コンテンツにスキップ

バグラト3世 (ジョージア王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バグラト3世
ბაგრატ III
ベディア大聖堂ジョージア語版にある、バグラト3世のフレスコ画。

ジョージア王
在位期間
1008年 – 1014年
次代 ギオルギ1世

アブハジア王
在位期間
978年 – 1008年
先代 テオドス3世ジョージア語版

カルトリ公
在位期間
975年 – 978年
共同公 グルゲン
先代 イヴァネ・マルシスゼジョージア語版
次代 グランドゥフティ英語版

出生 960年
クタイシ
死亡 1014年5月7日
パナスケルティ要塞ジョージア語版タオ
埋葬 ベディア大聖堂ジョージア語版
王朝 バグラティオニ朝
父親 グルゲン
母親 グランドゥフティ英語版
配偶者 マルタジョージア語版
子女
信仰 ジョージア正教会
テンプレートを表示

バグラト3世ジョージア語: ბაგრატ IIIジョージア語ラテン翻字: Bagrat III960年頃 – 1014年5月7日)は、ジョージアの王(メペ)であり、統一王としても知られる。978年からアブハジア王国英語版の王として、また1008年から死去する1014年まで、統一されたジョージア王国の最初の王として君臨した。

バグラティオニ朝に属するバグラト3世は、強大な権力を持つ親族ダヴィト3世クロパラテスの養子となり、若くして一族の正当な後継者となった。そしてわずか数年のうちに、同盟と武力征服に基づく戦略により、南コーカサスの北部全域を統一した(ジョージア統一英語版)。一部の史料では、コーカサス全域に影響力を及ぼしたとも記されている。

キリスト教とあらゆる芸術の庇護者でもあったバグラト3世の王国は、かつてないほどの繁栄と名声を獲得した。また外交面では、バグラト3世はカリフ国家のファーティマ朝と軍事同盟を結び、ビザンツ帝国に対しては緊張関係を維持するという独自の外交姿勢を貫いた。

生涯

[編集]

少年期

[編集]

バグラトは960年代に生まれたとされ[注釈 1]、出生地はおそらくイベリア(カルトリ)である。父はイベリア王グルゲン、母はアブハジア王ギオルギ2世ジョージア語版の娘グランドゥフティ英語版であり、バグラトは両者の間に生まれたことが確認されている唯一の息子である[1]。バグラトは8世紀にジョージアに渡来したアルメニアのバグラトゥニ朝英語版の分家であるとされるバグラティオニ家の後継者であった[2]。幼少期、バグラトは父グルゲンの従兄にあたるダヴィト3世クロパラテスに養子として迎えられ、後継者に指名された。ダヴィト3世は上タオの支配者であり、966年以降、ビザンツ帝国から「イベリアのクロパラテス」の称号を保持していた[3]。バグラトはダヴィト3世の宮廷で養育され、教育を受けた[4]

この時期、イベリアはアブハジア王国英語版の支配下に置かれていた。アブハジアは780年にアラブの侵攻英語版を撃退した後、ビザンツ帝国の宗主権からの独立を宣言し、地域大国へと発展した。916年までにその勢力は最盛期に達し、イベリアへ侵攻してアルメニアを脅かすまでに至った[5]。しかし、975年に即位したテオドス3世ジョージア語版(バグラトの母方の叔父)の治世下で、王国の勢力は衰退し始めた。テオドス3世は貴族層との対立に巻き込まれ、アブハジア国内は内戦状態に陥った。この不安定な情勢に乗じ、カヘティ公ジョージア語版クヴィリケ2世ジョージア語版はイベリアへの侵攻を開始した。そして短期間のうちに、クヴィリケ2世はジョージア東部の大部分を占領した[6]。これに対し、カルトリ公ジョージア語版イオアネ・マルシスゼジョージア語版が対抗勢力を組織し、ダヴィト3世クロパラテスに支援を求めた。976年、ダヴィト3世は介入を行い、カヘティ勢力を打ち破ってイベリアから追放した[7][8]。この勝利の後、ダヴィト3世はバグラトをカルトリの公(エリスタヴィ)として据え、父グルゲンを後見人として、対外的宗主権からほぼ解放された領土を与えた[7]

イベリア統治

[編集]

バグラトによるイベリア統治の初期段階は短期間であり、史料も乏しい。即位から間もなく、ジョージアの政情不安を利用して、旧来の権力回復を図っていた貴族たちが反乱を起こし始めた。

978年、貴族たちは新たにカヘティ公となったダヴィトジョージア語版と同盟を結んだ。カヘティ公ダヴィトはウプリスツィヘジョージア語版の要塞を占領し、若年のバグラトとその両親を人質に取った。この事態を知ったダヴィト3世クロパラテスは、カヘティに対する遠征を開始した。そして交渉の結果、イベリアはバグラティオニ王家に返還されたが、カヘティ側はグルヴィとツィルクヴァリの要塞[注釈 2]の支配権を維持した。この時点以降、王国の摂政はバグラトの母である王妃グランドゥフティ英語版が担うこととなった[3]

アブハジア王位

[編集]
バグラトがベディア修道院ジョージア語版に寄進した「ベディアの聖杯」は、ジョージアの金属工芸における重要な作品である(西暦999年頃)。

一方、アブハジアでは、国王テオドス3世が貴族層への対応に窮して失策を重ね、王国の基盤はさらに弱体化していた。この状況を利用し、バグラトをカルトリ公に据えさせたイオアネ・マルシスゼジョージア語版は、バグラトをさらにアブハジア王位にも就けようと画策した。イオアネは、イベリアとアブハジアの両国の貴族たちと同盟を結び、両国を統一するには強力な君主が必要であるという見解で一致した。バグラトはアブハジアの王位を授与された。即位後、成人したバグラトは参集した貴族たちから臣従の誓いを受けた[3]。この出来事は一般に978年とされるが[3]、980年とする史料もある。こうしてジョージアの西部と中部を支配下に置いたバグラトは、廃位された前王テオドス3世を自身の養父であるダヴィト3世クロパラテスのもとに送った[3]

アブハジア王となったバグラトは、ほどなくしてカルトリへ戻ることを余儀なくされた。摂政である母グランドゥフティが、カルトリの独立を主張し始めたためである。グランドゥフティの摂政政治に満足していたカルトリの貴族たちは、バグラトをイベリア王として承認することを拒否し、有力貴族カヴタル2世トベリジョージア語版を中心に結集した[9]。反乱勢力はジョージア中部各地に防衛拠点を築いたが、バグラトはモグリ[注釈 3]の戦いでこれを撃破した。バグラトは自らの王国へと進軍し、母グランドゥフティからウプリスツィヘを奪還し、貴族たちの反乱を鎮圧した。権威を回復したバグラトはアブハジアに戻り、母を監視下に置いた。その後、バグラトは王権の強化と貴族たちの懐柔に取り組み、自らを忠実かつ公正な君主として示すことに注力した[9]

内戦

[編集]

それから数年後、994年[注釈 4]より少し前、リパリトジョージア語版[注釈 5]の息子でクルデカリ公ジョージア語版ラティジョージア語版[9]が、バグラトの支配地域東部で有力貴族として台頭した。ラティは間もなくアテニジョージア語版[注釈 6]の領主権を掌握し、さらにカルトリ南部(ムツクヴァリ川以南)、トリアレティジョージア語版地方、マングリシジョージア語版渓谷、スコレティジョージア語版に及ぶ領域を支配下に置いた。その後、ラティはバグラトへの服従を拒否した[9]。これに対し、バグラトは実父グルゲンの援軍を受けた強力な軍勢を率いて進軍した。しかし、バグラトの勢力拡大を恐れた養父ダヴィト3世クロパラテスは、グルゲンの父バグラト2世ジョージア語版[9]やアルメニア王スムバト2世アルメニア語版カルス王アルメニア語版アバス1世アルメニア語版らと同盟を結び、バグラトの軍事行動を抑止しようとした[4]

最初の戦闘は、シャヴシェティ英語版への入口に位置するガルダトヒンルニ平原で行われた。しかしグルゲンの軍勢は敗北し、ツェプティ要塞ジョージア語版への退却を余儀なくされた[9]。クルデカリ公ラティに対する遠征を中断していたバグラトは、ダヴィト3世クロパラテスとバグラト2世の連合軍に対抗する戦力を欠いていることを理解した。そのためバグラトは交渉に入り、最終的に和平が成立し、いわゆる「一族間の戦争」は集結した。

バグラトはアブハジアに戻り、しばらく平穏な統治を行った。反乱を起こしたクルデカリ公ラティには、領地の回復を許した。しかし、バグラトの戦略はラティをカルトリへ帰還させることで、紛争が終わったと思わせて油断させることであった。翌冬、バグラトは軍を招集してクルデカリを包囲し、最終的にラティを打ち破った。その後バグラトはラティに恩赦を与え、ジョージア西部アルグヴェティジョージア語版の公(エリスタヴィ)に任命した[10]

ジョージア統一

[編集]
西暦1000年頃のコーカサス地方の地図。

1000年3月31日[注釈 7]、バグラトの養父ダヴィト3世クロパラテスが死去した。死因は暗殺の可能性が高い[12][13][14]ヴァフシティ・バグラティオニの年代記『カルトリ・ツホヴレバジョージア語版』によると、ダヴィト3世の死後、タオ後は荒廃に陥ったとされる。ダヴィト3世は、バルダス・フォカス英語版の反乱に関与した代償として、タオをビザンツ帝国に遺贈することを強いられており[15]、皇帝バシレイオス2世は武力で同地の接収に乗り出した。ファーティマ朝カリフに対するシリア遠征から帰還したバシレイオス2世は、ほとんど抵抗を受けることなく進軍した。強大な帝国に立ち向かうことを望まない地元貴族たちは、ビザンツ帝国の宗主権を承認し、バグラト3世の権威を拒絶した[10]。バシレイオス2世は数か月のうちに、タオ=クラルジェティの征服を完了した。現地の政情を統制するため、バシレイオス2世はバグラトの父グルゲンに「マギストロス英語版」の称号を授与し、一方でバグラトには「クロパラテス英語版」の称号を与えた[16]。これは父子の対立を狙った策であったが[17]、グルゲンが忠実で誠実な人物であり、また父であると見なされていたため、衝突は起こらなかった。こうしてバグラトはアブハジアの王に加えてイベリアのクロパラテスも兼ねることになり、西ジョージアの実質的な統一を達成したが、同時に先祖伝来の領地の大部分をビザンツ帝国に奪われる結果となった。

1008年[18]、父であるイベリア王グルゲンの死去に伴い、バグラトは「ジョージア人の王」(ქართველთა მეფე) という世襲の称号と、下タオ=ジャヴァヘティ公領を継承した。バグラティオニ朝の諸派が支配していたすべての領土を掌握したバグラトは、南コーカサスの東部に関心を向けた。バグラトはまず、カヘティ公(コレピスコポスジョージア語版[注釈 8])のダヴィトジョージア語版を標的とした。バグラトは978年のカルトリ戦争後にダヴィトが併合した領土の返還を要求した[19]。だがダヴィトはこれを拒否し、抵抗の意思を表明した。これに対する報復として、バグラトはカヘティジョージア語版に侵攻し、カルトリを通過してカヘティ公国の東にあるヘレティジョージア語版を蹂躙した。バグラトはアブラリジョージア語版という人物をヘレティの公(ムタヴァリ英語版)に任命したが、現地の貴族たちはすぐにアブラリを追放してヘレティの支配権を取り戻し、その領土をカヘティに編入した[19]

新たに併合したヘレティでの反乱を知ったバグラトは、軍を再召集して遠征を再開した。バグラトは迅速にヘレティの併合を完了し、イメレティ地方ジョージア語版(ジョージア西部)の現地貴族たちを服属させた[20]。さらに権威の象徴として、ヘレティに正教をもたらした聖王妃[注釈 9]の遺骸を同地に移した。1008年、バグラトはカヘティ征服に着手し、大きな抵抗に遭うことなく1010年までにこれを完遂した[20]。当初、バグラトはボチョルマ要塞ジョージア語版をカヘティ公ダヴィトの子クヴィリケ3世ジョージア語版に委ねたが、ほどなくしてこれを剥奪し、カヘティ公国を完全に併合した。この戦争の終結までに、バグラトは全ジョージアの揺るぎない支配者となった。バグラトはジョージアの政治的統一を成し遂げ、「アブハズ人カルトヴェリ人ラン人ジョージア語版カフ人」(აფხაზთა, ქართველთა, რანთა და კახთა მეფე) という王号を称した。

ジョージア王

[編集]

ギャンジャとの戦い

[編集]

ジョージア王となったバグラト3世は、近隣諸国に対する軍事遠征を展開した。最初の標的は隣国のギャンジャ首長国(現在のアゼルバイジャン共和国に相当する地域)であった。同国のアミールファドルアラビア語版は、ジョージア東部への襲撃を繰り返していたためである[18]。ギャンジャの脅威に対抗するため、バグラトはアルメニア王ガギク1世アルメニア語版と同盟を結んだ[18]。1012年、ジョージア軍とアルメニア軍は連合し、ゾラケトアルメニア語版(現在のシラク地方)を経由してギャンジャへと進軍した[18]キリスト教徒に対する敵意を公言し、これまで一度も敗北を喫したことがなかったファドルは、同盟を組んだ2つのキリスト教国家の連合軍の接近に不意を突かれた。ファドルは要塞に退却し、籠城戦の準備を整えた[20]。バグラト3世はこの状況を利用し、アランを占領してジョージアの属州とし、シャッダード朝アミールが逃げ込んだ要塞都市シャムキルアゼルバイジャン語版を包囲した[20]シャムキルの戦いジョージア語版)。バグラト3世は数日のうちにシャムキルの防衛線を突破し、敗北したアミールファドルアラビア語版に対して和平条件を突きつけた。この和平条件により、ファドルはジョージアの属臣となり、軍事遠征においてバグラト3世を支援する義務と、ジョージア王室に貢物(ハラージュ)を収める義務を負うこととなった[18]アミールファドルアラビア語版はバグラト3世とジョージアの貴族たちに、数多くの豪華な贈り物を献上した。これを受けたジョージアの貴族たちは、ギャンジャそのものを併合することなく和平を成立させるよう、バグラト3世を説得した[21]

ジョージアの勢力

[編集]

南コーカサスの東部を掌握した後、バグラト3世はビザンツ帝国と接する南西国境地帯へと目を向けた。1000年にダヴィト3世が領土をビザンツ帝国に遺贈して没した結果、タオ=クラルジェティ地方は同帝国に編入されていた[10]。1008年、父グルゲンの死に伴い、バグラトは下タオとジャヴァヘティジョージア語版を相続したが[10]、ビザンツ帝国が直接統治する領域に対しては権限を有していなかった。1011年から1012年にかけて、バグラト3世は世襲権の回復を試みた。バグラト3世はビザンツ帝国の宗主権下で「クラルジェティの王」の称号を名乗り、ジョージアの権威を脅かしていたクラルジェティ公スムバト3世英語版グルゲン英語版に対して戦争を仕掛けた[22]。バグラト3世はビザンツ帝国からの干渉を受けることなくスムバト3世とグルゲンの兄弟を打ち破り、トモグヴィ要塞ジョージア語版に幽閉したこの兄弟を1012年に処刑した[23]。この兄弟の子供たちは、コンスタンティノープルへの亡命を許された[24]

クラルジェティ公国を併合することによって、バグラト3世はジョージア全土の支配権を確固たるものにした。その後、バグラト3世はジョージアの枠を超えて影響力を拡大し、コーカサス各地に遠征を行った。バグラト3世はアランシルヴァンアゼルバイジャン語版、さらにはアルメニアにまで貢納を課したとされる[25]。さらに、アッバース朝カリフカーディルと同盟を結ぶことで自らの地位をさらに強化し、ビザンツ皇帝バシレイオス2世に対抗する立場を明確にした[25]。バグラト3世の治世下、ジョージアは政治的統一と国内の安定を享受した。王国は貴族たちの反乱に直面することなく、バグラト3世はほぼ絶対的な権力を行使した。このような権力の集中にもかかわらず、バグラト3世は臣民から尊敬され、農民たちさえも自らをバグラト3世の忠実な家臣と見なしていたと伝えられている[25]

バグラト3世とキリスト教

[編集]
1838年にニカノール・チェルネツォフロシア語版が描いた、バグラティ大聖堂の絵画。

ジョージアの統一に伴い、バグラト3世は「全ジョージアのカトリコス総主教英語版」という称号を制度的に確立した。この地位は現在に至るまで存続している。実際、総主教イオアネ4世ジョージア語版は1000年まで「イベリアのカトリコス」という称号を用いていた[26]。敬虔なキリスト教徒であったバグラト3世は、数多くの聖堂の建設を支援した[21]。中でも999年に完成したベディア大聖堂英語版は特筆に値する[21]。バグラト3世はこの大聖堂を主教座の中心に昇格させ、さらにアブハジアの宗教的中心地を「グダクヴァ」[注釈 10]からベディア大聖堂に遷した[21]。統一王バグラト3世は、当時の首都クタイシバグラティ大聖堂を建設したことでも知られる[21]。バグラティ大聖堂は極めて卓越した宗教建築であり、1003年に完成した[注釈 11]。バグラティ大聖堂は1994年の第18回世界遺産委員会wikidataユネスコ世界遺産に登録されたが、2017年の第41回世界遺産委員会において、「その完全性および真正性を損なうと判断された大規模な再建事業」を理由として、登録が抹消された[27]

ヴァフシティ・バグラティオニおよびマリー=フェリシテ・ブロッセフランス語版によれば、ビザンツ皇帝バシレイオス2世はジョージアと必ずしも良好な関係ではなかったものの、ジョージア総主教区にケストリア修道院(場所はおそらくギリシャ[注釈 12])を与えた。さらに全ジョージアのカトリコス総主教庁は105の村領と相当量の金銀、そして聖堂を装飾するイコン十字架を獲得した[25]。加えて18世紀の歴史家ヴァフシティ・バグラティオニは、バグラト3世の保護下において、ケストリアから持ち帰られた装飾品を用いてムツヘタスヴェティツホヴェリ大聖堂(現在の全ジョージアのカトリコス総主教の座所)が建設あるいは修復されたと主張した[25]。しかし現代の研究では、スヴェティツホヴェリ大聖堂の修復が行われたのは、バグラト3世の次の王の治世であったことが分かっている。

[編集]
バグラト3世の死去時のジョージア王国の版図(1014年)。

バグラト3世はクラルジェティジョージア語版の公たちを破った後、自国を巡る最後の旅に出た。バグラト3世はアブハジアジョージア語版からヘレティジョージア語版に至るまで、カルトリカヘティジョージア語版を経由して王国を隅々まで横断し、最終的にタオへと至った。バグラト3世は1013年から1014年にかけての冬を、かつてのタオ大公の居城であったパナスケルティ要塞ジョージア語版で過ごした。

1014年5月7日、バグラト3世は36年にわたる治世を終え、パナスケルティ要塞で没した。年代記によると、バグラト3世は白く長い髪を蓄え、高齢であったと記されている[28]。バグラト3世の遺体はアブハジアの一地方を治めていた貴族ズヴィアド・オルベリアニジョージア語版[注釈 13]が引き取り、ジョージア王国の北部へと運んだ。その後、統一ジョージアの最初の王バグラト3世の遺体は、1014年のうちにアブハジアのベディア大聖堂ジョージア語版に埋葬された[23]。2016年12月22日、ジョージア正教会はバグラト3世を列聖し、その聖名祝日を5月7日(グレゴリオ暦5月21日)と定めた[29]

家族

[編集]

ジョージア王バグラト3世は、イベリア王グルゲンとその王妃グランドゥフティ英語版(アブハジア王ギオルギ2世ジョージア語版の娘)の間に生まれた。バグラトは幼少期に、父グルゲンの従兄ダヴィト3世クロパラテスの養子となった。ダヴィト3世には嫡子がおらず、男子を必要としていた[30]。12世紀アルメニアの歴史家マテオス・ウルハイェツィアルメニア語版の年代記によれば、バグラトには父グルゲンを同じくする「カトラミデ」[1]という妹がおり、アルメニア王ガギク1世アルメニア語版と結婚したとされる。しかし、他の史料はこの血縁関係を否定しており、「カトラミデ」をシュニ家アルメニア語版に連なる人物としている[31][32]

20世紀ジョージアの系譜学者キリル・トゥマノフによれば、バグラト3世にはマルタジョージア語版という妃がおり、二人の間にはギオルギ1世が生まれた[33]。また、別の資料によればバシルジョージア語版という二人目の子がいたとされる。バシルは後にジョージア正教会によって「ハフリのバシル」の名で列聖された。

遺産

[編集]

ジョージア王バグラト3世は、ほぼすべての歴史家から、「統一ジョージア王国の最初の君主」と見なされている。この評価は、古代イベリア王国の伝説的な王パルナヴァズ1世の地位を事実上塗り替える存在となっている。バグラトの名はその多くの子孫たちに受け継がれ、後に10人のジョージアの王が「バグラト」の名を継いだ。

今日、その歴史的重要性にも関わらずジョージア国外では比較的知られていない存在ではあるが、ジョージア国内においてバグラト3世は極めて高く尊敬されている。2008年1月21日、大統領選挙英語版に勝利したミヘイル・サアカシヴィリは、クタイシにあるダヴィト4世建設王の墓の傍らで演説を行い、その中でバグラト3世による統一事業を称えた。その前日、ミヘイル・サアカシヴィリはバグラト3世統一王になぞらえ、「すべてのジョージアの領土を平和裏に再統一する」意向であることを宣言していた[34]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ ヴァフシティ・バグラティオニによれば、バグラトは980年代に親政年齢に達した。
  2. ^ 南オセチアの地域。
  3. ^ ヴァフシティ・バグラティオニのみが言及している地名。
  4. ^ イベリア王バグラト2世の没年。
  5. ^ マリー=フェリシテ・ブロッセフランス語版はリパリトをオルベリアニ家アルメニア語版と結びつけている。リパリトは父親と同じく、その伝統的な名前を名乗っている。
  6. ^ マリー=フェリシテ・ブロッセフランス語版によると、場所をカルトリ南部のアテニ要塞ジョージア語版と同定している。
  7. ^ アルメニア暦449年の復活祭は3月31日にあたる。
    彼は、アルメニア暦449年[西暦1000年3月21日–1001年3月20日]の、命を育む偉大なる復活祭の日に、高齢でこの世を去った[11]
  8. ^ ギリシャ語Χωρεπίσκοπος に由来する。この宗教的な称号は、カヘティの君主がもともと、自らを「地方主教」と見なしていたことを意味している。その本来の役割は、主教座が置かれた都市部の主教の配下として、農村地帯の民衆を統治するために彼らを補佐することであった。
  9. ^ ヘレティのディナル王妃であると考えられている。ディナルはバグラティオニ家のタオ大公アダルナセ3世英語版の娘であり、ヘレティ王アダルナセジョージア語版との結婚を通じて、10世紀にヘレティ地方全域を正教へと改宗させた。
  10. ^ 「グダクヴァ」は、ヴァフシティ・バグラティオニマリー=フェリシテ・ブロッセフランス語版といった後世の記録でのみ登場し、他の史料で知られていない。この村は現在、アブハジア自治共和国にある小さな集落である可能性が高い。
  11. ^ この聖堂の献堂日は、内陣左側の窓の土台となっている石野外側にある碑文によって特定されている。碑文にはアラビア数字で「٢٢٣」、すなわちパスハ周期英語版の223年と記されており、これは西暦1003年に相当する。
  12. ^ その名称からして、ケストリア修道院がギリシャに位置していた可能性は高い。しかしながら、この「ケストリア」がギリシャ北部にある町カストリアと同一である可能性は低い。
  13. ^ マリー=フェリシテ・ブロッセフランス語版はズヴィアド・オルベリアニについて、クルデカリ公ジョージア語版ラティジョージア語版の兄弟であると考えている。

出典

[編集]
  1. ^ a b Foundation for Medieval Genealogy.
  2. ^ Muyldermans 1927.
  3. ^ a b c d e Brosset 1849, p. 295.
  4. ^ a b Grousset 1995, p. 516.
  5. ^ Brosset 1849, p. 274.
  6. ^ Brosset 1849, pp. 274–277.
  7. ^ a b Brosset 1849, p. 292.
  8. ^ Baumer 2021, p. 249.
  9. ^ a b c d e f Brosset 1849, p. 296.
  10. ^ a b c d Brosset 1849, p. 297.
  11. ^ Taronetsi 1885.
  12. ^ Mathieu d'Édesse, p. 33.
  13. ^ Lastivertsi, p. 9.
  14. ^ Grousset 1995, p. 531.
  15. ^ Dédéyan 2007, p. 254.
  16. ^ Grousset 1995, p. 532.
  17. ^ Grousset 1995, p. 534.
  18. ^ a b c d e Grousset 1995, p. 537.
  19. ^ a b Brosset 1849, p. 298.
  20. ^ a b c d Brosset 1849, p. 299.
  21. ^ a b c d e Brosset 1849, p. 300.
  22. ^ Brosset 1849, p. 272.
  23. ^ a b Brosset 1849, p. 302.
  24. ^ Toumanoff 1990, p. 133.
  25. ^ a b c d e Brosset 1849, p. 301.
  26. ^ Patriarchate of Georgia.
  27. ^ UNESCO 2017.
  28. ^ Grousset 1995, p. 538.
  29. ^ geotimes.ge 2016.
  30. ^ Toumanoff 1990, p. 131.
  31. ^ Grousset 1995, p. 519.
  32. ^ Toumanoff 1990, p. 122.
  33. ^ Toumanoff 1990, p. 134.
  34. ^ Civil Georgia 2008.

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]