バブラク・カールマル
| バブラク・カールマル パシュトー語: ببرک کارمل | |
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| 生年月日 | 1929年1月6日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1996年12月3日(67歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 | カーブル大学 |
| 所属政党 | アフガニスタン人民民主党 |
第3代革命評議会議長 | |
| 在任期間 | 1979年12月27日 - 1986年5月4日 |
バブラク・カールマル(パシュトー語: ببرک کارمل、Babrak Karmal, 1929年1月6日 - 1996年12月3日)は、アフガニスタンの政治家、共産主義者で第3代革命評議会議長。バブラク・カルマルと表記されることもある。
経歴
[編集]カシミール出身のパシュトゥーン人の中将・パクティヤー州知事の父とタジク人の母の間にスルタン・フサインとして生まれた。父方の出身はギルザイ部族連合モッラヘル部族。
カーブル大学法学部の学生時代から共産主義に傾倒し政治運動に参加、この間1957年に自らの名前をカールマル(働き者)と改めている。翻訳者から政府職員を経て左翼政党のアフガニスタン人民民主党 (PDPA) の創設メンバーとなり、王政期の1965年から1973年までは下院議員として活動した。
1967年、アフガニスタン人民民主党はハルク派とパルチャム派に分裂、カールマルはパルチャム派の穏健派の指導者となった。党は1977年に再統合、1978年にはヌール・ムハンマド・タラキー書記長率いるクーデターでムハンマド・ダーウード大統領を殺害し、政権を奪取。国名をアフガニスタン共和国からアフガニスタン民主共和国 (DRA) に改称、国家の急激な社会主義化を進め、親ソ連政策を実施した。そんな中でカールマルは副首相に就任したが、政権奪取後に党の内部抗争が再燃。ハフィーズッラー・アミーン副首相率いるハルク派が台頭する中で、1978年7月5日にカールマルは副首相を解任の上で駐チェコスロバキア大使に左遷させられた[1]。
翌1979年4月にアミーンがタラキー議長・首相を殺害し自らが権力を掌握すると、カールマルはプラハに留まったまま事実上の亡命状態になった。しかし直後にソ連のアフガニスタン侵攻でアミーン体制が転覆されると、ソ連に擁立される格好で帰国し革命評議会議長および党書記長に就任することとなった。
だが人民民主党政権の度重なる宗教弾圧、ソ連一辺倒の政策に反対するイスラム戦士(ムジャーヒディーン)による反政府ゲリラ活動で国内は混迷を極め、ソ連政府は事態を収拾できないカールマル擁立を次第に失敗であったと考えるようになる。そしてソ連はアフガニスタンの新たな指導者としてムハンマド・ナジーブッラーを擁立。カールマルは1986年5月4日、第18回党中央委員会総会において「健康上の理由」により党書記長を辞任し、ナジーブッラーに譲った[2]。続いて11月20日に革命指導評議会議長および最高会議幹部会議長を辞任[3]。モスクワに病気療養の名目で滞在するものの1991年に請われてアフガニスタンに帰国、1992年にムジャーヒディーンによって人民民主党政権が打倒されると政権時代の部下で北部のタジク人地域一帯を実効支配していたラシッド・ドスタムの許に身を寄せた。1996年にモスクワで肝臓がんによって死去。
関連項目
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 吉村文成「「重要日誌」」『撤兵と政権交替 : 1986年のアフガニスタン』アジア経済研究所、1987年、[589]-600頁。doi:10.20561/00039061。hdl:2344/00002040。ISBN 9784258010875。
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