バクシ

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バクシモンゴル語ᠪᠠᡴ᠋ᠰᡳ、転写:Baqsi)は、「(主に宗教上の)師/師父」を意味するモンゴル語。漢語の「博士」がウイグル語を経てモンゴル語に入ったものであるが、モンゴル帝国が広大な領土を支配したことにより東アジア以外のユーラシア大陸各地でも用いられた。その意味するところは時代や地域によって幅がある。

概要[編集]

ウイグル王国[編集]

「バクシ」の語源については漢語の「博士」、イラン語の「バグ(神)」、テュルク語の「バフ(見る)」など諸説あるが[1]、現在は漢語の「博士」に由来すると見るのが主流である[2]

そもそも漢語の「博士」は7世紀半ばの漢訳仏典において「(宗教上の)教師」を意味する単語として用いられており、この用法を輸入する形でウイグル語訳仏典でも用いられるようになった[3]。11世紀頃に編纂されたと見られるウイグル語訳『金光明最勝王経』において「バクシ(baxšï)」の用法が確認され、天山ウイグル王国の時代には「師/師僧」を意味する単語として「バクシ」は定着していたようである[4]。また、元代の漢文史料には「八恰室者、漢云博士也(バクシは、漢で言うところの博士である)」という記述もあり、元代の漢人もモンゴル語のバクシが「博士」と同義であることを認識していたようである[2]

モンゴル帝国[編集]

13世紀初頭に勃興したモンゴル帝国はウイグル文字を導入することで文書行政を整え、その過程で多くのウイグル語単語がモンゴル文語に取り入れられた。「バクシ」もこのような流れでモンゴル語に取り入れられたと見られ、最も早い事例として全真教李志常が「八合識(バクシ)」と呼称されている[2]

モンゴル帝国における「バクシ」について、最も詳細な記録を残しているのがマルコ・ポーロの『東方見聞録』である。

ととろでシャンドゥ(上都)についてはお伝えしたいことがなお残っている。まず第一に、今まで言い忘れていた一大奇事を紹介しよう。ほかでもないそれは、カアンがこの竹の宮殿に滞在中、雨天・曇天そのほかの悪天候の日があると、カアンに仕える賢明な占星師・妖術師がその知力と呪法を尽くしてこれらいっさいの雲や悪天候を宮殿の上空から払いのける。その結果、天気は宮殿の上空を限ってたちまちに好転し、悪天候はすっかりよそへ移ってしまうのである。この種の不思議を行なう賢人たちはチベットとかケスムールとか称せられているが、これはともに偶像教を奉ずる二種族の名前である。彼らの妖術・魔法といったら、それこそ世界のどの民族にもひけをとらない。…中略…上記のような各種の妖術に長けた連中をバクシと称するが、彼らはまた次に述べるような不思議をも演ずるのである。…中略…バクシはまた多数の寺院・僧院を有しており、その中には教派を同じくする二千人以上の僧侶をも収容し、その規模はさながら小都会のごとき広大なものもある。これらの僧侶は庶民に比べるとずっと小ざっぱりした服装をしており、頭髪と髷を全部剃り落としている。彼らは燈明を煌々と点じ梵歌を声高々と踊して、その奉ずるもろもろの偶像のために以上のような勤行儀式を執行する。これらバクシたちの中には、教義上その妻帯が認められている者があって、彼らだけは現にそのとおり妻を娶り多数の子供を持っている。…… — マルコ・ポーロ、『東方見聞録』[5]

ここでは、カアンの側近くに仕える妖術に長けた仏僧がバクシと呼ばれており、彼等はチベットやカシミール出身、すなわちチベット仏教僧であったと見なされる。実際に、元代の漢文史料で「バクシ」と称されているのはタムパ・バクシやカルマ・パクシなど、非漢人の高位の仏僧であった[6]

ジョチ・ウルス[編集]

仏教徒が少なく、モンゴル系国家の中では最も早くイスラーム教を受容したジョチ・ウルスでは、「バクシ」という言葉はむしろシャーマンに対する呼称として用いられていた[7]。ジョチ・ウルスに関する史料では、「バクシ」は呪い師や魔術師と並んで名前を挙げられ、主にイスラーム化に反対する勢力として記される[8]。例えば、イスラーム化に消極的であったトクタ・ハンは「偶像崇拝者で、バクシや占い師であるウイグル人を好んでいた」と記され[9]、またイスラーム化を強力に推し進めたウズベク・ハンは「かなりの数のウイグル人、バクシ、占い師を殺した」とされる[10]

現代においても、ジョチ・ウルスの系譜を汲むカザフ、キルギス、ウズベクなどでは「バクシ」はシャーマンを意味する単語として用いられている[11]。シャーマンとバクシの密接な関係は、タントラ派のウイグル仏僧もバクシと呼ばれたことに由来するのではないかと考えられる[12]

フレグ・ウルス[編集]

西アジア一帯を支配したフレグ・ウルスでも「バクシ」という用語は用いられており、ガザン・ハンは幼少期に「偶像崇拝者であるバクシたちを従者・教師とされた」と記録されている[4]。一方、1270年代のペルシア語詩には 「シャーマンたちを思わせる汝の巻き毛はバクシの筆のように汝の顔の上でウイグル文字を練習した」とあり、バクシは「ウイグル文字を練習する者=ウイグル文字文書記」であるとも認識されていた[12]。そもそも、ウイグル文字読み書きの能力は支配者層に直結する技能としてモンゴル帝国の支配下で重視されており、フレグ・ウルスにおいても「ウイグルの言語と文字がこの上ない学識・技芸と見なされて」いた[12]

フレグ・ウルスの末期に編纂が始まり、ジャライル朝時代に完成した『書記規範』では、「ウイグル=バクシ」の任命書について詳細に記載される。この任命書では、バクシは「モンゴル語命令文書記」もしくは「モンゴル文書記」と呼ばれ、ベルシア語を解さない「モンゴルとテュルクの諸集団」に「彼らの言葉と文字で命令を送る」ことが職掌とされている[13]。もともとは仏教の師を意味するバクシが書記官を意味するようになったのは、モンゴル時代初期にウイグル文字の読み書きに長けたウイグル仏僧が書記業務に従事したためであるとみられる[14]。フレグ・ウルスのバクシにはモンゴル系の出身者から先祖代々のムスリム定住民までおり、書記としての技能に長けてさえいれば出自は問われなかったようである。

脚注[編集]

  1. ^ 杉山.北川(2008), p. 484.
  2. ^ a b c 中村/松川1993,74頁
  3. ^ 久保2012, p. 43-44.
  4. ^ a b 久保2012, p. 44.
  5. ^ 訳文は愛宕1970,173-174頁より引用
  6. ^ 中村.松川(1993), p. 75.
  7. ^ 杉山.北川(2008), p. 395-396.
  8. ^ 杉山.北川(2008), p. 483-484.
  9. ^ 杉山.北川(2008), p. 379.
  10. ^ 杉山.北川(2008), p. 38.
  11. ^ 杉山.北川(2008), p. 485.
  12. ^ a b c 久保2012, p. 45.
  13. ^ 久保2012, p. 46.
  14. ^ 久保2012, p. 46-47.

参考文献[編集]

  • 愛宕松男『東方見聞録 1』平凡社、1970年
  • 久保一之「ミール・アリーシールと〝ウイグルのバフシ〟」『西南アジア研究』第77号、西南アジア研究会、2012年、39-73頁、doi:10.14989/seinan-asia-kenkyu_77_39hdl:2433/260464ISSN 0910-3708NAID 120006942882 
  • 杉山正明, 北川誠一『大モンゴルの時代』中央公論新社〈中公文庫 : 世界の歴史 9〉、2008年(原著1998年)。ISBN 9784122050440NCID BA86785793全国書誌番号:21480607 
  • 中村淳, 松川節「新発現の蒙漢合璧少林寺聖旨碑」『内陸アジア言語の研究』第8号、中央ユーラシア学研究会、1993年3月、1-92頁、ISSN 1341-5670NAID 120004852773