フランソワーズ・ジロー
フランソワーズ・ジロー | |
|---|---|
| Françoise Gilot | |
|
ジロー(2013年) | |
| 生誕 |
Françoise Gaime Gilot 1921年11月26日 |
| 死没 |
2023年6月6日(101歳没) |
| 教育 | |
| 著名な実績 | 画家 |
| 配偶者 | |
| 子供 | 3人(クロード・ピカソ、パロマ・ピカソほか) |
| 受賞 | レジオン・ドヌール勲章 |
| 公式サイト |
www |
フランソワーズ・ガイム・ジロー(Françoise Gaime Gilot、1921年11月26日 - 2023年6月6日)は、フランスの芸術家である[1]。主に水彩画と陶芸を手掛けた。パブロ・ピカソと長く愛人関係にあったことでも知られており、回想録『ピカソとの日々』はベストセラーとなった。
若年期
[編集]ジローはフランスのヌイイ=シュル=セーヌで1921年11月26日に生まれた。父エミールは実業家で農学者、母マドレーヌは水彩画家だった。父は厳格な人物であり、ジローは元々左手で文字を書いていたが、4歳のときに父によって強制的に右手で書くようにしつけられた結果、ジローは両手利きになった。5歳のときに画家になることを志し、翌年から母が水彩画と墨絵を教え始めた。その後、母の絵の師匠であるマドモアゼル・ムージュに6年間師事した[2]。
教育
[編集]ジローの父エミールは、娘にも自分と同じくらいの教養や知識を身に着けてほしいと考え、娘の教育に非常に熱心だった。ジローは幼い頃から家庭教師をつけられ、6歳のときにはギリシャ神話についての十分な知識を持っていた。14歳までには、エドガー・アラン・ポー、シャルル・ボードレール、アルフレッド・ジャリの著作を読んでいた[3]。父はジローに、学校に通って科学者や法律家になることを望んでいたが、ジローは絵画に興味を持ち、巨匠たちの作品を理解し鑑賞する力を身につけるために、ヨーロッパの様々な美術館を訪れていた。17歳のときにパリ大学に入学し、1938年に卒業して哲学の学士号を取得した[4]。1939年にパリ・イギリス学院(現・ロンドン大学パリ研究所)で英語を学び[2]、ケンブリッジ大学海外試験評議会発行の英語能力証明書を取得した[2][5]。父は依然としてジローに国際法の学位取得を望んでおり、パリが第二次世界大戦の戦場となったため、フランス西部レンヌの法科大学院に入学した。しかし、ジローは19歳のときに、法律の勉強を放棄して芸術に人生を捧げることを決意した。亡命中のユダヤ系ハンガリー人画家ローズダ・エンドレから個人指導を受け、アカデミー・ジュリアンの授業にも参加した[6]。1942年、父からの強い勧めにより法律の勉強を再開したが、翌年の司法試験で筆記試験には合格したものの、口述試験で不合格となった[2]。
ピカソ
[編集]21歳のとき、ジローは当時61歳のパブロ・ピカソと出会った。それは1943年の春、ナチス占領下のフランスのとあるレストランでのことだった[6]。当時ピカソと付き合っていた写真家ドラ・マールは、ピカソが自分よりずっと若い芸術家を選んだことを知り、ひどく落胆した。それから約10年間ジローはピカソと交際し、1946年からピカソと同棲するようになった。ピカソはジローをモデルとした"La femme-fleur"(花の女)と題する作品を描いている。これは、ピカソの旧友で、ジローのことも気に入っていたアンリ・マティスが、もしジローの肖像画を描くなら体は淡い青、髪は葉のような緑色で描くだろうと言ったことに触発されて描いたものである[7]。
ピカソとジローは結婚はしなかったが、ピカソが子供たちを愛し世話すると約束したため、2人の間には子供が2人生まれた[8]。1947年生まれの息子のクロードと、1949年生まれの娘のパロマである[6]。
約10年間の交際期間の間、ジローはピカソから度々身体的虐待を受けただけでなく、ピカソの正妻でロシア出身の元バレエダンサーのオルガ・コクローヴァからもパリの路上で頻繁に嫌がらせを受けた[9][10][11]。サシャ・ルウェリンはジローの伝記で次のように書いている。
激怒したピカソは、彼女の所有物、美術作品や書籍、大切にしていたマティスからの手紙などを破壊した。「お前は砂漠へ一直線だ」と言い放つと、彼は彼女のキャリアを破壊しようとした。彼はあらゆる人脈を駆使し、ギャルリー・ルイーズ・レリにジローの代理店契約を辞めさせ、サロン・ド・メイに今後一切のジローの作品の出展を禁止するよう要求した。これらは「気難しい天才による不運な行動」として片付けられてきたが、今日では、これらの攻撃的な介入の本質が理解されつつある。それは、「いじめっ子による破壊的な行為」であったということである[12]。
一部の美術史家は、ジローがピカソと関係を持ったことが、ジローの芸術家としてのキャリアを短くしたと考えている。1953年にジローがピカソの元を去ったとき、ピカソは自分が知る全ての画商に、ジローの作品を購入しないようにと伝えた[9]。一方、ジロー自身も、自分をピカソと関連付けて定義するのを続けることが「芸術家として大きな不利益となる」と述べていた[13]。
ジローはピカソとの関係について、後に次のように語っている。
彼は私のことを全く知らなかった。私は非常に秘密主義的だ。私は微笑み礼儀正しく振る舞うが、それは私が同意しているという意味でも、私が言ったとおりに行動するという意味でもない。それは単なる目眩ましだ。彼は、私が他の女性たちと同じように反応すると考えていた。それは全くの間違いだった。私には別の考えがあった。私は彼に描かれることにナルシシズムを置かなかった。私は全く気にしていなかった[13]。
2人が別れてから11年が経った1964年、ジローは美術評論家のカールトン・レイクと共同で、回顧録『ピカソとの日々』(Life with Picasso)を執筆した[14]。この本は数十の言語に翻訳され、100万部以上を売り上げた[15]。ピカソはこの本の出版差し止めを求める訴訟を起こしたが、失敗した。それ以来、ピカソは実子のクロードとパロマとの面会を謝絶した[14]。この本の収益は全て、クロードとパロマがピカソの法定相続人となるための訴訟の費用に充てられた[16]。
創作活動
[編集]ジローは幼い頃から、母や祖母の影響で芸術に触れていた。ジローが5歳くらいのとき、祖母がパーティーを開いた。その会場でジローはある男性が気になった。祖母に尋ねると、その人物は画家のエミール・マイレだった[2][17]。ジローの父はマイレと親しくなり、ジローはよくマイレのアトリエへ行くようになった[3]。ジローが6歳のとき、画家である母はジローに美術を教え始めた。しかし、画家は消しゴムに依存しすぎてはいけないと考えていた母はデッサンを教えず、水彩画と墨絵を教えた。これらは、描き間違いをしても修正ができず、それを意図的に作品に取り入れるように母から指導された。13歳からは、母の絵の師匠であるマドモアゼル・ムージュに6年間師事した[2]。14歳のときに陶芸に出会い、その翌年にはポスト印象派の画家ジャック・ブールドレーに師事した[3]。21歳のときにピカソと出会った。ジローは、キュビズム画家としてのピカソの作品の影響を受け、独自の画風を確立した。ジローは、ピカソが時々用いたような鋭い輪郭や角張った形態は避け、有機的な形態を用いた。第二次世界大戦中、ジローの父は価値のある家財を持ち出そうとしたが、運搬中のトラックがドイツ軍の爆撃を受け、ジローの作品が失われた[6]。
戦後のジローは、ヨーロッパの芸術シーンを再定義した芸術家たちの中で活動した。1943年にパリで最初の重要な個展を開いた後[18]、ジローは著名な画商であるダニエル=ヘンリー・カーンワイラーと契約を結んだ。カーンワイラーと契約した女性芸術家は、ジローを含む2人だけだった[19]。1952年にカーンワイラーの画廊ギャルリー・ルイーズ・レリで初めて個展を開き、これがジローの人生とキャリアにおける決定的な転機となった[19]。
ジローの作品は、神話、象徴主義、記憶の力などの領域を掘り下げ、複雑な哲学概念を自由に探索している[20]。
1946年の作品"Adam Forcing Eve to Eat an Apple"(イヴにリンゴを食べさせるアダム)は、聖書の物語を再検証し、誘惑・罰・女性への非難を新たな視点で捉え直したものである[21]。
1961年から1963年にかけての『ラビリンス・シリーズ』は、ジローの最も独創的で重要な連作である。この連作では、ギリシャ神話、個人神話、サーカスのモチーフが用いられている[20]。ジローの絵画は躍動的なリズムで脈動し、慣習を打ち破ることで、神話的な物語の強烈な絵画的等価性を彼女の衝動が発見できるようにしている[20]。
1973年、ジローは学術誌『ヴァージニア・ウルフ・クォータリー』のアートディレクターに任命された。1976年から1983年まで、南カリフォルニア大学芸術学部の理事と夏季講座の講師を務め、組織運営の責任を担った[22][23]。
1980年代から1990年代にかけて、ジローはニューヨークのグッゲンハイム美術館で公演された作品のための衣装、舞台装置、仮面をデザインした[24]。
2018年8月、ジローはヴェネツィア、インド、パリへの旅を記録した3冊のスケッチブックを発表した[25]。
ジローの芸術家としての評価とその作品の価値は、年々高まり続けている。ニューヨークのメトロポリタン美術館やパリのポンピドゥー・センターなど、世界の主要美術館の常設展示にもジローの作品が収められている[26]。2021年、ジローが1965年に描いた娘パロマの肖像画『ギターを持つパロマ』が、ロンドンのサザビーズのオークションにおいて130万ドルで落札された[27]。2022年には、香港のクリスティーズで1977年の作品"Living Forest"が130万ドルで落札された[26][22]。死後の2024年、ジローの作品がパリのピカソ美術館に常設展示されることが決定した[28]。
今日では、ペンシルベニア州カレッジビルにあるアーサイナス大学バーマン美術館がジロー研究の国際的な中心地となっている。同館は、ジローの個人アーカイブのほか、270点以上のジローの作品を収蔵している。その中には、ジローの遺産を除けば最も包括的なリトグラフとエッチングのコレクションもある[13]。
ジローの創作活動は80年にわたり、1600点の絵画と3600点のその他の紙の作品を残した[21]。ジローは「自分が言いたいことが何であるかは常に分かっていた。問題は、それをどのように言うかだった」(I always knew what I wanted to say, it was how to say it.)と述べている[29]。
私生活
[編集]ジローは1943年からパブロ・ピカソと交際し、ピカソのミューズとなった。1946年からは同棲するようになり、2人の子供、クロードとパロマをもうけた[24]。1952年の夏、ピカソはジャクリーヌ・ロックと出会い、付き合い始めた。それを知ったジローは、1953年に2人の子供を連れてピカソの元を去った。ジローは、ピカソを捨てた唯一の女性と言われている[30]。
ジローは1955年に芸術家のリュック・シモンと結婚し[31][32]、翌年に娘のオレーリア(Aurélia)が生まれた[6]が、1962年に離婚した[33]。この離婚の背景にはピカソがいた。自分の子供たちがピカソの法定相続人となれるようジローが動いていた時期であり、ピカソはジローに、シモンと離婚すれば再婚してあげてもいいと誘った。ジローはこれに乗ってシモンと離婚したが、ピカソはその前年にジャクリーヌ・ロックと密かに結婚していた。これは、ピカソによるジローへの嫌がらせの一つである[34]。
1969年、カリフォルニア州ラホヤの共通の友人の家で、ポリオワクチンの開発者であるアメリカ人医学者ジョナス・ソークを紹介された[35]。2人とも建築に興味があり、短期間の交際を経て1970年にパリで結婚した[36]。1995年にソークと死別するまで、ジローはニューヨーク、ラホヤ、パリで創作活動を続けたため、2人は毎年半年間は別居していた[17][37][38]。その間、夫が設立したラホヤのソーク研究所の業務にも携わった[24][35]。
ピカソやソークのような優れた男性をなぜ惹きつけるのかと訊かれたジローは、「私も彼らと同じくらい面白いと思う。ライオンはライオンと交わる。ネズミとは交わらない」と答えた[37][39]。
2023年6月6日、ジローは心臓と肺の疾患により、ニューヨークの病院で死去した。101歳だった[27]。
栄誉
[編集]ジローは1990年にレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエに叙された[38]。2010年にオフィシエに昇格した[25]。
大衆文化において
[編集]1996年の映画『サバイビング・ピカソ』では、ジローの役をナターシャ・マケルホーンが演じた[40]。テレビドラマ『ジーニアス』第2シーズンでは、ジローの役をクレマンス・ポエジーが演じた[41]。
書籍
[編集]- Françoise Gilot and Carlton Lake, Life with Picasso, McGraw-Hill, 1964; Anchor Books/Doubleday, 1989, ISBN 978-0-385-26186-9
- Françoise Gilot, Le regard et son Masque, Paris: Calmann-Lévy, 1975, ISBN 978-2-7021-0092-9 – focuses on her development as an artist.
- Françoise Gilot, Interface: The Painter and the Mask, Press at California State University, Fresno, 1983, ISBN 978-0-9122-0103-0
- Barbara Haskell, Françoise Gilot: An Artist's Journey 1943–1987, California State Univ, 1987, ISBN 978-0-912201-12-2; Little, Brown, 1989.
- Françoise Gilot, Matisse and Picasso: A Friendship in Art, Doubleday, 1990, ISBN 978-0-385-26044-2; New York: Anchor Books, 1992, ISBN 978-0-385-42241-3
- フランソワーズ・ジロー 著、野中邦子 訳『マティスとピカソ: 芸術家の友情』河出書房新社、1993年。ISBN 978-4309202105。
情報源
[編集]- Françoise Gilot, Mel Yoakum, Françoise Gilot: monograph 1940–2000, Acatos, 2000, ISBN 978-2-940033-36-2
脚注
[編集]- ^ Darwent, Charles (2023年6月7日). “Françoise Gilot obituary”. The Guardian
- ^ a b c d e f “Françoise Gilot”. francoisegilot.com. 2014年7月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月28日閲覧。
- ^ a b c Gilot, Françoise, Monograph 1940–2000. Lausanne: Sylvio Acatos, 2000.
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- ^ Cambridge English Exams, the First Hundred Years. Cambridge University Press. (2013). p. 39
- ^ a b c d e Gilot, Francoise and Kunstsammlungen Chemnitz. Francoise Gilot: Painting – Malerei. Germany: Kerber Verlag, 2003.
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- ^ Hawley, Janet, 2011. "Pablo was the greatest love of my life ... I left before I was destroyed", Good Weekend, The Sydney Morning Herald, 23 July, p. 15.
- ^ a b Doyle, Sady (2014年1月23日). “Bertolucci Wasn't the First Man to Abuse a Woman and Call It Art and He Won't Be the Last”. Elle.com. 2016年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月9日閲覧。
- ^ Museu Picasso Barcelona
- ^ Surviving Picasso. DVD. Directed by James Ivory. Culver City, CA: Warner Bros. Entertainment Inc., 1996.
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- ^ Hawley, Janet, 2011. "Pablo was the greatest love of my life ... I left before I was destroyed", Good Weekend, Sydney Morning Herald, 23 July, pp. 19.
- ^ a b Lacher, Irene (1991年3月6日). “A Place of Her Own : Culture: Francoise Gilot, Picasso's former lover and Jonas Salk's wife, wants to be known not as the companion of great men, but as their equal”. Los Angeles Times. オリジナルの2012年11月7日時点におけるアーカイブ。
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- ^ 回想記『ピカソとの日々』(フランソワーズ・ジロー/カールトン・レイク共著、野中邦子訳、白水社、2019年)がある。
- ^ Goodman, Wendy (2019年12月12日). “At Home With Françoise Gilot”. The Cut. 2020年4月19日閲覧。
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- ^ a b Jacobs, Charlotte Decroes (2018年2月8日). “The Last Love of Jonas Salk”. Nautilus 2018年2月9日閲覧。
- ^ a b “Bio: 1970–1979”. francoisegilot.com. 2017年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月28日閲覧。
- ^ Fulford, Robert (2016年5月10日). “'Lions mate with lions': Introducing Françoise Gilot, The Woman Who Said No to Pablo Picasso”. National Post
- ^ “Surviving Picasso” (英語). Rotten Tomatoes (1996年9月4日). 2023年6月7日閲覧。
- ^ “Genius” (英語). Rotten Tomatoes. 2023年6月7日閲覧。
外部リンク
[編集]- 公式ウェブサイト
- フランソワーズ・ジロー - IMDb
- Françoise Gilot: Studio visit, TateShots, 19 December 2013
- "Picasso and Francoise Gilot: Paris-Vallauris, 1943–1953", Charlie Rose, 17 May 2012
- "An hour with French painter Francoise Gilot", Charlie Rose, 13 February 1998
- Françoise Gilot Collection at the Harry Ransom Center
- “Francoise Gilot (1921–2023)”. GALLERY M. 2023年6月12日閲覧。
- Françoise Gilot on artnet
- Adorján, Johanna (2015年6月6日). “Muse Françoise Gilot: Picassos größtes Rätsel” [Muse Françoise Gilot: Picasso's Greatest Enigma] (ドイツ語). Frankfurter Allgemeine Zeitung. 2023年6月12日閲覧。
- Hessel, Katy (2023年6月12日). “'Blatant sexism': why is a great painter who lived to 101 still defined by a man she left in the 1950s?”. The Guardian. 2023年6月12日閲覧。