ハンモックナンバー

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ハンモックナンバーとは、大日本帝国海軍における 『海軍兵学校の卒業席次』、または 『兵学校同期生間の先任順位』 の俗称。ここでは主に帝国海軍における先任順位について述べる。

ハンモックナンバー(兵学校同期生間の先任順位)は、兵学校の卒業席次やその後の勤務成績によって決められた。全現役海軍士官の先任順位は、毎年作成される「現役海軍士官名簿」で海軍部内や陸軍に公示された[1][2]。同時に同階級に任じられ、同じ軍艦などで勤務する同期生の間にも、先任・後任の区別は厳然として存在し、軍令承行令による指揮系統の序列はもちろん、式典での整列の際などでもハンモックナンバーの順に並んだ[3]

本来、海事用語としての「ハンモックナンバー(釣床番号)」は、兵員が使用するハンモック(釣床)に書かれた番号を指す[4]。例えば、兵員に割り当てられたハンモックに「三一八四」と記入されている場合、その兵員が「第三分隊 第十八班 第四部員」であることが明示され、艦内での戦闘配置などが自動的に決まる、といったシステムを構成する[4]

海軍と陸軍の違い[編集]

帝国海軍では、帝国陸軍陸軍大学校(陸大)卒業履歴ほどには海軍大学校(海大)甲種学生卒業の履歴を重視しなかったため、兵科将校の昇進には兵学校の卒業席次が大きく影響した[5]

井上成美は中将で海軍兵学校長を務めていた時に、兵学校のある期について、兵学校卒業席次と最終到達階級との関連を数学的に分析している[6]

  1. 兵学校卒業席次と最終官等の上下との相関係数は「+0.506」となった。
  2. 兵学校を卒業後、現役で勤務する年数を平均25年とすると、兵学校3年の成果がそれに匹敵する。

帝国陸軍では、現役将校が陸大を卒業すると、それまでの実績に基づく序列にかかわらず士官候補生(士候)同期の最上位に置かれた[7]

先任順位の決定と変化[編集]

ハンモックナンバー(兵学校同期生間の先任順位)は、兵学校の卒業席次を基本としたが、卒業後の勤務成績などで上下した。1942年(昭和17年)11月に海軍省人事局長に就任した中沢佑は、「人事局長の回顧」と題するメモを残しており、序列(ハンモックナンバー)は、上司の作成する考課表・術科学校や海軍大学校の成績・勤務成績・健康その他を評価して更改するが、各クラスのクラスヘッドは止むを得ざる事情がある場合のほか変更しない旨を記している[8]

兵学校卒業後に、ハンモックナンバーが上下した事例を示す。

兵37期
兵37期(卒業時179名)は、帝国海軍の歴史を通じて唯一、同期生が揃って少尉任官しなかったクラスである。兵学校卒業席次2番であった井上成美を最先任者とする兵37期137名1910年(明治43年)12月15日に少尉任官し、席次下位の約1/4は約3ヶ月遅れの1911年(明治44年)2月27日に少尉任官した。中尉への進級では、同期生が揃って進級する通常の形に戻っている。
同期生が揃って少尉任官しないという異例の措置は、当時「国家予算の都合により」と説明された。後年になって、兵37期が乗組んだ練習艦隊の司令官だった伊地知彦次郎少将が 斎藤実海軍大臣に宛てた意見書の存在が判明した。その意見書には「37期の候補生の後半(席次下位者)は、練習航海中の 勤務 ・成績共に不良。彼らの反省を促すため、37期候補生の後半の任官を半年遅らすべし」と書かれていた。
兵学校卒業席次が1番であった小林万一郎(1922年(大正11年)、少佐の時に病没[9])は、病気のため任官3ヶ月遅れ組に入り、ハンモックナンバーが138番以下に下がった。よって、少尉任官以降は、井上が兵37期のクラスヘッドとなった。
兵37期の出典は、特記ない限り、井上成美伝記刊行会編著 『井上成美』 井上成美伝記刊行会、1982年、49-50頁。
兵39期
1911年(明治44年)に兵学校を卒業した兵39期(兵学校卒業時148名[10])の西村祥治中将について、千早正隆は、下記のように述べている[11]
「官庁の官学出の中に特別組があるように、昔の日本海軍にも"特急組"と称する特別の待遇を受けるグループがあったが、西村中将はそういうグループに属していなかった。いな、むしろ、"特急組"から落っこちて普通列車に乗り換えた組であった。元海軍省軍務局長の岡敬純中将は西村中将のクラスの"特急組"であったが、彼もかつては西村中将の下風に立ったこともあったほどである」
兵学校卒業席次では、西村は21番、岡は52番で西村が上[12]。しかし、少佐進級時に岡は39期の「先頭組」に入ったが、西村は「先頭組」より1年遅れており、この時点で両者のハンモックナンバーが逆転した。その後、中佐から中将までの各階級で、岡が西村より1年早く進級している[13]
兵44期
1916年(大正5年)に兵学校を卒業した兵44期(兵学校卒業時95名[10])の柳本柳作(大佐で戦死、少将に進級)は、兵学校卒業席次は30番程度だったが、少尉候補生時代に、夜も寝ずに昼間は出来ない勉強に励む(森史朗は、昼間に、椅子に座ったまま、あるいは当直に立ったままでも仮眠できる方法を会得したのだろうと述べている)、少尉時代に、東京から横須賀までの72キロを徹夜で歩き通すと言った超人的な体力を持ち、職務に精励した結果、ハンモックナンバーを4、5番まで上げ、中尉だった1921年(大正10年)に、皇太子(のちの昭和天皇)渡欧の際に随員に選ばれた。これは、ガンルーム士官として最高の名誉であった。[14]
秦郁彦編著 『日本陸海軍総合事典 第2版』 によると、柳本の兵学校卒業席次は21番[12]。兵44期の卒業席次上位者は、3番が西田正雄大佐[12]、6番が島本久五郎少将[12]。兵学校卒業席次3番の西田、6番の島本、21番の柳本は、いずれも1937年(昭和12年)12月に大佐に進級しており、柳本は兵44期の先頭組に入っている。一方、兵学校卒業席次4番の湊慶譲少将[12]は、大佐進級の時点で、柳本を含む兵44期の先頭組より1年遅れている[15]
兵55期
1927年(昭和2年)3月に兵学校を卒業した兵55期(兵学校卒業時120名[10])の小泉義雄中佐の卒業席次は104番であった[16]。小泉は兵55期の先頭組(同期生の約半数)として1939年(昭和14年)11月15日に少佐へ進級した[17]。さらに、兵55期の先頭組は1943年(昭和18年)11月1日に中佐に進級したが、小泉は、それに続く2番手として、先頭組に6ヶ月遅れる1944年(昭和19年)5月1日に中佐に進級した[18]。小泉が、兵学校を卒業してからの17年間で、かなりハンモックナンバーを上げていたことが分かる。
小泉は、大尉であった1937年(昭和12年)7月11日、第二次上海事変の勃発の直後に、呉鎮守府第一特別陸戦隊中隊長に補され、8月17日に上海付近に敵前上陸して、上海特別陸戦隊司令官の大川内傳七少将の指揮下に入り、200名の兵員を指揮して中国軍と戦った(第二次上海事変)。小泉は、陸戦隊の全体会議で、大川内少将からじかに激賞された[19]
『ある海軍中佐一家の家計簿』を上梓した小泉昌義(小泉の三男)は、小泉の少佐進級について「兵学校卒業席次からいうと、小泉は次回まわしになって当然であったが、何と言っても、上海事変での武勲がものを言ったのだろう」という趣旨を述べている[17]
兵60期
1933年(昭和8年)に兵学校を卒業した兵60期(兵学校卒業時127名[10])の鈴木實中佐の卒業席次は80番くらいだった[20]。鈴木は第26期飛行学生を経て戦闘機パイロットとなり、空母「龍驤」乗組の中尉の時に第二次上海事変に参加した[20]1937年(昭和12年)8月23日の初陣で、「龍驤」戦闘機隊4機を率いて中国軍戦闘機隊27機と戦い、「編隊で9機撃墜、うち3機は鈴木が撃墜、日本側は全機帰還」の戦果を挙げ、第三艦隊司令長官の長谷川清中将から感状を与えられた[20]。後の「支那事変にかかる論功行賞」では、「殊勲甲の特」とされ、功四級金鵄勲章を授けられ、同時に80番だったハンモックナンバーが一気に10番台に上がった[20]。そのため、鈴木は少佐進級では同期の先頭組に入り、兵60期の中佐(11名、戦死による進級者を除く)の1人となった[20]

兵科将校の任官・進級は、少尉候補生・少尉・中尉・大尉については、病気その他のよほどの事情がない限りクラスメート全員が同時であった[21]。少佐への進級からハンモックナンバーによる差がついた[21]。少佐・中佐・大佐への進級に際しては、兵学校の各クラスをハンモックナンバーの順に数グループに分け、後のクラスの選抜者を前のクラスの中に割り込ませる「抜擢」制度をとった[5]。これにより、兵学校の前後のクラスをまたいで先任順位が変化した。クラスヘッド(兵学校各クラスの最先任者)が重視され、下のクラスのクラスヘッドが上のクラスのクラスヘッドを超えて昇進することはなかった[5]

中佐から大佐への進級の際には、1クラスがハンモックナンバーの順に5グループに分れた[22]。太平洋戦争が始まるまで、海軍士官の進級は1年に1回、海軍の年度切替の前後の11月中旬から12月上旬にかけて発令されたので(大将への親任[注釈 1]は1年に1度、4月前後に発令[26])、現役に残っているクラスメートに4年の差がついた[27]

海軍では大佐から下士官までについて「考課表」を上司に毎年作成させた[1]。大佐から少将への進級の際には、海軍省人事局が8年分の「考課表」を検討して昇進候補の順序をつけた[1]

大佐から少将への進級については、同クラスの5グループのうち、明治の終わり頃に兵学校を卒業した某クラスでは、一次抜擢者(クラスヘッドを含む)、二次抜擢者はほぼ全員が進級したが、三次抜擢者は7割程度、四次抜擢者・五次抜擢者は1割未満であった[28]

将官の進級における先任順位[編集]

将官に進級すると抜擢進級がなくなり(各人の先任・後任の順位が固定される)、予備役編入だけとなった[1][注釈 2]

例えば、先任順位が A・B・C・D・E・F の順である6人の大佐が同時に少将に進級し、中将進級時までにB・D・Eが予備役編入されてA・C・Fの3名の少将が現役に残ったとする[1]。ここで海軍人事当局が「A・Fを中将に進級させる」と決定した場合、抜擢進級がないため、後任のF少将は先任のC少将を抜いて中将に進級できない。よってCを予備役編入し、A・Fを中将に進級させる、といった要領である[1]

少将から中将への進級についても、「先に大佐から少将に進級したグループの方が、中将に進級する率が高い」傾向があったが、大佐から少将への進級(既述)よりも、その傾向は弱かった[30]。『海軍アドミラル軍制物語』を上梓した雨倉孝之は、中将進級については、より「将帥としての器」を備えているか否かが問われたからであろう、と評している[30]

大将への親任については、昭和期に大将となった32名について見ると、兵学校卒業席次が20%以内の「ハンモックナンバー上位者」が28名(87.5%)と大半を占める[31]。しかし、そのうち、兵学校首席卒業者は6名(18.8%)、次席卒業者は7名(21.9%)で、雨倉孝之は、兵学校首席・次席卒業者で大将に親任された者はびっくりするほど多くはない、と評している[31]。全国の秀才が集う兵学校で、激甚な競争を制して首席や次席で卒業するのは容易な業ではなく、卒業後に体に不調を来す者が割合多かった[31]。また、ややもすると「将に将たる器」とは言い難い人物になってしまうこともあった。中将までは、クラスの先頭を切って進級しても、そこで予備役に入る者が少なくなかった[31]

また、兵学校卒業席次が首席や次席であり、かつキャリアが順調であっても、「軍令・軍政・海上」の道からそれて、「技術の専門家」になった場合には中将どまりとなった[32]。例を挙げると、兵28期の兵学校卒業席次の首席は波多野貞夫、次席は永野修身であった[32]。波多野は、大尉の時に欧州に留学して火薬技術の専門家となり、火薬廠技術部長・火薬廠長を計10年も務めた[32]。波多野は、永野と同じ1927年(昭和2年)12月1日に、兵28期の先頭を切って中将に進級したが、大将に親任されずに予備役となった[32][注釈 3]

将官に進級すると抜擢進級がなくなり予備役編入だけになることが、海軍人事に強く影響した例がある。1945年(昭和20年)5月15日付で、「最後の海軍大将」として、塚原二四三中将(兵36期の2番手、横須賀鎮守府司令長官)と井上成美中将(兵37期クラスヘッド、海軍次官)が大将に親任された[34]。このとき、海軍大臣の米内光政大将は、軍令部次長 兼 海軍大学校長であった小沢治三郎中将をも大将とし、海軍総司令長官として海軍の全部隊を統合指揮させたい意向だったが、小沢はそれを固辞した[34]

昭和20年5月の時点で、現役中将の先任順は「塚原・井上・小松輝久(軍令部出仕)・草鹿任一南東方面艦隊司令長官)・大川内傳七南西方面艦隊司令長官)・小沢」(井上から小沢はいずれも兵37期)であった[34]。小沢が大将に親任されるには、井上と小沢の間の小松・草鹿・大川内を予備役とする必要がある[34]。この時、小松は内地にいたが、草鹿はラバウル、大川内はルソン島と、内地との交通が途絶した遠方にあった[34]。草鹿と大川内を予備役に編入した場合、職務を引き継ぐ者を内地から送る手段がないため、両名を即日召集して「召集された予備役中将」として現職務を続けさせるしかない[34]。しかし、予備役中将は、それまでの先任順位とは関係なく全ての現役中将の下に位置づけられるため、数年も若い現役中将の下になってしまう[34]。雨倉孝之は、草鹿・大川内をそのような境遇に陥らせるのを避けるため、小沢は大将親任を辞退したのであろう、と述べている[34]

海軍兵学校卒業席次[編集]

海軍兵学校卒業席次
卒業年月 1位 2位 3位 4位 5位 卒業
人数
5期 明治11年(1878年)8月 富岡定恭 鹿野勇之進 43人
6期 明治12年(1879年)8月 山内万寿治 坂本俊篤 斎藤実 野口定次郎 岩崎達人 17人
7期 明治13年(1880年)12月 島村速雄 加藤友三郎 吉松茂太郎 成田勝郎 佐々木広勝 30人
8期 明治14年(1881年)9月 今泉利義 竹内平太郎 津田三郎 岩本耕作 井手麟六 35人
9期 明治15年(1882年)11月 土屋保 宮地貞辰 木村浩吉 村地正敏 高木助一 18人
10期 明治16年(1883年)10月 加藤定吉 大城源三郎 瀬野口覚四郎 山下源太郎 川合昌吾 27人
11期 明治17年(1884年)12月 二木勇次郎 村上格一 川島令次郎 林作次郎 三上平吉 26人
12期 明治19年(1886年)12月 江頭安太郎 坂井彦次郎 林三子雄 土山哲三 山屋他人 19人
13期 明治20年(1887年)2月 伊藤乙次郎 井内金太郎 成田長裕 黒井悌次郎 秀島成忠 36人
14期 明治21年(1888年)7月 荒尾富三郎 上野亮 松村龍雄 上村翁輔 佐藤鉄太郎 45人
15期 明治22年(1889年)4月 財部彪 小杉辰三 竹下勇 福田久槌 小栗孝三郎 80人
16期 明治23年(1890年)4月 木山信吉 井出謙治 平岡貞一 上田圭蔵 関重孝 29人
17期 明治23年(1890年)7月 秋山真之 田所広海 山路一善 森山慶三郎 石井力三郎 88人
18期 明治24年(1891年)7月 加藤寛治 平賀徳太郎 酒井邦三郎 高橋雄一 松村豊記 61人
19期 明治25年(1892年)7月 百武三郎 木村金弥 千綿義孝 中島資朋 谷口尚真 50人
20期 明治26年(1893年)12月 大石馨 坂本則俊 斎藤七五郎 竹内重利 八戸三輪次郎 31人
21期 明治27年(1894年)11月 古川鈊三郎 田畑正亮 遠藤寅彦 巌崎茂四郎 伊集院俊 34人
22期 明治28年(1895年)12月 竹内兼蔵 桜井真清 内田虎三郎 別府友次郎 吉川安平 24人
23期 明治29年(1896年)12月 丸山寿美太郎 松村菊勇 吉川秀吉 磯貝正吉 松下東治郎 19人
24期 明治30年(1897年)4月 筑土次郎 山本英輔 大角岑生 飯田延太郎 大石正吉 18人
25期 明治30年(1897年)12月 松岡静雄 山梨勝之進 鳥巣玉樹 牟田亀太郎 中堀彦吉 32人
26期 明治31年(1898年)12月 木原静輔 野村吉三郎 小林躋造 吉武貞輔 鈴木乙免 59人
27期 明治32年(1899年)12月 中村良三 黒岩篤 漢那憲和 川副正治 島田貞 114人
28期 明治33年(1900年)12月 波多野貞夫 永野修身 秋山米吉 安東昌喬 淡中晴海 105人
29期 明治34年(1901年)12月 溝部洋六 品川一郎 森下基一 村瀬貞次郎 高橋三吉 115人
30期 明治35年(1902年)12月 百武源吾 今村信次郎 石川清 広瀬哲 常盤盛衛 187人
31期 明治36年(1903年)12月 枝原百合一 菊井信義 鈴木重音 寺島健 加藤隆義 173人
32期 明治37年(1904年)11月 堀悌吉 塩沢幸一 松下薫 藪正毅 田中政徳 192人
33期 明治38年(1905年)11月 豊田貞次郎 長谷川芳太郎 阿武清 有馬寛 稲上信壮 171人
34期 明治39年(1906年)11月 佐古良一 佐藤三郎 三井清三郎 園田実 椎名直吉 175人
35期 明治40年(1907年)11月 近藤信竹 川瀬義重 小林宗之助 原五郎 町田進一郎 172人
36期 明治41年(1908年)11月 有栖川宮栽仁王 佐藤市郎 沢本頼雄 坪井正吉 小柳喜三郎 191人
37期 明治42年(1909年)11月 小林万一郎 井上成美 岩下保太郎 柿田孝二 戸苅隆始 179人
38期 明治43年(1910年)7月 原清 杉山六蔵 三川軍一 小林仁 海谷優 149人
39期 明治44年(1911年)7月 多賀高秀 田結穣 霜上正太郎 和田操 山縣正郷 148人
40期 明治45年(1912年)7月 岡新 山口多聞 浜田邦雄 多田武雄 倉永小三 144人
41期 大正2年(1913年)12月 小西干比古 中島省三郎 前田稔 中原義正 荒木煕 118人
42期 大正3年(1914年)12月 三木繁二 小林謙五 大西新蔵 河野千万城 山田定義 117人
43期 大正4年(1915年)12月 浜野力 堀内多雄 武節俊二郎 矢野志加三 横井忠雄 95人
44期 大正5年(1916年)11月 一宮義之 黒田麗 西田正雄 湊慶譲 福田勇 95人
45期 大正6年(1917年)11月 伏見宮博義王 中村勝平 千田金二 澄川道男 長井満 89人
46期 大正7年(1918年)11月 山階宮武彦王 高田利種 山本親雄 松尾実 重永主計 124人
47期 大正8年(1919年)10月 光延東洋 加世田哲彦 湊乾助 石水泰 浜田祐生 115人
48期 大正9年(1920年)7月 高橋繁次郎 小野田捨次郎 鶴尾定雄 佐藤治三郎 宮崎俊男 171人
49期 大正10年(1921年)7月 華頂宮博忠王 久邇宮朝融王 松浦義 三井再男 石原雄 176人
50期 大正11年(1922年)6月 中野実 築田収 大前敏一 櫛引誠雄 藤尾勝夫 272人
51期 大正12年(1923年)7月 樋端久利雄 山本祐二 溪口泰麿 木阪義胤 小島正己 255人
52期 大正13年(1924年)7月 高松宮宣仁親王 入江籌直 内田成志 白浜栄一 有馬純一 236人
53期 大正14年(1925年)7月 華頂博信 道木桂 後藤実二 旭竜雄 松木作次 62人

皇族の海軍士官は実際の成績と関係なく名誉首席や名誉次席とされたものである。中佐まではクラスヘッド同等、それ以降はクラスヘッドを超える速度で昇進した[35]

ハンモックナンバーの問題と解決に向けた動き[編集]

一般的に、海軍兵学校在学時の成績によって、将来の昇進任官が決まってしまうハンモックナンバー制度による年功序列型のシステムは組織の柔軟さを奪うといわれ、特に太平洋戦争中の人事などを例に挙げ批判されるケースも多い。特に、ミッドウェー海戦などでは年功序列ペーパーテストの成績順によって、航空専門外の将官が航空機動部隊の指揮を務めるなど将官ひとり一人の能力を考慮した人事配置が行われなかったとして、日本の組織体質や海軍の上層部を批判するものも少なくない。このハンモックナンバーによる弊害は戦後に、海軍関係者が開催した海軍反省会でも問題視されており、戦前からその問題意識はあったようだが、井上成美など先進的な思考をもった将官も含め、明治以来の日本海軍の伝統とエリート意識が邪魔して、アメリカのように将官ひとり一人の能力や専門性などを考慮した人事システムに改めようという意識はなかったと言われている。ただし、海兵28期の永野修身が海軍大臣の時、明治以来のハンモックナンバーのみを基準とする昇進・任官制度を改め、将官ひとり一人の能力や専門性などを考慮した柔軟な組織システムに改めようとした時期があった。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 中将から大将への昇進は、大将という階級そのものが親任官であるため、特に「親任」と呼んだ[23][24]。太平洋戦争の開戦までは、大将親任も1年に1回、他の階級とは異なって4月前後に発令された[25]
  2. ^ 陸軍では支那事変以前は海軍と同様だったが、支那事変以降に将官の必要数が増えると、まず少将、次いで中将について抜擢進級を行うように順次変化し、終戦前には抜擢による大将親任がなされるに至った。例えば士候20期を見ると、先任の木下敏中将を現役に残して、後任の吉本貞一中将・木村兵太郎中将が昭和20年5月に大将に親任された。[29]
  3. ^ 吉田俊雄は、兵28期クラスヘッドだった波多野が大尉の時に技術畑に転じたため、次席の永野がクラスヘッドに繰り上がった、と述べている[33]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 雨倉 1997, pp. 32-35, 雲上の人 - 海軍中将
  2. ^ 「昭和一七年度現役海軍士官名簿の件送付」 (アジア歴史資料センター
  3. ^ 小泉昌義 『ある海軍中佐一家の家計簿』 光人社NF文庫、2009年、102頁。
  4. ^ a b 雨倉孝之 『海軍ジョンベラ軍制物語』 光人社、1997年、160頁。
  5. ^ a b c 池田清 『日本の海軍』 中公新書、1981年、171頁。
  6. ^ 井上成美伝記刊行会編著 『井上成美』 井上成美伝記刊行会、1982年、資料篇 204-206頁。
  7. ^ 山口宗之 『陸軍と海軍-陸海軍将校史の研究』 清文堂出版、2000年、43-44頁。
  8. ^ 吉田俊雄 『大本営海軍参謀-最後の証言』 光人社NF文庫、2012年、291-292頁。
  9. ^ 井上成美伝記刊行会編著 『井上成美』 31頁
  10. ^ a b c d 秦郁彦編著 『日本陸海軍総合事典 第2版』 東京大学出版会、2005年、663-665頁。
  11. ^ 千早正隆 『日本海軍 失敗の本質』 PHP文庫、2008年、218-219頁。
  12. ^ a b c d e 秦 2005, pp. 269-288, 第1部 主要陸海軍人の履歴-期別索引
  13. ^ 『日本陸海軍総合事典 第2版』 194・240頁。
  14. ^ 森史朗 『ミッドウェー海戦-第1部-知略と驕慢』 新潮選書、2012年、127-129頁。
  15. ^ 『日本陸海軍総合事典 第2版』 218・240・256・260頁。
  16. ^ 『ある海軍中佐一家の家計簿』 68頁。
  17. ^ a b 『ある海軍中佐一家の家計簿』 210頁。
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  19. ^ 『ある海軍中佐一家の家計簿』 191-196頁。
  20. ^ a b c d e 神立 2000, pp. 29-54, 鈴木實 名戦闘機隊長からレコード業界へ
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  29. ^ 『陸軍省人事局長の回想』 27・446-451頁。
  30. ^ a b 雨倉 1997, pp. 39-40, 中将進級 - 評価基準が変わる?
  31. ^ a b c d 雨倉 1997, pp. 165-166, 大将栄達への条件
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  33. ^ 吉田俊雄 『良い指揮官悪い指揮官』 光人社NF文庫、1999年、20頁。
  34. ^ a b c d e f g h 雨倉 1997, pp. 171-174, 小沢大将実現せず
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関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 海軍義済会編、戸高一成監修『日本海軍士官総覧』柏書房、2003年( 「海軍義済会員名簿(昭和十七年七月一日調)」(海軍義済会、昭和18年刊)の復刻版)。
  • 神立尚紀 『零戦 最後の証言II』 光人社2000年 
  • 秦郁彦 編著 『日本陸海軍総合事典』 (第2版) 東京大学出版会2005年