慢性外傷性脳症

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慢性外傷性脳症
Chronic Traumatic Encephalopathy.png
正常な脳(左)と患者の脳(右)
分類および外部参照情報
診療科・
学術分野
神経学, スポーツ医学
DiseasesDB 11042
eMedicine sports/113
MeSH D000070627
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慢性外傷性脳症(まんせいがいしょうせいのうしょう、chronic traumatic encephalopathy; CTE)とは、頭部への衝撃から生じる脳震盪などのへの反復する傷害が原因となり、脳変性による認知症に似た症状を持つ進行性の脳症をきたす神経変性疾患[1]。最初にボクサーで見出されたことから俗にパンチドランカー(和製英語)と呼ばれており、他にもパンチドランク症候群(punch-drunk syndrome)、拳闘家痴呆(dementia pugilistica; DP)、慢性ボクサー脳症、外傷性ボクサー脳症、慢性ボクシング外傷性脳損傷などの別称がある。しかしこの疾患は、アメリカンフットボールアイスホッケーサッカー[2]プロレスリング野球[3]などの接触の多いスポーツ(コンタクトスポーツ)の多くでみられているほか、脳震盪を繰り返した兵士にもみられている。

頭部(脳)への衝撃による外傷性脳損傷が発症の起因となる点が、アルツハイマー病パーキンソン病など他の神経変性疾患と異なっているが、タウタンパク質の過剰なリン酸化によって神経変性が引き起こされるタウオパチーであることは共通しており、死後に脳を解剖することによってしか最終的な診断ができないことから、これらの疾患と混同されることが非常に多い。

症状[編集]

軽度な外傷性脳損傷を繰り返し受けてから数年から数十年経って、記銘力低下、易攻撃性錯乱、抑うつ状態などの認知症症状を呈する。これらの症状が悪化することによって社会生活だけでなく、日常の生活でさえ著しく困難になる場合もある。アルツハイマー病パーキンソン病などとの鑑別が困難なことが多い。

具体的な症状は以下の通りであるが、同様に脳の器質的障害に起因する認知症の症状などにも類似した各種障害や人格変化が現れることが往々にある。

ボストン大学医学部のロバート・キャントゥらによる研究では、慢性外傷性脳症の重症度について4段階のステージを設定している[4]

  • ステージ1 頭痛
  • ステージ2 鬱、攻撃性、怒り、短期間の記憶障害
  • ステージ3 認知障害
  • ステージ4 本格的な認知症、パーキンソン病(体の震え、歩行障害)

要因[編集]

頭部に強い衝撃を繰り返し受けることがパンチドランカーの危険因子になると一般的には考えられているが、頭部に衝撃を繰り返し受けている全てのアスリートが発症しているわけでは無く、2005年ごろから本格的な研究が始まったばかりの疾患ということもあり詳しいことはまだ判明しておらず、遺伝の可能性や被曝の程度など様々な研究調査が続けられている。

格闘技におけるダウンは、いわゆる脳震盪が最大の要因である。「震盪」とは、激しく揺り動かす・激しく揺れ動く、という意味で、脳震盪とは脳が頭蓋内で強く揺さぶられることを指す。脳震盪により、大脳表面と大脳辺縁系および脳幹部を結ぶ神経の軸が広い範囲で切断などの損傷を受けることで、ダウンが起こる。

ボクシングは他の格闘技と比べて頭部へダメージが集中するためパンチドランカーに陥り易いとされていて、ボクシングをはじめてから平均して15年後ぐらいに発症する選手が多く、ボクサーの約20%が患っていると言われている[4]。実際2015年1月30日に発表された、米国クリーブランド・クリニックを中心とした研究グループが4年間に渡って収集分析した研究結果でも「ボクサーは総合格闘家と比べて、年齢にかかわりなく全般的に結果が悪く、ボクサーの脳容量は総合格闘家よりも小さく、知的に後れを取っていた」と実証された[5]アルバータ大学が2015年11月に発表した、試合後の選手が義務付けられているメディカルチェックの10年分、総合格闘家1,181人、ボクサー550人を対象にしたメディカルチェックを再調査した結果でも、切り傷や捻挫などの軽症を負った選手はボクサーの49.8%に対して総合格闘家が59.4%と上回ったが、脳震盪や失神、骨折や目の損傷などの重症を負った選手は総合格闘家の4.2%に対してボクサーが7.2%と上回り同様に実証された[6][7]。その理由については、ボクシングは攻撃が許されている範囲が頭部と胴体に限定されているため、ルール的に頭部へダメージが集中しやすい構造となっており、関節技ローキックなど頭部以外へダメージが分散される他の格闘技よりも頭部のダメージの多くなっていることや、特にプロボクシングは勝利のために相手をノックアウトすることを狙う格闘技であり、興行という観点からも派手なノックアウト勝利を至上とする風潮が根強いためノックアウトを奪いやすい頭部への打撃が多いこと、ボクシングは試合時間(ラウンド数)が他の格闘技より長いためダメージが蓄積しやすいこと、などが指摘されている。

ボクシング、空手キックボクシングK-1)、総合格闘技プロレスなどの格闘技選手に限らず、競技中に激しい衝突が起きるラグビーアメリカンフットボールなどの選手、落馬事故によって頭部への受傷を経験した競馬騎手、またスポーツ選手以外にも、爆風で飛ばされた兵士、家庭内暴力の被害者、ヘッドバンギングの経験者などにもパンチドランカーの症状が見られることがある。

病理[編集]

脳にはタウタンパク質の蓄積と、脳組織の変性が認められる[8]

脳組織の変性としては、前頭皮質、側頭皮質及び側頭葉の萎縮から来る、脳重量の減少が特徴的であり、側脳室第三脳室の膨張がしばしばあり、稀な事例として第四脳室膨張が見られることもある。青斑核及び黒質の蒼白、嗅球視床乳頭体脳幹小脳の萎縮が認められ、さらに病状が進んだ場合 海馬 内嗅皮質扁桃体の著しい萎縮が見られることがある。

タウタンパク質の蓄積により、神経原線維変化英語版や、神経突起・グリア細胞の異常が引き起こされている。一方ベータアミロイドの蓄積は比較的珍しい。

診断[編集]

今のところ生きている間の診断は不可能で、死後に脳を解剖することでしか最終的な診断ができない。核磁気共鳴画像法などの高度な画像診断技術によって、脳内の器質的変化を見出そうとする研究が行われている。たとえばタウタンパク質に特異的に結合するようなトレーサーがあれば、ポジトロン断層法によってタウタンパク質の蓄積を見出すことができるはずである。しかし未だ実用に達したものはない。

予防法[編集]

脳への影響は打撃による累計的な損傷量、つまりダメージの蓄積がもっとも警戒すべき点であるとされている。それゆえ選手・競技者としてのキャリアが豊富かつ長期に渡る者や、激しいファイトを特徴とした選手ほど細心の注意が求められることになる。

最大の予防法は、脳にダメージを与えないことである。とは言っても、格闘技を行う以上、頭部へ打撃を全く貰わないというのは難しい。ディフェンス能力を徹底して高めたり、スパーリングでは、全力で顔面を殴らない。ヘッドギアを必ず着用する。キャリアが長期になるほど危険であるので、引退の時期を誤らないように注意することも重要である。

パンチドランカーとその症状を避けるためには、周囲の証言を聞き出すことや定期的な脳の検査(脳室拡大および白質の瀰漫性萎縮)を続けることが必要不可欠である。どんな小さなサインも見過ごさないようにすることが、悪化させない最良の手段である。近年では、多くの格闘技団体で試合前後の脳の検査を義務付けている。

研究[編集]

数多くのNFLスター選手を筆頭に、NHL選手、プロレスラー、MLS選手、ボクサーのミッキー・ウォードなどが死後、CTE研究のために脳を提供することを表明している。

CTEと診断された事例[編集]

アメリカンフットボール[編集]

2005年、アメリカンフットボールのスター選手であったマイク・ウェブスターの脳から、アメリカンフットボール選手として初めてCTEが発見される。CTEと診断された最も若いアメリカンフットボール経験者は17歳[9]。アマチュアを含むアメリカンフットボール経験者の脳からCTEが確認されており、現役中に殺人を犯し、終身刑判決を受け自殺したアーロン・ヘルナンデスも深刻なCTEが診断されている[10][11]。2013年4月9日には約4200人の元NFL選手が脳震盪の危険性を隠していたとしてNFLを告訴している[12]

アイスホッケー[編集]

2009年にはじめてアイスホッケーの選手の脳からCTEが発見される。他に有名選手を含んだ数人のNHL選手がCTEと診断されている。

プロレスリング[編集]

2007年、妻と子供を殺して自殺したWWEのプロレスラー、クリス・ベノワの脳からCTEが発見される。2009年、アンドリュー・マーチンの脳からCTEが発見される。

2014年、ビリー・ジャック・ヘインズはWWEに対して、WWF時代に受けた頭部へのダメージや脳震盪が原因で外傷性脳損傷を患ったとして告訴を行った[13]。ヘインズ対WWE訴訟は2016年末までにロード・ウォリアー・アニマルら、60名余りの元レスラーがCTE患者として原告に名を連ねる集団訴訟に発展したが[14]、司法側は元レスラーたちの多くがWWE以外の他団体でも活動していた事に着目し[15]、WWEでの試合のみにCTEとの因果関係を帰結させることは困難として請求を却下した。

疾患の疑いがある選手[編集]

  • モハメド・アリ(ボクシング) パーキンソン症候群、体の震えや筋硬直、喋りと動作の緩慢を特徴とする神経変性疾患[16]
  • ロジャー・メイウェザー(ボクシング) 昔の記憶の大部分を喪失し、甥のフロイド・メイウェザー・ジュニアの事を誰か認識できないほど症状が悪化している
  • シュガー・レイ・ロビンソン(ボクシング) アルツハイマー病[17]
  • 高橋ナオト(ボクシング) 著書「ボクシング中毒者」で告白。自転車で真っ直ぐ進むことが出来ず電柱にぶつかる、手の震えを抑えきれずにラーメンの汁をこぼしてしまう。
  • たこ八郎(ボクシング) 引退の原因となった。一時期二桁以上の文字すら記憶できなかった程の記憶障害や寝小便等の排泄障害にも悩まされたという。
  • ピューマ渡久地(ボクシング) てんかんの発作を何度も起こし、自分の年齢や家族の顔もわからないほどの記憶障害。さらに右半身の麻痺にも悩まされている。
  • 前田宏行(ボクシング) 自らのブログで告白し、引退することを明言。
  • フロイド・パターソン(ボクシング) アルツハイマー病、妻の名前を覚えられないほどの記憶障害が原因でアスレチックコミッションを辞任[18]
  • ゲーリー・グッドリッジ(K-1、総合格闘技) - 告白し、引退。自身の発言によると軽い認知障害があるといい、会話の途中で何を話していたか分からなくなるとしている。
  • ウィルフレド・ベニテス(ボクシング) 心神喪失状態。
  • ジェリー・クォーリー(ボクシング) アルツハイマー病、認知症、1983年にCTスキャン撮影で脳萎縮を確認。引退後、食事と着替えに介護者が必要となる。
  • マイク・クォーリー英語版(ボクシング)
  • ジミー・エリス(ボクシング) アルツハイマー病、晩年は既に亡くなっていた妻をまだ生きていると思い込んでいた。
  • エミール・グリフィス(ボクシング) 晩年は全面的な介護が必要となった。
  • メルドリック・テーラー(ボクシング) 医学的理由でボクシングライセンスの交付を拒否され引退[19]。引退後、テレビのインタビューで現役時代とは違い酷く吃った喋り方で話し現役時代を知る視聴者に大きな衝撃を与えた。
  • ジミー・ヤング (ボクシング)英語版 自身の麻薬関連の裁判で慢性外傷性脳損傷であるとして減刑を求めた。
  • ボー・ジャック英語版(ボクシング) 重度の認知症。椅子に座りなにもない空中にひたすらパンチを繰り出していた。
  • アーニー・テレル(ボクシング) 認知症。
  • ウィリー・ペップ(ボクシング)
  • ボビー・チャコン(ボクシング)
  • レオン・スピンクス(ボクシング) 認知症。
  • ミッキー・ウォード(ボクシング) 2006年頃に診断され、週に3〜5日は夜中に酷い頭痛と吐き気で目を覚まし、鎮痛剤を飲む生活を続けている[20]
  • フレディ・ローチ(ボクシング) パーキンソン病。
  • 大木金太郎(プロレスリング) 頭突き一本で試合が出来るとまで言われたファイトスタイルの後遺症で、晩年はパンチドランカーの症状を呈して介護生活を余儀なくされていた[21]
  • ダイナマイト・キッド(プロレスリング) 相手の頭部に直撃させるダイビング・ヘッドバットを切り札とし、自分より大柄なレスラーのプロレス技を全てバンプする過激なファイトスタイルを貫いた結果、晩年は歩行もままならない車椅子生活を送ることとなった[22]。ダイビング・ヘッドバットと脳震盪との関連性が特に強く示唆されたレスラーであり、彼のファイトスタイルに影響を受けた前述のクリス・ベノワ、ブライアン・ダニエルソンらも同様の障害に苦しむこととなった[23]
  • 菊地毅(プロレスリング) 「和製ダイナマイト・キッド」と謳われたファイトスタイルと、キャリア後期に多用した立ち技としてのヘッドバットの影響により、パンチドランカーの症状を呈しているとされる。但し、菊池はこの障害を逆手に取り、奇矯な言動や奇抜な行動をファイトスタイルに組み入れて現役を続行している[24]

フィクションでの使用例[編集]

脚注[編集]

  1. ^ McKee AC, and others. J Neuropathol Exp Neurol. Jul 2009; 68(7): 709–735. doi: 10.1097/NEN.0b013e3181a9d503
  2. ^ https://square.umin.ac.jp/massie-tmd/noamfoot.html
  3. ^ http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA03060_04
  4. ^ a b Chronic Traumatic Encephalopathy (Brain Damage)”. BOXING.com (2013年2月17日). 2013年6月26日閲覧。
  5. ^ 頭への衝撃で脳の処理速度が遅くなる、ボクサー1試合ごとに0.19%のペース「ボクサーの方が頭を打たれる」、脳が小さくなる原因に?”. MEDエッジ (2015年2月11日). 2015年3月2日閲覧。
  6. ^ New study reveals that boxing leads to more serious injuries than MMA”. Bad Left Hook (2015年11月6日). 2015年11月20日閲覧。
  7. ^ ボクシングと総合格闘技ではどちらがより過酷なのか:研究結果”. ライフハッカー (2015年11月20日). 2015年11月26日閲覧。
  8. ^ http://www.bu.edu/cte/about/what-is-cte/
  9. ^ Brain bank examines athletes' hard hits”. CNN.com (2012年1月27日). 2013年6月26日閲覧。
  10. ^ NFLの故ヘルナンデス元選手、脳疾患CTEだったことが発覚AFP通信 2017年9月22日
  11. ^ 故ジュニア・セーアウの脳に慢性外傷性脳症確認”. アメフトNewsJapan (2013年1月10日). 2013年6月26日閲覧。
  12. ^ 引退選手4,000人超参加の脳震とう訴訟、聴聞会開催”. アメフトNewsJapan (2013年4月9日). 2013年6月26日閲覧。
  13. ^ Former WWE Superstar Billy Jack Haynes Suing WWE for ‘Egregious Mistreatment’ of Wrestlers”. 411mania.com (October 25, 2014). 2016年6月3日閲覧。
  14. ^ Plaintiffs/Former Wrestlers – WWE Concussion Lawsuit
  15. ^ The Most Notable WWF/WWE Lawsuits (1990 - 2018) - wrestlingscout
  16. ^ He is simply ... The Greatest”. ESPN.com (2013--). 2013年6月26日閲覧。
  17. ^ Bittersweet Twilight For Sugar”. SI.com (1987年7月13日). 2013年6月26日閲覧。
  18. ^ Can medical technology save boxers from brain death?”. SALON.com (1999年5月1日). 2013年6月26日閲覧。
  19. ^ Quitting Time”. SI.com (2002年6月3日). 2013年6月26日閲覧。
  20. ^ LIVING LEGEND MICKY WARD IS DEALING WITH CTE SYMPTOMS”. RING (2020年2月14日). 2020年2月22日閲覧。
  21. ^ 朴正煕大統領、大木金太郎に「反則禁止令」出していた” (日本語). 朝鮮日報 (2005年9月21日). 2011年2月23日閲覧。
  22. ^ Curse of Stampede Wrestling? - SLAM! Sports
  23. ^ Examining Injury Risk of Daniel Bryan's Diving Headbutt - Bleacher Report
  24. ^ 玉砕の果てに~和製爆弾小僧と呼ばれたやられ屋の漂流/菊地毅【俺達のプロレスラーDX】 - ジャスト日本のプロレス考察日誌

関連項目[編集]