ハロルド・スミス (撮影監督)

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Harold Smith
ハロルド・スミス
生年月日 (1898-07-07) 1898年7月7日
没年月日 1965年5月
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 撮影技師
ジャンル サイレント映画トーキー
活動期間 1920年代 - 1940年代
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ハロルド・スミスHarold Smith, 1898年7月7日 - 1965年5月)は、アメリカ合衆国撮影監督撮影技師である[1]ジェイ・マーチャントアルフレッド・ゴズデンらとともに来日し、阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画に派遣されたユニヴァーサルの技術者である。

人物・来歴[編集]

1898年、イリノイ州シカゴで生まれる。

時期は不明であるが、1920年代までにユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に入社し、撮影部に所属する[1]。1916年(大正5年)以来、日本市場に進出していたユニヴァーサルは、1926年(大正15年)9月、独立直後の若手スター俳優阪東妻三郎と組んで、製作会社「阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画」を日本に設立、カール・レムリが日本に送り込んだスタッフの1人として、監督のジェイ・マーチャント、撮影技師のアルフレッド・ゴズデンらとともに同年10月4日に横浜港に上陸している[2]。1927年(昭和2年)1月28日に公開された山上紀夫監督の『切支丹お蝶』には、移動撮影の技師として、同年2月10日に公開された鈴木重吉監督の『青蛾』には鈴木博と連名で撮影技師として、それぞれクレジットされている[1][3]。同社は同年5月末には契約解除となり、スミスら技師たちは帰国となった[2]

帰国翌年の1928年(昭和3年)、エドワード・スローマン監督のサイレント映画情熱の砂漠』の撮影技師として、ジャクソン・ローズとともに名を連ねている[4][5]。1929年(昭和4年)に公開されたトーキーによるドキュメンタリー映画 The Devil's Pit の撮影にウィルフレッド・M・クラインとともに名を連ね[1][6]、同作のサイレント版 Under the Southern Cross [7]は『タランガ』のタイトルで日本でも公開されている[6]

トーキー時代にも、ユニヴァーサル撮影部の技術者として現場に参加している[1]。1938年(昭和13年)には、日本の田坂具隆監督の『五人の斥候兵』がイタリア民衆文化大臣賞を受賞した第6回ヴェネツィア国際映画祭で、アメリカ合衆国代表の審査員を務めた[1]

1944年(昭和19年)以降の作品歴はわからない[1][4]

フィルモグラフィ[編集]

特筆以外はすべて撮影作である[1]。多くの記録が不明である。

関連事項[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h Harold Smith, Internet Movie Database (英語), 2010年7月23日閲覧。
  2. ^ a b 小松弘「モダニズムの成立-一九二七年における日本映画の状況-」『早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第3分冊日本文学演劇映像美術史日本語日本文化』第50巻、早稲田大学大学院文学研究科、2004年、25-42頁、CRID 1050282677496040448hdl:2065/8549ISSN 1341-7533 
  3. ^ ハロルド・スミス、日本映画データベース、2010年7月23日閲覧。
  4. ^ a b c Harold Smith, キネマ旬報映画データベース、2010年7月23日閲覧。
  5. ^ a b 情熱の砂漠、キネマ旬報映画データベース、2010年7月23日閲覧。
  6. ^ a b c タランガ、キネマ旬報映画データベース、2010年7月23日閲覧。
  7. ^ The Devil's Pit - IMDb(英語), 2010年7月23日閲覧。

外部リンク[編集]