ビリー・エバンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

ビリー・エバンスWilliam George "Billy" Evans , 1884年2月10日 - 1956年1月23日)は、1900年 - 1920年代に活躍したアメリカメジャーリーグ審判員イリノイ州シカゴ生まれ。1973年アメリカ野球殿堂入りを果たした。

1914年

経歴・人物[編集]

エバンスはコーネル大学で法律を学び、フットボールと野球をしていたスポーツマンだったが、在学中の父親の死去にともなって大学を中退、オハイオでスポーツ記者をしていた。審判員となったきっかけは、1903年に取材にいった地元クラブの野球の試合で、エバンスが審判をするよう頼まれたことである。その才能を認めた元野球選手のジミー・マッカリアーが、当時のアメリカンリーグ理事長だったバン・ジョンソンに推薦したことで、エバンスはアメリカンリーグの審判職の座を得る。

1906年にアメリカンリーグの審判に昇格した時は、史上最年少の22歳という若さだった。当時はまだレギュラーシーズンは審判も1人制もしくは2人制であったことが多く、彼自身も一人でダブルヘッダーを2試合とも担当したことが都合7度ある。1909年には早くもワールドシリーズの審判を担当、ブラックソックス事件の舞台となった1919年のワールドシリーズの審判員も務めている。アメリカンリーグの審判員としての在職期間は22年に及んだ。

1927年に審判職を引退した後は、8年間ボストン・レッドソックスのゼネラルマネージャーを務めた(公式に『ゼネラルマネージャー』という肩書きがついたのは、エバンスが最初であるとされている)。その後レッドソックスのファーム組織の運営など、1940年までレッドソックスの球団運営に関わっていた。レッドソックスを離れたきっかけは、彼の反対意見にも関わらずチームがピー・ウィー・リースをブルックリンに金銭で移してしまったことであるといわれる。翌1941年には野球を離れ、NFLクリーブランド・ラムズのゼネラルマネージャー職にを1年だけ務めた後、1942年にはマイナー組織のサザン・アソシエーションの理事長に就任、観客の大幅な増加に寄与する。1946年からはデトロイト・タイガースで約5年ゼネラルマネージャーを務め、その後野球界から引退。1956年に脳卒中のためフロリダ州マイアミにて死去した。

審判歴[編集]

在籍:アメリカンリーグ(1906年 - 1927年)

  • 出場試合数:
    • レギュラーシーズン:3319試合
    • ワールドシリーズ:38試合(1909, 1912, 1915, 1917, 1919, 1923年)

在職中の出来事[編集]

  • 1900年代頃はまだ判定に不服なファンなどから物が投げられたりすることが多かった。1906年9月10日のタイガース対ホワイトソックスの試合は1点差で9回のホワイトソックスの攻撃、先頭のジョージ・デイヴィスが出塁を狙ってバントを仕掛けた。成功したかに見えたバントにエバンスはアウトの判定を下す。途端に観客席からはシャワーのように飲み物のボトルが飛んできたという。
  • 1914年4月14日のポロ・グラウンズでの試合のこと。この試合は序盤に前年のチャンピオンだったアスレチックスをヤンキースが圧倒、初回に4点を取り、2回にも追加点のチャンスに走者ジェフ・スウィーニーが三塁を廻る。しかしそこでスウィーニーは突然エバンスにアウトを宣告される。三塁コーチに立っていたフランク・チャンスが、スウィーニーの走塁を手伝ったのがその理由だった。この『肉体的援助』のルールは、この年初めて適用されたばかりだった。

出典・外部リンク[編集]