フランソワ・ジョルジュ=ピコ

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フランソワ・ジョルジュ=ピコ

フランソワ・マリ・ドニ・ジョルジュ=ピコFrançois Marie Denis Georges-Picot1870年12月21日パリ - 1951年6月20日、パリ)は、フランス外交官第一次世界大戦中、サイクス・ピコ協定イギリス人マーク・サイクス(en:Mark Sykes)と共に調印。サイクスと共にアラブ地域の併合、イギリスとフランスの協調に責任を持つ。

生涯[編集]

弁護士の資格を得た後、パリ控訴院フランス語版を経てコペンハーゲンのフランス大使館秘書、北京のフランス領事を歴任。その後、第一次世界大戦直前にベイルートの領事となるが、大戦勃発によりカイロを経てフランス外務省へ召還される。その後1916年にサイクス・ピコ協定を調印。1917年から1919年までパレスチナシリア高等弁務官を務めた後、19年に同地の特命全権大使を経てブルガリアの高等弁務官となり、1920年にはアルゼンチン大使を務めた。

1951年にパリで死去。

家族[編集]