バーラージー・ヴィシュヴァナート

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
バーラージー・ヴィシュヴァナート
Balaji Vishvanath
マラーター王国宰相
Balaji Vishvanath.jpg
バーラージー・ヴィシュヴァナート
在位 1713年11月16日 - 1720年4月12日
戴冠 1713年11月16日
別号 ペーシュワー

出生 1660年頃あるいは1662年1月1日
死去 1720年4月12日
プネー近郊、サースワド
配偶者 ラーダー・バーイー
子女 バージー・ラーオ
チンナージー・アッパ
王朝 ペーシュワー朝
父親 ヴィシュヴァナート・パント
宗教 ヒンドゥー教
テンプレートを表示

バーラージー・ヴィシュヴァナートマラーティー語:बाळाजी विश्वनाथ, 英語:Balaji Vishvanath, 1660年頃あるいは1662年1月1日 - 1720年4月12日)は、インドデカン地方マラーター王国の世襲における初代宰相(ペーシュワー1713年 - 1720年)。マラーター同盟の盟主でもある。

彼の宰相就任以降、その後一世紀にわたりその子孫がマラーター王国の宰相とマラーター同盟の盟主を独占することになり、その地位が世襲される形が19世紀まで続いた。

生涯[編集]

幼少期・青年期[編集]

1662年1月1日、バーラージー・ヴィシュヴァナートは、コンカン地方バラモンカーストであるコンカナスタあるいはチットパーワンの家系に生まれた[1]。ただ、生年に関しては諸説あり、だいたい1660年頃とされている。

バーラージー・ヴィシュヴァナートに関する幼少期および青年期は殆ど知られておらず[1]、もはや伝承といった形でしか伝わっていない。彼はコンカン地方シュリーヴァルダンの郷主ヴィシュヴァナート・パントの息子として生まれたが、その地域のシーディーと呼ばれるムスリムの迫害を受け、コンカン地方を離れてデカンに向かった[1]。その間、彼はずっとチプルーンで製塩職人として働いていたという。

マラーター王国の役人として[編集]

1689年、バーラージー・ヴィシュヴァナートの名が史料という形でようやく表れる[1]。このとき、彼はマラーター王国の官僚ラームチャンドラ・パント・アマーティヤのもと、下級役人として働いていた[1]

1695年の文書によると、バーラージー・ヴィシュヴァナートはデカンのプネーダウラターバードの州長官(サル・スバー)となっている[1]。だが、1689年以降、ムガル帝国の皇帝アウラングゼーブによるデカン戦争で、この地域はからはマラーター王国の勢力が放逐されており、彼はマラーター王国側の名目上の行政官であった[1]

ただ、この地域にはマラーターの影響力もあり、バーラージー・ヴィシュヴァナートはムガル帝国との何らかのやり取りをしていたともいう[1]。その証拠にマラーターの王子シャーフーのやり取りが見られている。

1689年3月にマラーター王サンバージーが殺されたのち、その息子シャーフーはムガル帝国の捕虜として、帝国の宮廷に滞在していた[2]。つまり、シャーフーとのやり取りはムガル帝国を介してでないとできなかった。

そして、このシャーフーとのやり取りで地方役人にすぎなかったバーラージー・ヴィシュヴァナートはその信頼を得ることに成功し、その運命に大きくかかわってくるようになる[1]

マラーター王国の宰相として[編集]

バーラージー・ヴィシュヴァナート像(プネー

18世紀初頭、マラーター軍はムガル帝国に対して反撃に出て、1707年3月に老帝アウラングゼーブが死ぬと、同年5月にシャーフーはデリーを出た[2]。こうして、同年帰国したシャーフーは王位継承権を主張し、マラーター王にであることを宣言した。

だが、マラーター王シヴァージー2世の摂政のターラー・バーイーが反対したため、マラーター王国は二分された[1]。このとき、バーラージー・ヴィシュヴァナートはシャーフーの支持を素早く表明し、かねてから二人は連携を取り合っていたため、状況を有利に進めることができた。

そして、同年10月にシヴァージー2世とターラー・バーイーを打倒し、1708年1月12日にシャーフーは第5代国王となった[1]。なお、シャーフーが即位した1708年は、マラーター王国を中心にマラーター諸侯らによるマラーター同盟結成の年とされる(とはいえ、マラーター同盟の確立はもう少し後である)。

バーラージー・ヴィシュヴァナートはその功績で側近となり、1713年11月16日にマラーター王国の宰相(ペーシュワー)となった[1][3]。また、彼はコンカン地方のバラモンを多く登用し、同盟内における彼らの地位を固め、その後一世紀近くにわたり彼の家系がマラーター王国の宰相位を独占する基礎を作った。

ムガル帝国への介入[編集]

一方、ムガル帝国もまた、アウラングゼーブの死後に3人の息子が争うなど、長期にわたる帝位継承戦争が続いた。この戦争はファッルフシヤルサイイド兄弟の力を借りて、1713年1月ジャハーンダール・シャーを打ち破り終わったが、ムガル帝国の国力を大きく削いだ。

デリーの実権を握ったサイイド兄弟は、マラーターに対する脅威を払拭しようと考えた。そして、1715年から軍務大臣サイイド・フサイン・アリー・ハーンデカン総督として着任し、マラーターと戦闘を行った。

1718年7月、バーラージー・ヴィシュヴァナートとフサイン・アリー・ハーンは、ムガル・マラーター間で次のような協定を結んだ[4][5]

  • ムガル帝国はシヴァージー時代の領土をマラーター王国の領土として認める。
  • ムガル帝国領のデカン6州に関して、チャウタ(諸税の4分の1を徴収する権利)およびサルデーシュムキー(諸税の10分の1とは別に徴収する権利)をマラーターに認める。
  • マラーター王国はムガル帝国が必要としたとき、騎兵15,000兵を援軍として派遣する。
  • マラーター王国はデカンにおける略奪及び反乱に歯止めをかけ、毎年100万ルピーを支払う。

また、同年9月にフサイン・アリー・ハーンが皇帝ファッルフシヤルにデリーに帰還するように命じられると、11月にバーラージー・ヴィシュヴァナートは彼に同行し、1719年2月に皇帝の廃位に加担した[4][5]。ファッルフシヤルはムガル・マラーター間での締結された条約を認めていなかったため、3月に新たな皇帝ラフィー・ウッダラジャートが条約を承認した[6]

バーラージー・ヴィシュヴァナートは条約が承認されたのちに帰還したが、彼と随行したサルダールらはムガル帝国の弱体化を目にし、デカンを越えて北インド侵略を考えるようになった[5]。彼は北インドを侵略しようとはしなかったが、デカンのチャウタとサルデーシュムキーを効率的に徴収するため、サルダールらにその地域を割り当てて足場を固めた[5]

引退と死[編集]

バーラージー・ヴィシュヴァナート像

1719年10月、バーラージー・ヴィシュヴァナートは主君シャーフーに引退を申し出て、政界を引退し、1720年4月12日にプネー近郊サースワドで死亡した[3][7]

あとを継いだのは有能な息子バージー・ラーオであり、父の築いたマラーター同盟の確立に努め、デカンと北インドにまたがる「マラーター帝国」へと仕立て上げた。

バーラージー・ヴィシュヴァナートの功績はマラーター同盟の基礎を築いたことと、彼自身の家柄の権威を高め、一世紀にわたり王国の宰相位を一族の世襲制にしたことにあった。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p212
  2. ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p211
  3. ^ a b PESHWA (Prime Ministers)
  4. ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p213
  5. ^ a b c d チャンドラ『近代インドの歴史』、p30
  6. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p38
  7. ^ Maratha Chronicles Peshwas (Part 1) The Early Peshwas

参考文献[編集]

  • 小谷汪之編 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年
  • ビパン・チャンドラ著、栗原利江訳 『近代インドの歴史』 山川出版社、2001年

関連項目[編集]