ビリー・ヒューズ
| ビリー・ヒューズ Billy Hughes | |
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| 生年月日 | 1862年9月25日 |
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| 没年月日 | 1952年10月28日(90歳没) |
| 所属政党 | 労働党 |
| 在任期間 | 1915年10月27日 - 1923年2月9日 |
ウィリアム・モリス・ヒューズ(英: William Morris Hughes、1862年9月25日 - 1952年10月28日)は、オーストラリアの政治家。第7代首相(1915年 - 1923年)。第一次世界大戦中のオーストラリアを率いたほか、数十年にわたり国政に影響力をおよぼした。1901年の初当選以来、1952年の死去まで連邦下院議員を務めた。50年以上連邦下院議員に在職した、史上唯一の人物である。生涯を通して6つの政党に所属し、うち5つの政党を率いたが、他方で3党から除名された。
ロンドンのウェールズ人の一家に生まれ、22歳でオーストラリアに移住。当時興隆していた労働運動に加わった。1894年にニューサウスウェールズ労働党からニューサウスウェールズ州下院議員に当選し、1901年に連邦下院議員に転じた。政治活動と並行して法律の勉強も進め、1903年に弁護士資格を取得した。1904年、短命に終わったクリス・ワトソン内閣で司法相に就任し、のちのアンドリュー・フィッシャー内閣でも司法相を務めた。
1914年、オーストラリア労働党党首に就任し、翌年10月には健康上の問題で退任したフィッシャーの後任として首相となった。第一次世界大戦中の当時、徴兵部隊を海外へ派遣するか否かをめぐって党内は分裂しており、1916年11月にヒューズとその支持者らは党から除名された。ヒューズは新たに国民労働党を結成してその党首となり、同党は数ヶ月語に自由党と合流して国民党に改組した。1917年と1919年の総選挙後も、ヒューズは政権を維持した。大戦中は現在のオーストラリア連邦警察とオーストラリア連邦科学産業研究機構 (CSIRO) の前身となる組織を立ち上げ、戦後は経済対策として多くの国営企業を設立した。1919年のパリ講和会議にも出席し、ドイツ領ニューギニアをオーストラリアの支配下に置くことに成功した。
1922年の総選挙で国民党は過半数を失い、地方党 (Counrty Party) との連立を余儀なくされた。地方党からの協力を得る代わりにヒューズは首相を辞任し、スタンリ-・ブルースが後任となった。首相退任後も長きにわたり代表的なご意見番であり続け、1928年にはヒューズ派が国会での信任投票で反対にまわり、時の内閣の倒壊に寄与した。首相退任後は一時無所属であったが、のち独自にオーストラリア党を旗揚げし、1931年に統一オーストラリア党 (UAP) に合流した。1939年のUAP党首選挙では僅差でロバート・メンジーズに敗れ、首相就任の2度目の機会を逸した。1930年代には、先見的にも日本の帝国主義に警鐘を鳴らすことで知られていた。
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