バビロン捕囚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バビロニア捕囚から転送)
移動: 案内検索
バビロン捕囚

バビロン捕囚(バビロンほしゅう)は、新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国ユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され移住させられた事件を指す。バビロン幽囚バビロンの幽囚ともいう。

概要[編集]

紀元前597年、ネブカドネザル王はエルサレム市街に入城し(en:Siege of Jerusalem (597 BC))、住民のうちもっとも有力な若い者をユダヤ人の王エホヤキムとともに殺害し、約3,000人(『エレミヤ書』によると3,023人)の有力者を捕虜としてバビロンに拉致した。

エホヤキムの息子のエホヤキンが王国を嗣いだが、ネブカドネザル王は謀反を恐れ、エホヤキンや王族をはじめとしてエルサレム市内の若者や職人たちのすべてをバビロンに連行させた。その数は10,832人に達したという。エホヤキン王の叔父ゼデキヤが王位を継承したが、紀元前586年7月11日(ユダヤ暦3175年アヴ9日)、エルサレムは破壊され、ゼデキヤ王以下ユダヤ人たちはバビロンへ連行された。

ユダの捕囚民[編集]

ユダの捕囚民の大部はバビロニアにあるニップル市そばの灌漑用運河であるケバル川沿いに移住させられた(『エゼキエル書』による)。この地域はかつてアッシリア人の要塞があったが、新バビロニア勃興時の戦いによって荒廃しており、ユダヤ人の移住先にここが選ばれたのは減少した人口を補うためであったと考えられる。一方で職人など熟練労働者はバビロン市に移住させられ主としてネブカドネザル2世が熱心に行っていた建設事業に従事することになった。

『エゼキエル書』などの記録から、当初ユダの捕囚民達はこのバビロニアへの強制移住は一時的なものであり、間をおかず新バビロニアは滅亡して故国へ帰還できるという楽観論を持っていたといわれている。これに対しエレミヤエゼキエルはエルサレム神殿の破滅が近いことを預言し、繰り返し警告を与えたが「救いの預言者」と呼ばれた人々は楽観論を吹聴してまわり、捕囚民達は滅びの預言に耳を傾けることはなかった。しかし、上述した如く紀元前586年にエルサレム神殿が破壊されると、ユダの捕囚民に広がっていた楽観論は粉砕された。

ユダヤ人とバビロニア文化[編集]

すぐに故国に帰れるというユダヤ人の希望は幻と消え、長期に渡ってバビロニアに居住することになったユダヤ人は現地の文化の著しい影響を受けた。1、2世代を経るうちに、捕囚民の中にはバビロニア風の名前を持つ者が数多く現れた。エホヤキン王の孫ゼルバベル(「バビロンの種」の意)の例に見られる如く王族の間ですらその傾向は顕著であった。

また月名にバビロニア月名が採用された。旧来のユダヤ月名は「第一月」「第二月」のように番号でもって呼称されていたが、これが「ニサン月(第一月)」「イヤル月(第二月)」のようにバビロニア名でもって呼ばれるようになった。

そして文字文化にも大きな影響が齎された。旧来の古代ヘブル文字に変わってアラム文字草書体が使用されるようになり、文学にもバビロニア文学の影響が見られるようになった。

一方でバビロンのユダヤ人たちは、バビロニアの圧倒的な社会や宗教に囲まれる葛藤の中で、それまでの民族の歩みや民族の宗教の在り方を徹底的に再考させられることになった。宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとするようになり、神殿宗教であるだけではなく律法を重んじる宗教としてのユダヤ教を確立することになった。また、この時期に神ヤハウェの再理解が行われ、神ヤハウェはユダヤ民族の神であるだけでなくこの世界を創造した神であり唯一神である、と理解されるようになった。バビロニアの神話に対抗するため、旧約聖書の天地創造などの物語も、旧約聖書学で「第2イザヤ」「祭司記者」などと呼ばれている宗教者たちにより記述されていった。後のローマ帝国以降のディアスポラの中でも失われなかったイスラエル民族のアイデンティティはこうしてバビロン捕囚をきっかけとして確立されている。

オリエントの強制移住[編集]

古代オリエント社会においては、反乱の防止や職人の確保、労働力の確保を目的として強制移住が行われることは頻繁に見られるものであり、ユダヤ人のバビロン捕囚も基本的にこれと変わるものではない。紀元前592年に捕囚民に対して与えられた食料の供給リストがバビロンから出土しているが、このリストにはユダ王エホヤキンやユダヤ人ガディエル、セマフヤフ、シェレミヤフなどの名前とともツロ人ビュブロスの大工、エラム人メディア人ペルシア人エジプト人ギリシア人などの名が上げられており、広範な地域から人間が集められた事がわかる。

ユダヤ人のバビロン捕囚はこういった強制移住政策について今日最も詳細に記録が残されたものとして重要性を持つ。

バビロン捕囚の終焉[編集]

紀元前539年アケメネス朝ペルシアは軍をバビロンへと進め、新バビロニアは滅亡した。この際、ペルシア王キュロス2世の命令によって、ユダヤ人たちは解放され、故国に戻る許可を得た。捕囚の地から最初にエルサレムに帰還したものは42,462人という。

こういったことからユダヤの知識人はキュロス2世を大いに称えた。

「主は彼の油が注がれた者(使わされた者)クロスに向かい、かく語りたもう。我は彼の右手を支え、諸国民を彼の前に屈服せしむ。我は諸王の腰を解き、二つの扉を持つ門を彼の前に開かん。門は閉ざされることなし。我は汝の前に行き、起伏ある所を平地となさん。我は真鍮の門を粉砕し、鉄の閂を断ち切らん。我は汝に暗闇の宝物、秘所に隠された富を与える。其は汝を汝の名によりて呼ぶ我、主がイスラエルの神なることを汝が知らんためなり。我が僕ヤコブのため、我が選びしイスラエルのため…」

旧約聖書『イザヤ書

ただし、こうしたユダヤ人の解放にも関わらず相当数のユダヤ人はバビロニアに残留する道を選んだと考えられる。ユダヤ人がバビロニアに強制移住させられて以来既に半世紀近くの歳月が経過しており、多くのユダヤ人達は現地に根を下ろしていたし、その多くはもはやバビロニア生まれであり、実際には一度も見たことの無い「故郷」への帰還を約束されても容易に決心の付かなかった事は想像に難くない。

ゼルバベルに率いられてパレスチナに帰還した人々は破壊されたエルサレム神殿(第二神殿)を再建し、ペルシアの支配に服した。

参考文献[編集]

関連項目[編集]