号39,719)。1933年7月31日から親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの幕僚となり、同時に親衛隊中佐となる。11月15日には親衛隊大佐へと昇進している。1935年5月1日に親衛隊ベルリン守備隊の名誉指導者となる。 1935年12月6日に国家社会主義帝国体育連盟ドイツ語版ベルリンブランデンブルクの名誉スポーツ大管区指導者となった。1936年4月1日からは親衛隊本部に所属する。1937年4月20日から親衛隊法務局における副官に任じられた。12月20日に外国為替に冠する法に違反したために懲戒処分を受けたが1938年4月14日に許されている。11月9日に親衛隊少将に昇進する。1939年11月1日から12月5日まで第8SS髑髏連隊指揮官を、12月6日から1940年9月20日まで第5SS髑髏連隊指揮官を務めた。1940年1月29日に民族裁判所の名誉判事となる。

1940年10月25日にブレスラウの警察署長に任命され、1942年8月15日まで務めた。12月20日に国家社会主義帝国体育連盟のシュレージエンにおける指導者となり、1941年2月にニーダーシュレージエンのスポーツ大管区指導者に任じられた。5月1日にはブレスラウにおける刑事警察の指導者となる。1941年からドイツ水難救助協会ドイツ語版の会長となる。

1942年1月1日に親衛隊全国指導者幕僚となり、3月1日から国家保安本部に所属する。8月15日に親衛隊法務本部の本部長に任命され、同時に親衛隊中将及び武装親衛隊中将へ昇進した。10月には国家社会主義帝国体育連盟ミュンヘンオーバーバイエルンにおけるスポーツ大管区指導者に任じられた。1944年4月20日には、親衛隊大将及び武装親衛隊大将に昇進した。

1945年4月28日にバッハドイツ語版にて、部下のカール・ラング親衛隊少尉によって射殺された。

キャリア[編集]

階級[編集]

出典[1]

受章歴[編集]

出典[2]

参考文献[編集]

  • Michael D. Miller著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(Bender Publishing) ISBN 9329700373

出典[編集]

  1. ^ Miller,p.178
  2. ^ Miller,p.182