フアン・マヌエル

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ドン・フアン・マヌエル
Don Juan Manuel
ビリェナ
Don Juan Manuel.jpg

身位 カスティーリャ王国摂政
出生 (1282-05-05) 1282年5月5日
Flag of Castile.svg カスティーリャ王国、エスカローナ
死去 (1349-06-13) 1349年6月13日(67歳没)
Flag of Castile.svg カスティーリャ王国コルドバ
埋葬 Flag of Castile.svg カスティーリャ王国、ペニャフィエル、サン・パブロ修道院
配偶者 イサベル・デ・マヨルカ
  コンスタンサ・デ・アラゴン
  ブランカ・ヌーニェス・デ・ララ
子女 コンスタンサ・マヌエル
フアナ・マヌエル
家名 ボルゴーニャ家
父親 マヌエル・デ・カスティーリャ
母親 ベアトリス・デ・サボヤ
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ドン・フアン・マヌエルDon Juan Manuel, 1282年5月5日 - 1349年6月13日)は、カスティーリャ王国の王族でアルフォンソ11世の摂政(1312年 - 1322年)。散文作家でもあった。

生涯[編集]

フェルナンド3世の息子でアルフォンソ10世の弟{マヌエル王子の子としてエスカローナスペイン語版で生まれる。母はサヴォイア伯アメデーオ4世イタリア語版の娘ベアトリス。早く父を失ったため王宮で育てられ、次代の王となる従兄サンチョ4世の寵遇を受け、12歳でムルシアの領主となった。次いでフェルナンド4世の侍従を務めた。

伯父のアルフォンソ10世が学芸の庇護者で様々な作品を創り出し、豊かな蔵書を残していたため、フアン・マヌエルは幼い頃からこれらの作品・蔵書に親しみ、作家として成長するきっかけになった。著作『狩猟の書』の序文で伯父に対する尊敬の言葉を書き残す一方、1330年の著作『国家論』でレコンキスタイスラム教に奪われた土地回復のための戦いで、宗教の違いで戦うのではないと明言、宗教的熱狂とは一線を画している[1]

1312年のフェルナンド4世の死後、アルフォンソ11世が成人するまで摂政を務めたが、実態は複数の王族による集団指導体制で、王の母コンスタンサ、祖母マリア・デ・モリナ、2人の王子ペドロ・デ・カスティーリャ(王の叔父)、フアン・デ・カスティーリャ英語版(王の大叔父かつペドロの叔父)の4人にフアン・マヌエルも加わった5人の後見人グループが集められた。だがフアン・マヌエル以外のメンバーが数年間に次々と死亡、1313年にコンスタンサが死去、1319年グラナダ王国を攻めたペドロとフアンが戦死、1321年にマリアも死去して摂政争いが勃発した[2][3]

新たな摂政の座を巡りペドロの弟フェリペ英語版、フアンの同名の息子フアン・エル・トゥエルト英語版(隻眼のフアン)とフアン・マヌエルの3人が争い、カスティーリャは荒廃したが、1325年に成人したアルフォンソ11世が親政に乗り出すと危機感を抱き、一転して隻眼のフアンに近付き長女コンスタンサ・マヌエルを嫁がせる話を進めた[2][4]

だが、アルフォンソ11世が先手を打ちコンスタンサ・マヌエルを王妃に迎えたいと申し出ると、フアン・マヌエルは話に乗り隻眼のフアンを見捨て、コンスタンサ・マヌエルを王に嫁がせた。コルテス(議会)も了承したが、王は1326年に隻眼のフアンを暗殺、翌1327年にコンスタンサ・マヌエルと離婚、外交上の理由からポルトガルアフォンソ4世の娘で従妹のマリアを再婚相手に選んだ。そのためフアン・マヌエルはアルフォンソ11世と不和となり、義父のアラゴンハイメ2世の助けを得て反旗を翻し、グラナダにも支援要請の手紙を送り数年内乱が続いた。だがグラナダへの手紙はアルフォンソ11世に渡り支援は無く、アラゴンも国王アルフォンソ4世がアルフォンソ11世の姉レオノールと再婚してカスティーリャと和睦したため孤立、1329年にカスティーリャ統治を助けて欲しいと頭を下げた王と和解し、帰国した[5]

後にコンスタンサ・マヌエルがポルトガル王太子ペドロ(後のペドロ1世)の妃にと請われた時、アルフォンソ11世はその出国を不服として妨げた。

1340年サラードの戦い英語版に参加、1344年にはアルヘシラス占領に参加した。

著作[編集]

詩人、寓話作家として、14の著作があったといわれる。晩年、全作品の写本をペニャフィエルの修道院に保管させたが、現存するのは7本のみである。

1335年作の『ルカノール伯爵スペイン語版(Libro de los enxiemplos del Conde Lucanor et de Patronio)[6]』という寓話集には51話が収められ、この作品により、スペインの散文は一大飛躍を遂げた。第32話[7]デンマークの童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンによる翻案『裸の王様』の原著としても知られ、第35話はイングランドの劇作家ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『じゃじゃ馬ならし』の原著になっている[8]

子女[編集]

最初の妻イサベル(マヨルカジャウメ2世の娘)とは2年で死別し、アラゴンハイメ2世の娘コンスタンサと再婚した。コンスタンサとの間に一女コンスタンサ・マヌエルが生まれた。

3度目の妻ブランカ・ヌーニェス・デ・ララは、サンチョ4世の兄フェルナンド・デ・ラ・セルダの孫である。ブランカとの間の娘フアナ・マヌエルは、後にトラスタマラ家の王エンリケ2世の王妃となった[9]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 牛島、P319 - P321、芝、P131 - P132。
  2. ^ a b 牛島、P322。
  3. ^ 西川、P162 - P163。
  4. ^ 西川、P163 - P164。
  5. ^ 牛島、P322 - P323、西川、P164 - P165。
  6. ^ Wikisource reference Juan Manuel. Conde Lucanor. - ウィキソース. 
  7. ^ Wikisource reference Juan Manuel. Conde_Lucanor:Ejemplo_32. - ウィキソース. 
  8. ^ 牛島、P336、池上、P289。
  9. ^ 西川、P176 - P177。

関連文献[編集]

  • ドン・フワン・マヌエル 著、橋本一郎 訳 『ルカノール伯爵』大学書林、1984年7月。ISBN 978-4-475-02279-8 
  • ドン・フアン・マヌエル 著、牛島信明上田博人 訳 『ルカノール伯爵』国書刊行会〈スペイン中世・黄金世紀文学選集 3〉、1994年12月。ISBN 978-4-336-03553-0 
  • 池上岑夫ほか監修『新訂 スペイン・ポルトガルを知る事典』平凡社、2001年。
  • 芝修身『古都トレド 異教徒・異民族共存の街昭和堂、2016年。
  • 西川和子『スペイン レコンキスタ時代の王たち 中世800年の国盗り物語彩流社、2016年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]