ハリー・レドナップ

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ハリー・レドナップ Football pictogram.svg
Harry Redknapp 2011 (cropped).jpg
名前
本名 ヘンリー・ジェームズ・レドナップ
Henry James Redknapp
愛称 ハリー
ラテン文字 Henry Redknapp
基本情報
国籍 イングランドの旗 イングランド
生年月日 1947年3月2日(67歳)
出身地 ロンドン
選手情報
ポジション MF
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ヘンリー・ジェームズ・"ハリー"・レドナップHenry James "Harry" Redknapp, 1947年3月2日 - )は、イングランドロンドン出身のサッカー指導者、元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー

元イングランド代表MFジェイミー・レドナップは息子であり、甥にチェルシーFCフランク・ランパードがいる。

幼少期[編集]

少年時代のレドナップは当初地元ロンドンのチームであるアーセナルのファンであったが、11歳の時に同じロンドンのクラブであるトッテナム・ホットスパーの下部組織に入団する。後にトッテナムの監督に就任するに際して、彼は「昔からトッテナムが大好きだった」と述べている。

現役時代[編集]

1965年、17歳でウエストハム・ユナイテッドとプロ契約するとトップチームで通算149試合に出場し、8ゴールを挙げている。1972年AFCボーンマスに移籍すると4年間で101試合に出場、5ゴールを記録する。その後ブレントフォードFCを経て北米サッカーリーグシアトル・サウンダーズに移る。

指導経歴[編集]

AFCボーンマス時代[編集]

選手としてボーンマスを離れてから6年後、再び指導者としてチームへと戻る。この時の肩書きはデビッド・ウェブ監督のアシスタントコーチであった。ウェブがトーキー・ユナイテッドFCの監督に就任した際に監督への昇格を希望したが、ドン・メグソンがその座に就く。しかしメグソン率いるチームは3部リーグ下位に低迷し、レドナップ監督が誕生する。

レドナップは低迷するチームを押し上げ、その年のFAカップ3回戦でマンチェスター・ユナイテッドを破って周囲を驚かせる。何年か3部リーグの中位あたりをさまよった後、1986-87シーズンにクラブ最多記録である97の勝ち点を奪ってリーグ優勝、2部に昇格する。しかし3年後の1990年に故障者が続出してチームは低迷。再び3部リーグへの降格を余儀なくされた。

その1990年イタリアW杯開催中に、彼は5人の死者を出す自動車事故に巻き込まれる。彼は奇跡的に回復した(ただし事故の影響で嗅覚が麻痺してしまった)が、思うような選手が獲得できないことに失望して1991-92シーズン終了後にクラブを去る。

ウエストハム・ユナイテッド時代[編集]

もう1つの古巣に戻ってきたのはその翌シーズンである。アシスタントコーチとしてウエストハムに帰ってきた彼は1994年の夏にビリー・ボンズの解任を受けて監督に就任した。降格と昇格を繰り返していたチームをプレミアリーグに定着させ、安定したチームを作り上げた。当時ウエストハムのユースアカデミーにはリオ・ファーディナンドフランク・ランパードジョー・コールマイケル・キャリックといった後にプレミアリーグのスターとなる若手選手が多く在籍していた。移籍市場では獲得した外国人選手が期待外れに終わるということが多かったものの、1998年のシーズンを8位で終えると、翌98-99シーズンは5位まで順位を上げ、インタートトカップの出場権を得る。そのインタートトカップに優勝してUEFA杯に参戦するが、慣れない過密日程に苦しめられ、99-00シーズンのリーグ戦は1993年の昇格以来、最低となる15位と言う結果に終わった。

当時彼はクラブ側から4年間の新契約を提示されていたが彼のいくつかの不用意な発言[1]がサポーターマガジンに掲載されたことがクラブの不興を買い、その年解任されてしまう。

ポーツマス時代[編集]

2001年の夏に彼はポーツマスのフットボールディレクターに就任する。しかしクラブの不調によって2002年3月にグラハム・リックス監督が解任されるとその後任としてクラブを指揮し、2002-03シーズンの2部リーグで優勝。プレミアリーグへの昇格を決める。皮肉なことにこの年ポーツマスと入れ替わりに2部リーグへと降格したのは彼の前チームであるウエストハムであった。

翌2003-04シーズンもプレミアリーグの残留を果たすが、クラブのオーナーであるミラン・マンダリッチと人事を巡って対立。[2]2004年11月にクラブを去る。

サウサンプトン時代[編集]

ポーツマス辞任の数週間後、彼はポーツマスにほど近いサウサンプトンFCの監督に就任する。この移籍劇はライバルクラブである両チームのサポーターの感情を逆撫でした。彼の使命は前の14試合で1勝しか挙げられていなかったクラブをプレミアリーグに残留させることであったが、何選手かの補強も空しく(新しく契約した選手の中には彼の息子であるジェイミー・レドナップも含まれていた)チームは27年ぶりに2部リーグに降格する。

翌2005-06シーズンはプレミアリーグ昇格を目指して戦うが、ここでもオーナーのルパート・ロウとコーチ人事を巡って対立し、ちょうどその時アラン・ペラン監督を解任したばかりであったポーツマスに再び戻ることになる。

ポーツマスへの帰還[編集]

2005年12月7日、降格の危機にあったポーツマスの監督に再び就任する。当初は残留が危ぶまれたものの、ロシア系フランス人の大富豪であるアレクサンドル・ガイダマクがオーナーに就任したことによって資金面の不安が解消され、チームは好調をキープする。結局レドナップは1950年以来最も高い順位である9位でこのシーズンを終える。2007年の10月にレドナップはポーツマスと2011年までの契約を結ぶ。

2008年1月、レドナップがニューカッスル・ユナイテッドの監督に就任するのではないかという報道が流れる。当時ニューカッスルはサム・アラダイス監督を解任したばかりでその後任を探していた。しかし彼はポーツマスに残り、結局ケビン・キーガンが監督に就任することになった。

2008年5月8日、FA杯決勝でポーツマスはカーディフヌワンコ・カヌのゴールを守り切って1-0で勝利、チームは69年ぶりの栄光を手にする。

トッテナムへの移籍[編集]

2008-09シーズンのプレミアリーグでファンデ・ラモス監督率いるトッテナム・ホットスパーは8試合を終えて1勝も挙げられず、2008年10月24日にラモスは解任された。これを受けてレドナップのトッテナムへの電撃的な移籍が発表され、ポーツマスはトッテナムから補償金として500万ポンド(約7億7000万円)を受け取った。

トッテナムの監督就任についてレドナップは「今回のオファーは、到底断われるものではなかった。」と語っている。 就任後は、自身が指揮官時代に獲得したポーツマスの中心選手であるジャーメイン・デフォーをはじめピーター・クラウチニコ・クラニチャールを獲得し再び指揮下に置いた。2009-2010シーズンは大幅な戦力補強を行い、マンチェスター・シティ、リヴァプールなどを抑え2010-2011シーズンのチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。

2012年6月14日、トッテナム監督退任が発表された。

QPR時代[編集]

9月から古巣ボーンマスの顧問を務めていたが[3]、2012年11月24日、解任されたマーク・ヒューズの後任としてクイーンズ・パーク・レンジャーズFCの監督に就任した[4]。契約期間は二年半[5]

所属クラブ[編集]

選手[編集]

指導者[編集]

脚注[編集]