バヤン (タングート部)

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バヤン(Bayan、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えたタングート人将軍の一人。『元史』などの漢文史料では拜延(bàiyán)と記される。

概要[編集]

バヤンの先祖は西夏国に仕える家系であったが、父の火奪都の時代からモンゴル帝国に仕えるようになった。父はチンギス・カンに質子(トルカク)として仕え、百人隊長に任じられた。第2代皇帝オゴデイの時代には陝西方面タンマチを率いるネウリンの指揮下で西川方面に進出するよう命じられ、クドゥが臨洮で反乱を起こすと、蒙古・漢軍を率いるよう命じられて反乱討伐に従事したが間もなく陣没し、子のパヤンが跡を継いだ[1]

1272年(至元9年)にバヤンは征行千戸に任じられ、1273年(至元10年)には成都に侵攻してきた南宋軍を厳忠範の指揮の下撃退した。またネウリンの子のイェスデルの指揮下に入って嘉定攻めに加わり、その後も叙州重慶の攻略に参加して多くの功績を残した。

1275年(至元12年)には東西両川蒙古漢軍万戸[2]に任じられ、この後四川地方平定のため主に西川で活動することになる。同年にはオングト部の汪田哥が忠州を攻める際に別動隊として涪州に派遣された。しかし、この隙をついて汪田哥軍を奇襲しようと南末軍が長江を下ってきたことを察知すると、パヤンは急ぎ軍を返して逆に南宋軍を奇襲し、武将の李春と多数の物資を獲得し、軍船を多数焼き払う功績を挙げた[3]

1276年(至元13年)には一度投降していた瀘州が再び背いたためバヤンが派遣され、珍珠堡の戦いにて敵将の王世昌を打ち取り暗渓寨に入った。南宋軍は瀘州を再奪取すべく合州の兵が駆け付けたが、バヤンはこの合州軍も破って遂に瀘州を平定した。行院副使のブカによる重慶攻めではバヤンは遊撃隊と位置付けられ、敵軍の間課4名をとらえた。重慶が陥落すると、宣武将軍・蒙古漢軍総管に任じられている[4]

1282年(至元19年)、四川平定が成るとバヤンは総帥の汪田哥とともに論功行賞のためクビライの下に入見し、懐遠大将軍・管軍万戸に任じられた。その後バヤンが亡くなると子の答察児が跡を継ぎ、明威将軍・興元金州万戸府ダルガチに任じられた[5]

モンゴル帝国の四川駐屯軍[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻133列伝20拜延伝,「拜延、河西人。父火奪都、以質子従太祖征河西、太祖立質子軍、号禿魯花、遂以火奪都為禿魯花軍百戸。太宗朝、都元帥紐璘承制以為千戸、従征西川。忽都叛於臨洮、世祖命火奪都等以蒙古・漢軍従大軍往討之。火奪都卒、拜延襲」
  2. ^ この「蒙古漢軍」は所在・経歴ともに不明な軍団であるが、後に子の答察児が興元金州万戸府ダルガチに任じられていることから、『経世大典』などにみられる「興元成都等路都元帥府」と何らかの関係があるのではないかと考えられている(牛根2010,79頁)
  3. ^ 『元史』巻133列伝20拜延伝,「至元九年、制授征行千戸、佩金符。十年、宋師侵成都、四川僉省厳忠範遣拜延迎撃、大敗之。又従行省也速帯児攻嘉定、従行院忽敦取瀘・叙、攻重慶、数有戦功。十二年、行院承制以為東西両川蒙古漢軍万戸。総帥汪田哥用兵忠州、命拜延将兵二千、往涪州策応之。宋人伺知田哥回、以舟師順流而下、邀于青江、拜延引兵馳赴、擒其部将李春等十七人、取其軍資、焚其戦艦」
  4. ^ 『元史』巻133列伝20拜延伝,「十三年、瀘州復叛、行院遣拜延領兵趨瀘州珍珠堡、敗其将王世昌、俘掠其民人孳畜、移兵戍暗渓寨。宋合州兵来援、拜延生擒百餘人、戮之、遂克瀘州。行院副使卜花進兵囲重慶、遣拜延将兵游撃、獲大良平李立所遣諜者四人。重慶降、制授宣武将軍・蒙古漢軍総管」
  5. ^ 『元史』巻133列伝20拜延伝,「十九年、従総帥汪田哥入見、陞懐遠大将軍・管軍万戸、改賜金虎符、卒。子答察児嗣、授明威将軍・興元金州万戸府達魯花赤」

参考文献[編集]

  • 牛根靖裕「モンゴル統治下の四川における駐屯軍」『立命館文学』第619号、2010年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 元史』巻133列伝20