ハービー・ハンコック

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ハービー・ハンコック
HerbieHancock.jpg
ハービー・ハンコック(2006年)
基本情報
出生名 Herbert Jeffrey Hancock
生誕 (1940-04-12) 1940年4月12日(79歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州 シカゴ
ジャンル フュージョン
ジャズ・ファンク
モード・ジャズ
ハード・バップ
ポスト・バップ
エレクトロ
職業 ピアニスト
担当楽器 ピアノ
キーボード
シンセサイザー
エレクトリックピアノ
フルート
活動期間 1961年-
レーベル ブルーノート・レコード
ワーナー・ブラザース・レコード
コロムビア・レコード
ポリグラム
マーキュリー・レコード
ヴァーヴ・レコード
共同作業者 マイルス・デイヴィス
ウェイン・ショーター
フレディ・ハバード
ロン・カーター
トニー・ウィリアムス
ジャコ・パストリアス
公式サイト www.herbiehancock.com

ハービー・ハンコックHerbie Hancock、本名:Herbert Jeffrey Hancock1940年4月12日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ出身のジャズピアニスト作曲家編曲家プロデューサー

1960年代以降から現在において、ジャズ・シーンをリードするジャズの第一人者であり、ストレートアヘッド・ジャズ、フュージョン、ジャズ・ファンクなど多彩なジャズ・スタイルの最先端を走っている。

1960年プロとしてデビュー。1963~68年はマイルス・デイビス・クインテットのメンバーとして活躍。70年代以降もジャズ・ファンクの『ヘッド・ハンターズ』、アコースティック・ジャズ人気を復活させたVSOPクインテットの諸作、ジャズ・ヒップホップの『フューチャー・ショック』など、ジャズの新しい時代を切り開く話題作を発表してきた。代表的な楽曲に「ウォーターメロン・マン」("Watermelon Man")、「カンタロープ・アイランド」("Cantaloupe Island")、「処女航海」("Maiden Voyage")、「ドルフィン・ダンス」("Dolphin Dance")など多くのジャズ・スタンダードの他、ヒップ・ホップとのクロスオーバーを図った「ロックイット」もある。

略歴[編集]

7歳でピアノレッスンをはじめたハンコックは、11歳でシカゴ交響楽団と共演。高校時代にジャズを演奏し始めた。オスカー・ピーターソンビル・エヴァンスに影響を受けたといわれている。グリネル大学英語版では音楽と電気工学を専攻、音楽と電子工学の両分野で博士号を取得。その後もニューヨークのクラブやスタジオ・シーンで名を馳せる。

1960年にドナルド・バードに見出されると、その彼のクインテットでプロとしてのスタートを切る。さらにドナルド・バードから「ブルーノート・レーベル」のアルフレッド・ライオンを紹介された。その後、2年間のセッションマンとして実績を重ね、21歳になった1962年にデクスター・ゴードンを迎えた作品『テイキン・オフ』でデビュー。この中に収録された「ウォーターメロン・マン」("Watermelon Man")は大ヒットとなり、この作品でハンコックは押しも押されもしないブルーノート新主流派の中心アーティストにのし上がった。その後エリック・ドルフィーのもとで活動し、『ブロウ・アップ』などのサウンドトラックを発表した。

1963年、マイルス・デイヴィスのグループに抜擢され、1968年頃まで在籍する。脱退後もマイルス・デイヴィスのセッションに随時参加し、マイルスのいくつかのアルバムにその足跡を残している。また、この頃自己のアルバムとして彼の代表作『処女航海』(1965年)や『スピーク・ライク・ア・チャイルド』(1968年)を発表した。

1969年にはブルーノートを離れ、ワーナー・ブラザース・レコードに移籍。『Fat Albert Rotunda』(子供向けテレビ番組のサウンドトラック)では同時期のマイルスと同様に大胆にエレクトリックサウンドを取り入れた。次作『Mwandishi』では更にアフリカの民族音楽、ポリリズムに傾倒し、自らもスワヒリ語名でアルバムタイトル同様の『ムワンディシ』というニックネームを名乗る。

1972年にはコロムビア・レコードに移籍。1973年に問題作『ヘッド・ハンターズ』(Head Hunters)を発表。本作は従来のジャズファンの枠を超えて反響を呼び記録的に売上げるとともに大きな名声を獲得したが、当時のジャズファンからは、ハービーも堕落したなど非難を受けることもあった。エレクトリックピアノ/キーボードを専ら弾く彼に対する「もうアコースティック・ピアノは弾けないんだろう」との野次に対し、舞台上でピアノを用意させて演奏を披露、観客を納得させるなどという出来事もあった。

1975年6月25日にヘッド・ハンターズの広島公演後、原爆被爆者に捧げるとして滞在先の広島市内でピアノに向かって徹夜で作曲。翌日、ピアノソロ曲「平和の街のために」("For The City Of Peace")を広島市に寄贈した[1]。寄贈式にて演奏された同音源は続けて演奏された「ウォーターメロン・マン」とともに現在、広島平和記念資料館内の情報資料室(※12月29日~1月1日を除く9:00~17:00に開室 )にて試聴できる。

1976年に、元マイルス・グループの黄金のクインテットと称されたときのメンバー(ウェイン・ショータートニー・ウィリアムスフレディ・ハバードロン・カーター)を集めて、モダン・ジャズのグループ、“V.S.O.P.クインテット英語版”を結成し世界中をツアーした。

1983年の「フューチャー・ショック」では、ヒップ・ホップを大胆に導入。DJスクラッチを取り入れたスタイルはクラブ・ミュージックの方向性を決定付けた。このアルバムはベーシスト兼プロデューサーであったビル・ラズウェルの実験的な音楽アイデアを元に製作された。またシングル・カットされたGrand Mixer D.ST英語版スクラッチを取り入れた「Rockit」が世界中で大ブレイク。翌年のSound System、1988年のPerfect Machineにもラズウェルが関わり、同型作を発表している。これ以降の電気サウンド作品についても例に漏れず、不定期ではあるが作品を発表している(「Dis Is Da Drum」、「Future 2 Future」など)。

1985年にはベーシストのロン・カーターと共演したサントリーホワイトのCMがテレビ放映され、話題になった。一方、1986年の音楽監督をし自らが出演した映画『Round Midnight』に取り組むほか、現代のポピュラー・ソングを鮮烈なシャズ・ナンバーにした『New Standard』、1998年アメリカが生んだ偉大なる作曲家ジョージ・ガーシュウィンの生誕百年に発表した『ガーシュウィン・ワールド』、2002年にはマイルス・デイビス、ジョン・コルトレーンの生誕75周年を記念してマイケル・ブレッカーロイ・ハーグローブと「ディレクションズ・イン・ミュージック」というスペシャル・プログラム(全米ツアー)を行った。1986年に音楽監督をした映画『ラウンド・ミッドナイト』でアカデミー作曲賞を獲得。

2003年からアジア最大級のジャズイベント「東京JAZZ」の総合プロデュースを担当。 2004年に国立芸術基金(NEA)ジャズマスターズ賞を受賞。

グラミー受賞においては、1983年初の「ベストR&Bインストゥルメンタルパフォーマンス」賞をはじめとし、2002年の「ベスト・ジャズ・インストゥルメンタル・アルバム」賞と「ベスト・ジャズ・インストゥルメンタル・ソロ・パフォーマンス」賞(ダブル受賞)を含め、受賞は多数を数える。2008年の第50回グラミー賞においては『リヴァー:ジョニ・ミッチェルへのトリビュート』が同賞の主要4部門の一つである、最優秀アルバム賞を受賞している。ジャズ・ミュージシャンの総合部門における最優秀アルバム賞受賞は1964年のスタン・ゲッツジョアン・ジルベルトの『ゲッツ/ジルベルト』以来43年ぶりである。

2011年にユネスコ親善大使に就任。2014年には、名門ハーバード大学の2014年チャールズ・エリオット・ノートン詩学講義の特別教授として連続講義を行った。

2017年には俳優として映画『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』に出演している。

グラミー受賞歴[編集]

  • 第26回グラミー賞(1982年分) 最優秀R&B・インストゥルメンタル・パフォーマンス/「Rockit」(『フューチャー・ショック』所収)
  • 第27回グラミー賞(1983年分) 最優秀R&B・インストゥルメンタル・パフォーマンス/「Sound System」(『サウンド・システム』所収)
  • 第30回グラミー賞(1986年分) 最優秀インストゥルメンタル編曲/「Call Sheet Blues」(デクスター・ゴードン『ジ・アザー・サイド・オブ・ラウンド・ミッドナイト』所収)
  • 第37回グラミー賞(1993年分) 最優秀ジャズ・インストゥルメンタル・パフォーマンス(個人またはグループ)/『マイルス・デイヴィス・トリビュート
  • 第39回グラミー賞(1995年分) 最優秀ジャズ・インストゥルメンタル・パフォーマンス(個人またはグループ)/『ニュー・スタンダード』
  • 第39回グラミー賞(1995年分) 最優秀インストゥルメンタル編曲/「Manhattan」(『ニュー・スタンダード』所収)
  • 第41回グラミー賞(1997年分) 最優秀インストゥルメンタル編曲/「St. Louis Blues」(『ガーシュウィン・ワールド』所収)
  • 第41回グラミー賞(1997年分) 最優秀ジャズ・インストゥルメンタル・パフォーマンス(個人またはグループ)/『ガーシュウィン・ワールド』
  • 第45回グラミー賞(2001年分) 最優秀ジャズ・インストゥルメンタル・アルバム(個人またはグループ)/『ディレクション・イン・ミュージック:マイルス&コルトレーン・トリビュート』
  • 第45回グラミー賞(2001年分) 最優秀ジャズ・インストゥルメンタル・ソロ/「My Ship」(『ディレクション・イン・ミュージック:マイルス&コルトレーン・トリビュート』所収)
  • 第50回グラミー賞(2007年分) 年間最優秀アルバム/『リヴァー:ジョニ・ミッチェルへのトリビュート』
  • 第50回グラミー賞(2007年分) 最優秀コンテンポラリージャズ・アルバム/『リヴァー:ジョニ・ミッチェルへのトリビュート』
  • 第53回グラミー賞(2010年分) 最優秀ポップ・コラボレーション・ウィズ・ボーカルズ/「Imagine」(『イマジン・プロジェクト』所収)
  • 第53回グラミー賞(2010年分) 最優秀インプロバイズド・ジャズ・ソロ/「A Change is Gonna Come」(『イマジン・プロジェクト』所収)

ディスコグラフィ[編集]

リーダー作品[編集]

1960年代
1970年代
1980年代
  • 『モンスター』 - Monster(1979年11月~1980年録音)(Columbia) 1980年
  • 『MR.ハンズ』 - Mr. Hands(1980年録音) (Columbia) 1980年
  • 『マジック・ウインドウ』 - Magic Windows (Columbia) 1981年
  • 『ハービー・ハンコック・トリオ WITH ロン・カーター+トニー・ウイリアムス』(1981年7月27日録音)(日本CBS/Sony) 1982年。(「ソニー・ミュージック信濃町スタジオ」において録音。日本発売。)
    のち(改題)『ハービー・ハンコック・トリオ '81』 - Herbie Hancock Trio (Sony) 1992年。
    • 『カルテット』 - Quartet(1981年7月28日録音)(CBS/Sony) 1982年(「[ソニー・ミュージック信濃町スタジオ」において録音。ウィントン・マルサリスが参加)
  • 『ライト・ミー・アップ』 - Lite Me Up(1982年録音)(Columbia) 1982年
  • 『フューチャー・ショック』 - Future Shock(1983年録音)(Columbia) 1983年(#1."Rockit"が第26回グラミー賞(最優秀R&Bインストゥルメンタル・パフォーマンス)受賞)
  • 『サウンド・システム』 - Sound-System(1983年10月~12月録音)(Columbia) 1984年(#6."Sound System"が第27回グラミー賞(最優秀R&Bインストゥルメンタル・パフォーマンス)受賞)
  • 『ビレッジ・ライフ』 - Village Life(1984年8月録音)(Columbia) 1985年
  • ラウンド・ミッドナイト』 - Round Midnight (Columbia) 1986年(サウンドトラック)
  • フォディ・ムサ・スソ英語版らと共同名義, 『ジャズ・アフリカ』 - Jazz Africa(1986年12月録音)(NEC Avenue) 1987年(ライヴ)
  • 『パーフェクト・マシーン』 - Perfect Machine(1988年録音)(Columbia) 1988年
1990年代
2000年代

主なセッション参加作品[編集]

補足(生き方など)[編集]

創価学会インタナショナルの会員である。盟友ウェイン・ショーター創価学会インタナショナルの会員で、共に池田大作と対談もしている。

この対談を記録した本、「ジャズと仏法、そして人生を語る」も出版されている。

2007年に亡くなったマイケル・ブレッカーは死の6か月前に創価学会インターナショナルに入信し、ハンコックはウェイン・ショーターバスター・ウィリアムスとマイケルの息子サムらと共に彼の追悼式に参列した。

2003年2月20日、日本外国特派員協会にて以下の発言をしている。[要出典]

「私自身は決してそういう人間にならないようにと願っています。自分は何でも知っていると信じ、ほかの人たちの言うことに耳を貸すことを忘れてしまった人、年長者だというだけの理由で年下の人たちよりも何でも知っていると思い込んでいる人、私は絶対にそういう人間にはなりたくありません。そこには非常に大きな誤りがあるんです。実際、私も教えるという機会に恵まれたときに経験したことですが、先生と呼ばれる人たちの多くが、教える生徒たちよりも、むしろ教える自分のほうが生徒たちから学ぶことのほうが多いと証言していました。これはとても良いことだと思います。」「私は演奏するとき、一生懸命にならないように努力しています。演奏するときはただ、オープンな気持ちになりたいと思うだけです。そうすれば、何が起きてもオープンに受け入れられ進んでその瞬間に起きていることの自然な流れの一部になりたいと思うようになります。」[要出典]

出典[編集]

  1. ^ 1975年6月27日付の中国新聞[1]リンク切れ

著作[編集]

  • ハービー・ハンコック 『ハービー・ハンコック自伝 新しいジャズの可能性を追う旅』 川嶋文丸訳、DU BOOKS、2015年。ISBN 4907583338

外部リンク[編集]