パロ・アルトの戦い

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パロ・アルトの戦い

戦争米墨戦争
年月日1846年5月8日
場所テキサス州ブラウンズヴィル近く
結果:決着つかず
交戦勢力
アメリカ合衆国 メキシコ合衆国
指導者・指揮官
ザカリー・テイラー マリアノ・アリスタ
戦力
歩兵2,400 歩兵2,300、騎兵1,100、砲兵160人、銃兵12
損害
5人が死亡、43人が負傷 102人が死亡、129人が負傷、26人が行方不明
米墨戦争

パロ・アルトの戦いBattle of Palo Alto)は、米墨戦争の最初の主要な戦いで、1846年5月8日に現在のテキサス州ブラウンズヴィルの市から5マイル(8km)離れたところの紛争地で戦われた。マリアノ・アリスタ将軍率いるおよそ3,400名のメキシコ軍部隊(北部軍(Army of the North)の一部)が、2,400名のアメリカ軍部隊(合衆国監視軍(Army of Observation))と交戦した。

背景[編集]

戦いはアメリカ軍の施設「テキサス砦」を、メキシコ軍が包囲しようとした結果起こった。メキシコ軍は、それをメキシコ領テキサスの境界内に建設されたものとみなした。イザベル港から物資を受け取っていたザカリー・テイラー将軍は、遠方で大砲の砲火の報告を聞いた。メキシコ軍はテキサス砦の攻撃を開始した。テイラーは、彼の部隊を集め、砦の防備兵を救出するべく突進したが、アリスタ将軍率いるメキシコ軍に途中で妨害された。フランシスコ・メヒア将軍指揮下のもうひとつのメキシコ軍部隊は、ブラウン砦とマタモロスに残っていた。

戦闘[編集]

アリスタ将軍の軍は幅1マイルに広がり、アメリカの銃剣攻撃を不可能にした。通常ではない動きで、テイラーは敵を攻撃するため銃撃隊を前に進めた。このサミュエル・リングゴールド少佐が開発した、攻撃したらすぐに別の位置に移動し、もう一度発射するという軽い銃を使用する戦術「Flying Artillery」で、アメリカ軍は戦いに勝利した。重くて発射の遅いメキシコ軍の銃は、パロ・アルトの深いやぶでは空しかった。アリスタは、騎兵に銃撃隊への側面攻撃を命令したが、アメリカ軍の「Flying Artillery」は接近する騎兵を退けることができた。

戦闘後[編集]

リングゴールドは戦闘による負傷で死亡したが、彼の死はアメリカ側の士気の重要な後押しに拍車をかけた。戦闘の初日の後、テイラーはメキシコ軍が戦場から撤退し、次の交戦地のレサカ・デ・ラ・パルマに野営地を移動したのを見て行動を起こした。

メキシコ軍は、いくつかの理由でアメリカ軍よりも大きい死傷者を出した。メキシコ軍はアメリカ軍よりも火薬が乏しく、彼らの大砲とマスケット銃の射程が短かった。乏しい火薬は、早く暴発する傾向があり、そのため多くの兵士が、よりわずかな量の火薬を装填し、さらにそれは兵器の射程にも影響した。メキシコ軍兵士は、通常ほとんど訓練されておらず、揮発性の火薬をしばしば恐れた。戦争中における典型的なメキシコ兵は、アメリカ軍よりも技術的に粗悪な武器を持っていた。アリスタの兵士が使用していたマスケット銃は、イギリス軍がその1世紀前のナポレオン戦争アメリカ独立戦争で使用したのと同様の、イギリス製のブラウン・ベスだった。

交戦地は、現在パロ・アルト戦場国立史跡として、国立公園局が管理している。

関連項目[編集]