フランク・ラスキア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

フランク・ラスキア(Frank Laskier、1912年 - 1949年7月8日)は、第二次世界大戦中、公衆の注目を引いた、イギリス船員(seaman)である[1]

1940年後半、ラスキアが商船(Merchant Navy)の掌砲長(gunner)であったとき、彼の船が西アフリカ沿岸でドイツの商船襲撃艇(German raider)に襲われ、沈められた。いかだから救助され英国に帰されて、彼はBBCラジオのインタビューを受けた。大西洋の戦い中の彼の有名な『My Name is Frank』の放送は、戦争に関する世論に影響し、英国および米国における商船(Merchant Navy)の兵籍編入の努力を軽減した[2]「船員フランク」"Seaman Frank")は、旅行と自伝的著作の話をする、ニュース映画における商船の船首像になった[3]。終戦までに感情は先に進んでおり、そして彼はほとんど忘れられた[1]。37歳で彼はニューヨークで、車の事故で死亡した[1]。こんにち、ラスキアに関して記憶されているわずかなことは混同されている。ある観察者は、彼を単なる戦時宣伝の象徴と評したが、しかしまたある批評家はラスキアの自伝的著作を「力強く」("powerful")かつ船員生活に関する「本物の記事」("genuine article")であると見なしている[1]

伝記[編集]

ドイツのコルモラン 1940年 ドイツ連邦公文書館

ラスキアはリヴァプール波止場の近くで生まれ、育った[1]。15歳で彼は家を逃げ出し、次の10年間を商船から商船へと働きながら乗り世界をめぐった[4]。彼は大酒を飲み、娼婦をひいきにし、そして盗みで数年間、服役さえした。彼は一家の面目をつぶす厄介者であった[4]

1940年後半、ラスキアは Eurylochus号に掌砲長として兵役についていたが、西アフリカ沿岸沖合で、商船襲撃艇、ドイツの補助巡洋艦(auxiliary cruiser)コルモランに襲われ、沈められた[1]。彼は機関銃の発砲で片足を失った。サメ(鮫)をかわしながら、水のない2日間を、いかだで過ごしたのち、彼と残りの乗組員は中立のスペインの商船 Monte Tiede 号に救助された。ラスキアは、イングランドに送還され、そこで彼がリヴァプールのパブで話をするのを、若いBBCラジオのプロデューサーが立ち聞きしたと言われた[1][3][5]。彼は、J・B・プリーストリーの、ニュースに続いて放送されたためにそう命名されたPostscript追伸の意)ショー(1941年10月5日 日曜日)で、順を追って話すように説得された[1][3][5]。「Postscript」の回と、そして「商船の船員が話す」アンコールでの登場は、広い聴取者に届き、そして聴取者に人気があることがわかった。ラスキアは、報道機関によって名士扱いされた[3]

英国のジャーナリスト、ダグラス・リード(Douglas Reed)は彼をこのように書いた:

ここに金銭も学校教育もない、謙虚な男がいた。しかし彼は、シェークスピアが話した言葉を話した。彼の声はやわらかかったが、しかし逃れられなかった。 彼はシェークスピアを知っており、そしてあたかもまさにそのときに紡がれたかのように聞えるように、シェークスピアの語句を自分の話と織り合わせることができた。彼が口をきくと、波がどんと側にあたって砕けるのが聞え、魚雷が当たり船が急に一方に傾きよろめくのを感じ、顔を緊張させ髪をなびかせる男たちがボートを出そうと努めるのが見える。そのうえ、彼は彼じしんの語句を造りだし、そしてそれらは金色に輝きながら出てきた。[5]

これらの話は『My Name is Frank』という本に集められ、これについて『ザ・スペクテーター』(The Spectator)の評者は言った、「フランク・ラスキアの放送は、偉大な内容であった。印刷されると、読書において何も失わない。生来の天才でこの船乗りは、現代世界の詩人と芸術家が幾世代にもわたってめざして努力してきた表現とリズムを見つけた。」[1]。その後まもなく、フランクは商船の兵籍編入を奨励する宣伝映画に現われ、合衆国内の講演旅行を続けた[1]

One film is called Seaman Frank Goes Back to Sea and shows Frank re-enlisting for the Merchant Navy; 1本は『Seaman Frank Goes Back to Sea』で、フランクは再び商船隊に兵籍編入する。語り手は彼を、自分の義務を果たす「本物のイングランド人」("real Englishman")と称した[3]。1941年の、British Pathéのための別の短いフィルムにおいて、ラスキアは、友人たちの死亡の復讐のため再び戦うために外地に行きたい一方で「メアリー」("Mary")へのロマンティックな関心は後回しにしようと言っている[6]

彼は、ドイツの商船襲撃艇「コルモラン」の機関銃の発砲によって片足を失ったことに関する、奮起させる声明で終える: 「わたしが彼らを逃げおおせさせておくつもりだとでも思うのかい?」、彼は誓う、「まさか、ばかを言え[7]、冗談じゃねえ!」[6]("Not pygmalion likely!")。

ラスキアの2冊目の本『Log Book』(1942年)はフィクションとして位置づけられていたが、しかし明らかに自伝的であり、主人公は「ジャック」( "Jack" )という[1]。『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』でこの本を批評してリンカーン・コルコード(Lincoln Colcord)は、「あまりに単純かつ鋭い芸術作品なので、しばしば休止して驚嘆する。」と述べた。戦後、ラスキアは合衆国に移り、そこで自伝的映画に興味を集めようとしたが、しかし、ほとんど無駄であった。3冊目の、そして最後の本『 Unseen Harbor 』は、1947年に刊行された。純粋なフィクションである。ラスキアは1949年7月8日にニューヨークで車の事故で37歳で死亡した。[1][8]

「船員フランク」( "Seaman Frank" )と彼の作品は大部分、忘れられており、「ラスキアは、彼の宣伝価値がうすれたとき、すばやく忘れられた。」[1]。トニー・レーン(Tony Lane)は、彼を、「スタハノフ」と呼んだが、スタハノフはソヴィエト宣伝者らによって労働者の英雄にさせられたロシアの炭鉱労働者である[3]。しかしながら、彼の著作はなおも賞賛を集めている。「The Neglected Books Page」は、軽視されているがりっぱな書物を発見しようと努めているオンライン・サイトであるが、『 Log Book 』を「力強く」("powerful")かつ船員生活に関する「本物の記事」("genuine article")であるとした[1]

作品[編集]

  • My Name is Frank (1941; transcriptions of BBC radio shows)
  • Log Book (1942; autobiographical novel)
  • Film documentary The Call of the Sea (1942; as narrator)[9]
  • Unseen Harbor (1947; novel)
  • "Justice Rides the Bus Line", Coronet, April 1946
  • "The House That Courage Built", Coronet, Vol. 21, issue 2
  • "A Nice Cup of Tea", Esquire, 1948 (Volume 28)
  • "Alfred and the Staff of Life", Collier's Weekly, December 6, 1947[10]
  • "The Indisposition of Mister Macdougal", Collier's Weekly, February 14, 1948[10]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n Log Book, by Frank Laskier, The Neglected Books Page, March 18, 2012
  2. ^ Canadian Saturday Night, Volume 63, 1947.
  3. ^ a b c d e f Tony Lane. The Merchant Seamen's War, Manchester, England / London: Manchester University Press, 1990, ISBN 9780719023972. Pg. 55
  4. ^ a b Frank Laskier. My Name is Frank (1941) and Log Book (1943); both are autobiographical.
  5. ^ a b c All Our To-Morrows, Douglas Reed, 1942. Pg. 89. Also available at www.douglasreed.co.uk
  6. ^ a b "The Seaman Who Gave The Postscript", British Pathé, 1941. Cataloguer: Emma | Stock: Black & White | Sound: Sound | Media URN: 39426 | Time in/Out: 01:14:30:00 / 01:16:19:00 | Canister: 41/81 | Film ID: 1133.09
  7. ^ Pygmalion was a polite way of swearing; a substitution for 'bloody'. The most famous line from George Bernard Shaw's 1912 play Pygmalion was "Walk? Not bloody likely!" and for years after, the swear word 'bloody' was known as a pygmalion. The 1938 film Pygmalion used 'bloody' for the first time in British film, causing something of a renewed stir. For more, see The Truth About Pygmalion by Richard Huggett, 1969 Random House, pp. 127 - 128. Laskier in this orchestrated piece of wartime propaganda is playing up the part of a tough swearing sailor to rouse the fighting spirit on the home front.
  8. ^ Facts on File Yearbook 1949, pg. 232
  9. ^ Gene M. Moore. Conrad on Film, Cambridge University Press, Nov 27, 1997. pg. 232.
  10. ^ a b Author: Frank Laskier, at unz.org

外部リンク[編集]