ピョートル・ニコラエヴィチ

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ピョートル・ニコラエヴィチ
Пётр Николаевич
ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
Pjotr NyikolajevicsRomanov.jpg
称号 ロシア大公
出生 1864年1月10日
Romanov Flag.svg ロシア帝国 サンクトペテルブルク
死去 (1931-01-17) 1931年1月17日(満67歳没)
フランスの旗 フランス共和国 アンティーブ
子女 マリナ
ロマン
ナジェジダ
ソフィア
父親 ニコライ・ニコラエヴィチ
母親 アレクサンドラ・ペトロヴナ
宗教 ロシア正教会
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ピョートル・ニコラエヴィチロシア語表記:Пётр Николаевич,1864年1月10日 - 1931年1月17日)は、ロシア帝国の皇族。ニコライ1世の孫息子の一人で、ロシア大公の称号を有した。

生涯[編集]

1864年1月10日、ニコライ大公アレクサンドラ大公妃の次男として、サンクトペテルブルクに生まれる。成長後はロシア帝国陸軍に中尉として入隊した。

1907年、ピョートルの兄ニコライ・ニコラエヴィチ大公と、妻ミリツァ・ニコラエヴナの妹アナスタシアが結婚した。ニコライ夫妻とピョートル夫妻は、20世紀初頭のロシア宮廷で非常に大きな影響力を振るった。二組の夫婦は「黒い家族」というあだ名を付けられ、オカルトに熱中していた。彼らは最初、フィリップ・ヴァショというスイス人の偽神秘家をニコライ2世アレクサンドラ皇后に紹介し、次いでロシア人農夫上がりのグリゴリー・ラスプーチンを紹介した。

皇帝の義理の甥であるフェリックス・ユスポフは、ピョートルとミリツァ、アナスタシア姉妹を「邪悪な権力の中心」と呼んでいた。こうした見方は徐々にロシア宮廷中に浸透していった。マリア皇太后は、ニコライ、ピョートルとその妻たちが宮廷を牛耳るため、ノイローゼ気味のアレクサンドラのもとにラスプーチンを送り込んだと信じていた。しかし、1914年までにアレクサンドラ本人も彼らを「黒い家族」と呼ぶようになり、彼らに操られていると意識し始めた。

ピョートル夫妻とニコライ夫妻は、ロシア革命後にイギリス戦艦マールバラに乗ってロシアを脱出し、南フランスに亡命した。ピョートルは1931年にアンティーブで死去し、妻ミリツァは1951年にエジプトアレクサンドリアで死去した。

家族[編集]

1889年7月26日、モンテネグロ国王ニコラ1世の娘ミリツァと結婚し、4人の子女をもうけた。

  • マリナ(1892年 - 1981年)
  • ロマン(1896年 - 1978年)
  • ナジェジダ(1898年 - 1988年)
  • ソフィヤ(1898年) - ナジェジダの双子の姉妹