浅草フランス座演芸場東洋館

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浅草フランス座演芸場東洋館(あさくさフランスざえんげいじょうとうようかん)は、東京都台東区浅草公園六区に所在する演芸場東洋館の通称で営業している。東洋興業株式会社経営。かつては長い間ストリップ劇場として営業していた。

概要[編集]

現在はいろもの漫才漫談など)を中心とした演芸場。建物を同じくする姉妹館・浅草演芸ホール落語中心の寄席)とともに、歴史ある浅草お笑い文化の一角を担う存在である。

漫才協会東京演芸協会ボーイズバラエティ協会の各色物演芸団体の定席が設けられる。また、浅草演芸ホールをはじめとした寄席に出演できない円楽一門会落語立川流の噺家も出演、さらに毎月月末には独自のお笑いライブも催すなど、東京演芸の振興に一役買っている。

毎年初席は落語協会の落語定席として使用されており、落語家もビルのなかを上下して相互の寄席に出演する。またこの初席のみ入場券は共通で、客は浅草演芸ホールと当劇場を相互に行き来できる。

歴史[編集]

ストリップ劇場の開場[編集]

第二次世界大戦前、この地に三友館という映画館があった。戦後、この三友館の支配人であった松倉宇七(東洋興業創業者)はストリップ劇場・ロック座の成功に伴い、この地に同じくストリップ劇場・フランス座を開設。1964年、いったん閉鎖し、これまでフランス座のあった1Fに通常の劇場(「東洋劇場」)を、建て増しした上階に落語寄席浅草演芸ホール)を、すなわち2つの劇場を新たに開設した。

松倉はもともと演劇青年で、それも自分が演出した演劇をやってみたかったのである。その舞台として東洋劇場が作られた。しかし、専属主演女優(炎加世子)の夜逃げなどアクシデントもあり、営業成績という点ではお荷物になったため、東洋劇場の閉鎖を決断。東洋劇場が入っていた(すなわちかつてのフランス座だった)1Fに浅草演芸ホールを移転し、空いた上階で、フランス座を再開場することにした。

ストリップとお笑いの殿堂[編集]

舞踊中心の上品なストリップと幕間の爆笑コントを売り物にしていた。コントを演じていたのが「主な出身者」で記されている芸人たちで、いわゆる浅草芸人としていずれも大スターとなった。無名時代の井上ひさしが劇場座付き作者をつとめたことがあり、照明係など雑用をこなしながら、同劇場のコント台本を担当した。井上はこの劇場のことを「ストリップ界の東京大学」と言っていた。だが、そんな彼らも、深見千三郎などは除き、ほとんどは、テレビの世界に移り、浅草のスターから日本のスターへとのしあがっていった。

ビートたけしの古巣[編集]

北野武は、ここですさまじくキレのあるコントを演じていた「浅草の師匠」こと深見千三郎に弟子入りし、芸人への第一歩を踏み出す。エレベーターボーイをしながらコントやタップダンスを学んだ。また、兼子二郎(後のビートきよし)と出会い、後の漫才ブームの牽引役となる「ツービート」結成のきっかけとなった場所でもある。たけしは、大スターになってから自分の弟子(当地浅草での修行にちなみ浅草キッドと命名)を修行に出す。しかし、支配人の岡山が、ろくに給料を支払わなかったことから、劇場への恨みから機材をめちゃくちゃに破壊するなどの迷惑もかけた。 最終的にはたけし自身が軍団員を引き揚げている。

演芸場への転身[編集]

しかしながら、猥雑が売り物の関西系ストリップが全盛になるにつれ「健全すぎる」フランス座の舞台はサービス不足とみなされ、浅草の斜陽化もあり客足が減る一方であった。東洋興業がとった決断はストリップから完全に手を引く事であった。2000年にストリップ興行を打ち切る。同年改装の上、落語、講談浪曲以外のいろもの寄席「浅草フランス座演芸場東洋館」に改称、現在に至る。

主な出身者[編集]

備考[編集]

書籍[編集]

  • 松倉久幸『浅草で、渥美清、由利徹三波伸介伊東四朗、東八郎、萩本欽一、ビートたけし…が歌った、踊った、喋った、泣いた、笑われた。』ISBN 978-4901465205 当劇場社長の著書。当劇場の歴史
  • 井上ひさし『浅草フランス座の時間』 ISBN 978-4890361236 フランス座・元座付き作者によるフランス座の歴史
  • ビートたけし『浅草キッド』(新潮文庫) 当劇場で育った芸人の自伝的小説。

脚注[編集]

  1. ^ アスキーによる記事

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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座標: 北緯35度42分48.6秒 東経139度47分34.9秒