ピーテル・ファン・ミュッセンブルーク

ピーテル・ファン・ミュッセンブルーク(Pieter van Musschenbroek、1692年3月14日[1] - 1761年9月19日[2])はオランダの科学者。彼はデュースブルク、ユトレヒト、ライデンで数学、哲学、医学、占星術の教授の地位にあった。彼は最初のキャパシタであるライデン瓶を1746年に発明したことで知られている。
姓の日本語表記は他にミュッセンブルック、ムスケンブルックなどあり一定しない。名の"Pieter"(ピーテル / ピーター)はしばしばラテン語化された"Petrus"(ペトルス)の形で言及される。
出自と学習
[編集]ピーテル・ファン・ミュッセンブルークはネーデルラント連邦共和国・ホラント州・ライデンで1692年3月14日に生まれた。彼の父はヨハネス・ファン・ミュッセンブルーク(Johannes)、母はマルガレータ・ファン・ストラーテン(Margaretha van Straaten)。
ファン・ミュッセンブルーク家は本来フランドルの家系で、1593年にロッテルダムで外科医として記録されている。1600年9月10日にレヴィン・ブレイクマンズがライデンの市民として認められていることから、1600年以前にライデンに移り住んだと推定されている[3]。彼の父はポンプ、顕微鏡、望遠鏡など科学機器を作る職人であった[4]。
ピーテルは1708年までラテン語学校に通い、そこでギリシア語、ラテン語、フランス語、英語、高地ドイツ語、イタリア語、スペイン語を学んだ。そしてライデン大学で医学を学び、1718年に博士号を取得した。彼はまたロンドンで行われたジョン・デサグリエとアイザック・ニュートンの講義にも通っている。1719年には、哲学の学習を終えている[5]。
学者としての経歴
[編集]デュースブルク
[編集]1719年、彼はデュースブルクで数学および哲学の教授となった。1721年には医学に関しても教授の職に就いた[5]。
ユトレヒト
[編集]1723年、彼はデュースブルクでの役職を去り、ユトレヒトで教授となった。1732年、彼は占星術の教授にもなっている[5]。
ミュッセンブルークの"Elementa Physica"(1726) は、ニュートンの考えをヨーロッパの物理学界に伝達する上で重要な役割を果たした[5]。
ライデン
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1739年、彼はライデンに戻りヴィレム・スフラーフェサンデ(Willem 's Gravesande, 1688-1742)の役職を継いで教授となった[5]。
ライデン大学において、ファン・ミュッセンブルークは静電気学に興味を持ち、研究を行った。当時、摩擦式起電機で一時的に電気を起こすことは可能であったが、作った電荷を(換言すると電気エネルギーを)貯めておく手段は無かった。ミュッセンブルークおよびその弟子アンドレアス・クナエウス(Andreas Cunaeus)は、ガラス瓶を水で満たし真鍮の棒を入れたものが電気エネルギーを保持することを発見した。そしてエネルギーを放出する(放電を起こす)にはガラス瓶内部の導体(真鍮棒)と外部の導体(彼らの初めの実験では、彼らの手の平)を繋げぐだけで良いことも見つけた。彼はこの発見を1746年1月にルネ・レオミュールとノレ神父(Nollet)に教えた。ミュッセンブルークの書簡をラテン語から翻訳した人物が、この発明を「ライデン瓶」と名づけた[要出典]。
その直後、ドイツの科学者エヴァルト・ゲオルク・フォン・クライスト(Ewald Georg von Kleist)が彼よりわずかに早く(1745年末)に、独立に同様の仕掛けを作っていたことが判明した。だがフォン・クライストは自分の発明を公表するのが遅れたのである[要出典]。
1754年に彼はサンクトペテルブルクの皇立科学アカデミーで名誉教授となった[5]。
ファン・ミュッセンブルークは1761年9月19日にライデンで死去した[5]。
著書
[編集]- Elementa Physica (1726)[5]
- Dissertationes physicae experimentalis et geometricae de magnete (1729)[5]
- Tentamina experimentorum naturalium in Accademia del Cimento (1731)[5]
- Institutiones physicae (1734)[5]
- Aeris praestantia in humoribus corporis humani (1739)[5]
- Institutiones logicae (1764)[5]
脚注
[編集]- ^ 367日誕生日大事典『ぴーたーふあんみゆつせんぶるーく』 - コトバンク
- ^ “Musschenbroek, Pieter van”. Oxford Reference. 2025年3月14日閲覧。
- ^ “Van Musschenbroek Genealogy”. The Van Musschenbroek Foundation. 2025年3月14日閲覧。
- ^ “Pieter (Petrus) van Musschenbroek”. Hebrew University of Jerusalem. 2007年11月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年3月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “Prof. Dr. A.L.M. et Med. Petrus van Musschenbroek”. The Van Musschenbroek Foundation. 2025年3月14日閲覧。