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フラワーショウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フラワーショウ(ふらわーしょう)は、松竹芸能に所属していた浪曲漫才トリオ。テーマ曲は「道頓堀行進曲」「〽 ようこそ~ 皆さま~ ご機嫌宜しゅう~。 歌って~ 笑って~ フラワーショウ~。 どうぞ~ 宜しく~ 願います~。」。1961年10月結成、2006年解散。

メンバー

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浪曲師・吉田天洋の娘、6歳で初舞台。吉田奈良千代門下で修行を積み吉田駒千代を名乗る。長じて36歳で西川ヒノデに誘われ、歌謡浪曲カルテットの『西川ヒノデショウ』に加入、ヒノデと結婚して二代目西川サクラになり、夫婦漫才『西川ヒノデ・サクラ』(第二期)で数年間活動。
ヒノデとの離婚を期に、自らのトリオ『フラワーショウ』で独立。浪曲で鍛えた喉で聴かせ、永年大看板を張るが、次第に仕事が減ってきてリーダーとしての責任を感じた末に鬱病をこじらせ、1989年5月に琵琶湖で入水自殺。享年61。
1961年に西川ヒノデの門下となる。1年程修行し後にぼたんの養女となる。1962年10月神戸松竹座で初舞台。ぼたん亡き後もフラワーショウの看板を守った。テンポのいいしゃべくりが特徴。2006年10月に肝不全のため死去、享年70。
浪曲師・杉原五月の娘。初代日吉川秋斎に預けられ、13歳で島川八代名の名で初舞台。日吉川系の『ジョウサンズ』ではなく、フラワーショウの立ち上げに参加した。1966年脱退し島川あゆみの名で東五九童の相方を務めたが、結婚を機に廃業した。享年75。
名人・初代京山幸枝若の妹。ぼたんの門下。1966年に2、3ヶ月ほど『東文章・華悦子』のコンビで漫才をしていたが、ぼたんに誘われ、1966年よりあやめと交替で加入、後に脱退し歌手に転向を熱望したが復帰。丸顔でボケ役。ばらとは対照的にスローテンポのしゃべくりが特徴。1993年~1997年まで「サカイ引越センター」のCMに俳優の徳井優と出演し、人気を得た。2026年1月18日、悪性リンパ腫のため大阪市内の病院にて死去。享年78。
  • 華らん(はな らん、本名:名沢宏美、1947年 - 、三重県伊勢市出身)- 立ち位置は向かって右。
父は旅回りの一座を組んでいた浪曲師。伊勢市立宮川中学校卒後、姉の夢みどり、姉婿のファンキー夢野、弟の夢洋二らと夢ひろみの名で地方巡業していた。みどり、かおる、みちこの四人で『ザ・ドリーム』を結成し、1968年新世界新花月で初舞台。1969年に来阪し、その後『ザ・ドリーム』はメンバーが入れ替わったものの活動を続けた。ゆりの産休の助っ人として短期間参加、ゆり復帰後は廃業した。

沿革

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ぼたんは、ミナミでギター流しをしていたところを「西川ヒノデショウ」のヒノデにスカウトされ、カルテットに加入。『Wヤング』(第一期)は弟弟子に当る。ヒノデとの結婚後は夫婦コンビ「西川ヒノデ・サクラ」(第二期)で活動するが、離婚を期に独立。

タイヘイトリオ」や「宮川左近ショー」らの浪曲漫才トリオブームを追って、ばら、あやめを誘って1961年10月に自らのトリオ、フラワーショウを神戸松竹座で旗揚げした。

若干のメンバーチェンジはあったものの、歌謡浪曲を下敷きに新しい音曲漫才の型を確立し、後に続く「ジョウサンズ」「ちゃっきり娘らと舞台を永らく賑やかす。

1969年の第4回「上方漫才大賞」にて奨励賞を受賞。

1989年にリーダーのぼたんが自殺した後はゆりとばらのコンビ「フラワーショウ ゆり・ばら」として再出発したが、2006年のばらの死去に伴い自然消滅。そのちょうど20年後の2026年にゆりが死去し、フラワーショウはサポートメンバーのらんを除いて全員鬼籍に入った。

メンバー構成の変遷は以下の通り。
ぼたん・ばら・あやめ→ぼたん・ばら・ゆり(一時期ゆりがらんに交代)→ばら・ゆり(ぼたんの自殺に伴いゆりとばらのコンビに)→ばらの死去に伴い自然消滅

レコード

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  • 女の舞台/幻のブルース(ローオンレコード。「フラワーショー」名義)
    • 歌唱はA・B面ともに華ばらのみ。B面は藤本卓也作詞作曲で、多くの歌手が歌っている。後に大西ユカリがカバーした。
  • 男のみち/義理のしがらみ(ローオンレコード。「フラワーショー」名義)
    • 「男のみち」は歌:華ゆり、三味線:華ぼたん。「義理のしがらみ」は歌:華ばら。
    • 「男のみち」をA面としたもの、「義理のしがらみ」をA面としたものの2種がある。

出演番組

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受賞歴

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弟子

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参考文献

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  • 「現代上方演芸人名鑑」(1980年、少年社)

外部リンク

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