パルヴィーン・エーテサーミー

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パルヴィーン・エーテサーミー

パルヴィーン・エーテサーミーپروین اعتصامی Parvīn E'tesāmī1906年3月16日 - 1941年4月5日)は、イラン立憲革命後の女流現代詩人
タブリーズの名家に生まれる。
イランでは10世紀のラービア・グズダーリー、12世紀のマフサティー、19世紀のクッラトル・アインと並ぶ20世紀における最大の女流詩人として、ペルシア4大女流詩人の一人に数えられている。

立憲革命後のイランにおいて、30年余りという短い生涯にもかかわらず豊富な見識により多くの優れた詩群を創作し令名を馳せた女流詩人であり、女性が社会の表舞台に現れるということが極めて稀なイスラム社会において彼女ほどイラン国民に広く愛され、現代ペルシア文学において重要な位置を占めるに至った女性は他に例を見ない。

パルヴィーンが生まれた1906年は折しもイラン国内では立憲革命が起こり、第1次立憲制が開始された時であった。
ナースル・ウッディーン・シャー→ムザッファル・ウッディーン・シャー→ムハマッド・アリー・シャーと続いたガージャール朝末期の政策、特に西欧資本主義国に対する重大な利権の供与やシャー(王)による多額の外債・租税の増大といった国家と国民の利益を無視したやり方に起因するシャー(王)に対する反感の噴出がこの革命の性格であり、イランにおける最大規模の国民運動であった。
日露戦争でのロシアの敗退とその後のロシア国内における立憲制の確立はイラン国民を刺激し、当時イラン国内に出現した革新思想家アフガーニーことサイィッド・ジャマールッディーンに指導された立憲革命はムハマッド・アリー・シャーによる「小専制」と呼ばれていた反動政策を克服し、旧来の専制君主制から立憲君主制へと新生イランを成立せしめた。
この後約20年間、イランは欧米帝国主義の産物たる第一次世界大戦の戦場と化し、当時の愛国主義を抱いた詩人は多くの反帝国主義詩を発表しつつあった。そのような時代はパルヴィーンにとっては彼女の父や学校による教育の時期であった。 バルヴィーンは就学前はペルシア、アラビアの両文学について父から手ほどきを受け、父のもとに集まってくる知識人から様々な知識を吸収した。彼女の家は当時、父の友人である文学者、学者や弁士たちの集うサロンのような場となり、父と同様、一般的に人前に出るのを嫌った彼女もそのような場では熱心に議論を交わすこともあったという。また、幼いながら見事な詩を読むパルヴィーンに周囲の人々は驚嘆したものであった。 その後、パルヴィーンはアメリカ系の女学校(Iran Bethel)で学び、1924年そこを卒業した。バルヴィーンにとってこの学校で学んだということは後の彼女の考え方や思想の形成に大きな影響を与えたということができよう。 この学校は、当時としてはかなり充実した教育カリキュラムを備えており、イランの現代詩人たちのなかでもパルヴィーンほどその幼少時代にこのような恵まれた教育を受けたものは稀である。 この女学校の卒業記念講演として、パルヴィーンは「زن و تاریخ」と題する講演を行った。書簡等の散文による文書がパルヴィーンにはあまり残されてはいないため、この講演録は彼女の手による数少ない散文として貴重であるばかりでなく、彼女の女性の地位向上に対する考え方がどのようなものであったのか?また、若き日のパルヴィーンの思考様式などがうかがい知れてとても興味深い。この講演録の冒頭に述べられている人類の文化の発展における印刷技術の必要性に関する叙述からも明らかなように、パルヴィーンの言葉の中には父ユースフ・エーテサーミーの影が色濃く、文体においてもユースフ・エーテサーミーのそれと酷似しているところがあり、彼の手によってこの講演の草稿に修正が加えられたことは明らかである。しかし、全体的には女性らしい考え方で、女性の立場に立った発言であるということができよう。ここで述べられている彼女の女性解放に対する考え方は、そのまま詩に反映し、同時代、及び後世の知識人や詩人に影響を及ぼしていくのである。ちょうどこの時期より、レザー・シャーはそういった知識人たちの近代化への要求の声を背景に、さまざまな政策の実施にのり出した。その中でも、最も重要であったのが、社会・教育改革であった。 社会改革は主に、イランの近代化を妨げてきたシーア主義というイスラム宗教色を緩和するさまざまな改革が断行されたが、その中でも最も注目されるものが、チャードル「چادر」着用の禁止を軸とする女性の地位向上の政策であろう。イラン人女性は、イスラム教の教義に基づく習慣として、夫、その他、極めて狭い範囲の男性近親者以外の前に、婦女子が顔を表すことを禁じていたことにより、外出時には、顔、頭、身体の全部を覆い隠すチャードルを着用してきたのであったが、こういった女性隔離の風習が、国家の近代化を妨げる要因として、1936年に廃止されるにいたったのである。パルヴィーンは王(シャー)のこの政策を絶賛し、次の詩を作詩した。

خسروا دست توانای تو آسان کرد کار ورنه در این کار سخت امید آسانی نبود

شه نمیشد گردرین گم گشثه کشپی ناخدای ساحلی پیدا از این دریای طوفانی نبود

パルヴィーンは、学校を卒業して10年後の1934年にいとこと結婚し、ケルマーン・シャー(کرمانشاه)の夫の家に嫁いだが、結婚による拘束に嫌気がさして、2ヶ月半後には夫のもとから父の家に戻り、その後わずか1年余りで離婚してしまった。
彼女は、結婚における失敗について、その後語ることはなかったが、西欧式教育を受け、近代的な思想を備えた彼女が、イランの伝統的な家庭に溶けこめなかったのは、次の詩からも明らかである。

ای گل ثوز خمعیت گلزار چه دیدی جز سرزنش و بدسری خار چه دیدی

ای لعل دل افروز تو بااینهمه پوتو جزمشتری سقله ببازار چه دیدی

رفتی به چمن لیگ قفس گثت نصیبت غیرازقفس،ای مرغ گرقتار چه دیدی

パルヴィーンを是非、王妃の家庭教師にという王(شاه)の意向を受けて、1938年にイラン教育省は、学位3等を授けて彼女を王室にむかえようとしたが、彼女は、「私よりもこの任を受けるのにふさわしい者がたくさんいるはず」という理由でそれを拒否した。
1941年にパルヴィーンは、全く突然の死にみまわれた。彼女の兄のアブール・ファトフ・エーテサーミーによると、当時彼女が患った病気に対する医師の治療ミスが原因で彼女は死にいたったとされているが、彼女の死に関してはっきりしたことはわかっていない。
彼女の遺体は、当時王(شاه)の新しい宮廷がおかれたコムにあった一族の墓地の父の墓の横に埋葬された。
パルヴィーンの墓石には、生前彼女が墓碑銘のためにしたためておいた"重い墓石(لوح سنگین)"と題する以下の詩が刻まれている。

パルヴィーン・エーテサーミーの墓碑銘

اينکه خاک سیهش بالین است اختر چرخ ادب پروین است
گر چه جز تلخی از ایام ندید هر چه خواهی سخنش شیرین است
صاحب آنهمه گفتار امروز سائل فاتحه و یاسین است
دوستان به که ز وی یاد کنند دل بی دوست دلی غمگین است
خاک در دیده بسی جان فرساست سنگ بر سینه بسی سنگین است
بیند این بستر و عبرت گیرد هر که را چشم حقیقت بین است
هر که باشی و زهر جا برسی آخرین منزل هستی این است
آدمی هر چه توانگر باشد چو بدین نقطه رسد مسکین است
اندر آنجا که قضا حمله کند چاره تسلیم و ادب تمکین است
زادن و کشتن و پنهان کردن دهر را رسم و ره دیرین است
خرم آن کس که در این محنت‌گاه خاطری را سبب تسکین است

最後に、パルヴィーンの人柄にふれるならば、次の一言に尽きると言えよう。

کم سخن میگفث و بیشتر فکر میکرد

(Parvin was the model of plain living and high thinking)

この言葉は、パルヴィーン・エーテサーミーという女流詩人を語るときには必ずといっていいほど引き合いに出されるのであるが、このような彼女に 対する評価は、その死後イラン国内各地で開かれた彼女の追悼会や文学シンポジウムの中で確立されていったのである。 彼女が卒業し、教鞭をとった母校で行われた追悼会の席上、そこの校長で、学校の創設者でもあるシュラー(S.chuller)女史は、パルヴィーンを次の ように評価している。

「パルヴィーン・エーテサーミーについて語り、彼女の貴さについて物申そうとする者は、その人自身、詩人である必要があります。が、私は詩人 ではありません。しかし、私はパルヴィーンが本校で学んでいるときも、また、学業を終了し、教鞭をとっているときも、その学校の校長という特別 な責任を負うていました。パルヴィーンは、本校への入学当初から豊富な知識を備えていたとはいえ、生来の謙虚な資質も手伝って、自分の手の届く 範囲におかれた新たな課題に対しては、その獲得に熱意をもって取り組みました。パルヴィーンは概して、あらゆる学問の事柄に対して興味を示し、色々な知識を習得しようと 努めました。その当時、学校の女子たちの多くが、アメリカの女子学生との文通を行っていましたが、誰もそれが長続きはしませんでした。 そんな中で、ただパルヴィーンのみが、いわば彼女の知識の仲間を広げる手段というべき文通を、アメリカの友人と長年絶えることなく自身の晩年迄続けました。 この才ある女性の際立った天性はともかく、何よりも魅力的であったのは、彼女の誠実さと明白さであります。また彼女は周囲の者たちに見せかけの友情というものを 要求しませんでした。そして、彼女自身、いつも何か思索にふけっているようでした。イラン人に言わせれば、パルヴィーンの心は明るく澄んだ鏡でした。 そこには彼女の真の姿が映っていたのです。パルヴィーンと、彼女によって成された人生の意味と目的の理解は決して忘れられることはないでしょう。」

また、パルヴィーンと親しかった友人の一人であるソルール・メヘキャメ・マフサス女史は、パルヴィーンの人格について次のように書いている。 「パルヴィーンは清い性格と清い思想を備え、上品で、温厚で、品行方正で、自分の愛する友達に対して友情の上では控えめでこそはあったが、正義と愛情の面では誠実性を示した。


参考文献[編集]

  • パルヴィーン・エーテサーミー研究 1974年 テヘラン
  • パルヴィーン・エーテサーミー詩集第6版