ハリー・グリッケン

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ハリー・グリッケン
Harry Glicken
Man wearing a coat and hat and holding a pad of paper sits on a rock , with a lake and several mountains visible in the background
調査中のグリッケン
生誕 1958年3月7日 (1958-03-07)
死没 (1991-06-03) 1991年6月3日(満33歳没)
日本雲仙岳
死因 火砕流に巻き込まれた
国籍 アメリカ合衆国
出身校

ハリー・グリッケン: Harry Glicken1958年3月7日 - 1991年6月3日)は、アメリカ合衆国火山学者である。アメリカ合衆国ワシントン州セント・ヘレンズ山が1980年に起こして有名になった大噴火の前後で、同山の研究を行った。このときグリッケンが面接に応じるために、同僚の火山学者デイヴィッド・ジョンストンと観測当番を入れ替わり、ジョンストンが噴火が原因で亡くなったことで、グリッケンは自分を責めた。1991年、日本雲仙岳溶岩ドームの崩壊を研究している時におきた火砕流に巻き込まれ、同僚の火山学者クラフト夫妻(カティアとモーリス)他と共に死亡した。その遺骸は4日後に発見され、その両親の要請で火葬に付された。ジョンストンとグリッケンは火山の噴火で死亡した2人しかいないアメリカ人火山学者である。

グリッケンは長い間アメリカ地質調査所(USGS)のために働くことに興味を抱いていたが、そこの従業員がグリッケンを変わり者と見ていたために、そこで恒久的な職を得ることはなかった。アメリカ国立科学財団などの団体から認められた助成金で独立した研究を行い、火山の岩屑なだれの分野での専門家になった。「ワシントン州セント・ヘレンズ山の1980年5月18日の岩盤すべり屑なだれ」と題した、セント・ヘレンズ山に関する研究に基づいた博士論文など、この主題に関する著作を幾つか書き、それが岩屑なだれに対する興味を広めさせた。その報告書はグリッケンの死後の1996年に、グリッケンの同僚によって出版されて以来、岩屑なだれに関する他の多くの出版物によって認められてきた。グリッケンはその死後に、火山に対するその愛と、その分野への研究に没頭したことを学界から称賛されている。

生涯と経歴[編集]

初期の仕事[編集]

 Man sitting on a folding chair next to a vehicle and trailer, writing in a notebook and smiling as he looks towards the camera
デイヴィッド・ジョンストン、グリッケンの指導者かつ助言者だった。この写真は1980年5月17日にコールドウォーターII基地で撮影。セント・ヘレンズ山爆発の13.5時間前だった。グリッケンはジョンストンの死によって衝撃を受けた

ハリー・グリッケンは1958年に生まれた。父はミルトン・グリッケン、母はアイダだった[1]。1980年にスタンフォード大学を卒業した[2]。その年の後半、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の大学院生であるときに、一時的にアメリカ地質調査所に雇われ、ワシントン州の火山セント・ヘレンズ山観測の手助けを行った。1840年代ないし1850年代から休眠していたセント・ヘレンズ山は1980年3月に活動を再開していた[3]

地震と火山活動が増加するに連れて、アメリカ地質調査所のバンクーバー支所で働く火山学者は、差し迫っている噴火を観測する準備をしていた。地質学者のドン・スワンソン達は、成長する溶岩ドームとその周辺に反射器を置き[4]、1980年5月1日には[5]、コールドウォーターIとIIの観測基地を設立し、ドームが変形すると、光波測距儀を用いて反射器までの距離が如何に変化するかを測定していた。グリッケンは火山を2週間観測し、火山から北西に5マイル (8 km) 強の位置に置いたコールドウォーターIIのトレイラーで寝泊まりしていた[5]。1980年5月18日、グリッケンは6日間連続で働いた後[1]、カリフォルニア州マンモスで指導教授のリチャード・V・フィッシャーから卒業研究に関する面接を受けるために休暇を取った[6]。グリッケンの研究の助言者で指導者でもあった[7]デイヴィッド・ジョンストンがその観測任務に就いた[7][8]。ただし、火山の中で移動性のマグマの兆候があり、そこの安全性について心配が表明されていた[5]。山の北斜面直下でマグニチュード5.1の地震が起きた後、午前8時32分に火山の一部が滑落し始め[9]、セント・ヘレンズ山が噴火した。山の斜面を超音速に近い速度で滑り降りた火砕流に巻き込まれたジョンストンが死んだ[10]

噴火後、グリッケンは救助活動の中心となったトゥートル高校に行き、アメリカ空軍予備役救援大隊と合流してヘリコプターでジョンストンを、あるいはその基地の印を探した[7]。6時間近くに渡って3組の乗員と共に捜索したが、何の痕跡も見つけられなかった[11]。グリッケンは4組目のヘリコプター乗員に捜索を助けてくれるよう依頼したが、危険な状態であることを恐れて彼らは辞退した[12]。グリッケンは取り乱しており、ジョンストンの死を受け入れようとはしなかったので、スワンソンに慰められてやっと沈静化することになった[12]

1980年の半ば、5月の噴火後、アメリカ地質調査所の科学者がバンクーバーにデイヴィッド・A・ジョンストン・カスケード火山観測所を建設することを決め[13]オレゴン州、ワシントン州、アイダホ州で密に火山を観測することを目指した[14]。グリッケンはセント・ヘレンズ山に戻って、火山の側面噴火の名残を分析した。しかし、他の観測所の職員は既に山での研究を始めており、グリッケンが独自のやり方で地質調査所を支援したいという申し出は、上級科学者から断られた[15]。その代わりに、調査所に新しく雇用された地滑りの専門家バリー・ボイトとの仕事を見つけた。ボイトの指導下でグリッケンは仕事に没頭し[16]、それが調査所で仕事を得る動機となり、ジョンストンの死に関する苦悶が和らげられた[17]。グリッケンと地質学者のチームが、セント・ヘレンズ山の構造的崩壊から出た岩屑原の地図を作った。それは火山本体のおよそ4分の1に相当した。この壮大で細かな分析によって、そのチームは屑の一片一片の起源や移動の手段まで解き明かした。それらは幅100ヤード (91 m) もある巨岩からほんの細片まであった[18]

グリッケンはそのチームと共に火山の地滑りに関する記念碑的研究を行い、背の高い火山が崩壊しやすいという理論を打ち立てた[18]。この研究はその特徴ある結論と詳細まで注意が払われている故に称賛され[19]、世界中の火山で同様に堆積されたものを火山学者が同定できるようになった。グリッケンの論文からの所見が1980年代を通じて幾つか短い記事で出版された後[20]、グリッケンは背の高い火山に近いハンモック原の形成を説明できる地質学者としては第一人者として認めらるようになった[19]

セント・ヘレンズ山以後の研究と、死[編集]

噴火の後の年月でグリッケンは名声を得て、日本ニュージーランドグアドループで国際的な研究を行う機会を得たものの、依然としてアメリカ地質調査所での職は得られなかった[18]。調査所の上級職員はグリッケンの挙動の奇抜さが受け入れがたいと考えた。セント・ヘレンズ山での行動が忘れられ、アメリカ地質調査所はカスケード火山観測所の予算を縮小し、駐屯所の閉鎖も検討するようになった[19]。グリッケンは調査所で恒久的な職を得られることはなさそうだと認識した後に、ふさぎ込み、抜毛症を誘発した[21]。グリッケンは調査所の支援を1989年まで続け[22]、カリフォルニア大学サンタバーバラ校で研究者の助手も務めていた[23]

1989年から1991年[24]、グリッケンは日本の東京大学地震研究所で博士研究員として火山学の研究を続けた。このときアメリカ国立科学財団からの補助金の支援を受けていた[25]。後に、首都大学東京[26][27]研究室の教授および翻訳者として活動し[28]雲仙岳の研究に関わるようになった[26]。雲仙岳は198年間の休眠後に、1990年11月に噴火活動を再開したばかりだった。最初に活動が起きた後の数か月間で、間欠的に噴火を起こし、政府は1991年5月末近くに山の近辺からの避難を指示した[29]。6月2日、グリッケンはクラフト夫妻(カティアとモーリス)と共に山を訪れた[22]。この3人は翌日火山の麓近くにあった危険地帯に入り、危険な火砕流は地形の中で転回し、自分たちには及ばないものと仮定していた。その日遅くに溶岩ドームが崩壊し[30]、時速60マイル/時 (97 km/h) で大規模な火砕流が滑り降りた。その流れは回転点に達して[31]2つに分かれ、上流側の熱い流れが瞬く間に火山学者達の居る側に流れ、即死させた[32]。この事故で火山学者達を観察していた報道関係者を含め、全部で41人あるいは42人が死亡した[31][33][34]。この火砕流で390軒の家屋が焼け[33]、火砕流の跡は長さ2.5マイル (4.0 km) にもなった[31]。グリッケンの遺骸は4日後に見つかり、その両親の要請に従って火葬に付された[1]。今日まで、ジョンストンとグリッケンは火山の噴火で死亡した2人しかいないアメリカ人火山学者となっている[35]

死後の報告書[編集]

グリッケンが死亡したとき、グリッケンはそれまでに短い記事で出版していたものを纏めて、博士論文として出版することを考えていた。既に火山斜面の岩屑なだれの分類定義を終えており、その主題に関して幾つかの論文を書いていた。スワンソンがこの分野でグリッケンを最先端の専門家と位置付けていた[18]。1980年セント・ヘレンズ山の噴火以後、裂け目に関する研究が、良く知られた火山で同定された岩屑を研究するものとして成長していた。セント・ヘレンズ山の火砕流に関する研究は、今日までその分野でほとんど完成されたものと考えられている。その報告書は、アメリカ地質調査所でグリッケンの知人だったキャロル・オステングレン、ジョン・コスタ、ダン・ズリシン、ジョン・メイジャーによって、1つの報告書として1996年に出版された[20]。メイジャーはグリッケンの論文の序文で、「セント・ヘレンズ山の堆積物はこれほど詳細に地図化されることは二度とないだろう」と記した[20]

グリッケンの報告書は「ワシントン州セント・ヘレンズ山の1980年5月18日の岩盤すべり屑なだれ」と題されている。その広大な研究室とフィールドワークで構成され、噴火の写真で補われ、噴火前のセント・ヘレンズ山の記述があり、ボイトの論文などそれ以前の出版物にも言及があった[36]。この報告書で、グリッケンは縮尺24,000分の1の地滑り堆積物の地図を作っており、さらに縮尺12,000分の1で、岩石の種類を記述する岩石学の地図を加えていた[20]。また各地滑りの写真や推計速度のデータなどを使って、滑った塊のそれぞれの動きについて結論を出し、それぞれの構成を詳述し、塊の間の相互作用を整理していた[37]

賛辞と遺産[編集]

グリッケンの同僚はグリッケンの業績を称賛していたにも拘わらず、彼を奇抜だとみなし、大いに秩序を乱す者と考えていた。おしゃべりで、極度に感受性が強いことで知られ、仲間からは「変わり者」と見なされることが多く、細部に拘り過ぎることもあった[16]。友人の1人は、「ハリーは全人格が個性的だった。...彼を知っている者なら誰でも、彼が科学者としては優秀な者であることに驚いていた。」と記している[16]。グリッケンが車を運転する時の習慣については、同じ友人が「全速力で道路を走りたがり、彼にとって重要なこと全てについて語り、信号機のある4つ角に来ても気にせずに通過し、通過したことに気付いてもいなかったという、漫画のような性格だ。」と語っている[16]

グリッケンの父は1991年に、グリッケンがその情熱を追求中に死んだと語り[24]、火山学に「全的に没頭していた」とも言っていた[1]。アメリカ地質調査所の同僚だったドン・ピーターソンは、グリッケンが観察したものに情熱的にアプローチすることを熱望していたと付け加え、その経歴を通じてまた大学院生としての業績を称賛している[1]。グリッケンの指導教授だったリチャード・V・フィッシャーは、その分野でのグリッケン個人の情熱について語り、「セント・ヘレンズ山で起きたことは、長い間グリッケンを深く悩ませたものであり、ある意味で以前よりもさらにその分野に没頭させることになったと考えられる。」と記している[38]。同僚のロビン・ホルコームは「ハリーは大変情熱的であり、大変聡明であり、大変大望があり、火山について価値あることを行おうと切望していた。」と述べている[19]。多くの研究がグリッケンの作った火山地滑りの分類を利用して来ており、その後の多くの論文はグリッケンの1996年の報告書を認知し引用している[20]。アメリカ地質調査所雇員であるドン・スワンソンは、グリッケンの業績全体を顧みて、「火山岩屑なだれの研究で世界の指導者」だと称えている[18]

グリッケンはカリフォルニア大学サンタバーバラ校と密接なつながりがあり、そこで博士号を取得し、研究を続けた。グリッケンの大学との協業を記憶するために、毎年地球科学部が地質学の分野で優れた卒業生に「ハリー・グリッケン記念卒業奨学金」を与えている。これはハリー・グリッケン基金が創設したものであり、「火山の挙動を理解することに関する研究を行おうと」いう学生を支援することを目指している[39]

出版物の抜粋[編集]

グリッケンの著作の多くは1980年のセント・ヘレンズ山の噴火を中心としたものである。岩屑なだれについては、他の火山学者との共著もある。同僚のジョン・メイジャーは「ハリーの業績の全てが出版されることはなかった」と記している[20]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e Siegel, Lee (1991年6月7日). “Geologist Killed in Japan Eruption: Escaped Death When Mt. St. Helens Blew”. Ludington Daily News (Community Media Group): p. 8. http://news.google.com/newspapers?nid=110&dat=19910607&id=ms8LAAAAIBAJ&sjid=o1UDAAAAIBAJ&pg=6714,5350561 2010年4月10日閲覧。 
  2. ^ “Geologist Loved What He Was Doing”. The Charlotte Observer (The McClatchy Company): p. 14A. (1991年6月7日) 
  3. ^ Gorney, Cynthia (1980年3月31日). “The Volcano: Full Theater, Stuck Curtain; Hall Packed for Volcano, But the Curtain Is Stuck”. The Washington Post 
  4. ^ Parchman, pgs. 108–109.
  5. ^ a b c Balog, James (January 2005). “Back to the Blast”. National Geographic Adventure (Washington, DC, US: National Geographic Society). http://www.nationalgeographic.com/adventure/0412/excerpt2.html 2010年4月11日閲覧。. 
  6. ^ Fisher, pgs. 90–92.
  7. ^ a b c Thompson, pg. 111.
  8. ^ Durbin, Kathie (2010年4月1日). “Helicopters to Hell”. The Columbian (Campbell, Scott). http://www.columbian.com/news/2010/apr/01/helicopters-to-hell/ 2012年12月29日閲覧。 
  9. ^ Harris, pg. 205.
  10. ^ Mount St. Helens: 1980 Cataclysmic Eruption”. United States Geological Survey (2005年3月28日). 2014年7月15日閲覧。
  11. ^ Thompson, pg. 112.
  12. ^ a b Parchman, pg. 46.
  13. ^ Thompson, pgs. 141–42.
  14. ^ Who We Are and What We Do”. David A. Johnston Cascades Volcano Observatory (2013年8月28日). 2014年7月17日閲覧。
  15. ^ Thompson, pgs. 150–51.
  16. ^ a b c d Thompson, pg. 151.
  17. ^ Thompson, pgs. 151–152.
  18. ^ a b c d e Thompson, pg. 152.
  19. ^ a b c d Thompson, pg. 153.
  20. ^ a b c d e f Major, Jon (2006年9月). “Preface-Rockslide-debris Avalanche of May 18, 1980, Mount St. Helens Volcano, Washington”. United States Geological Survey. 2012年1月29日閲覧。
  21. ^ Thompson, pgs. 153–54.
  22. ^ a b “Japan”. The Gainesville Sun (Doughton, James E.). (1991年6月4日) 
  23. ^ Talmadge, Eric (1991年6月2日). “12 Dead as Japan Volcano Erupts Again”. The Day (The Day Publishing Company): p. A3. http://news.google.com/newspapers?nid=1915&dat=19910602&id=9e4gAAAAIBAJ&sjid=unIFAAAAIBAJ&pg=4763,538586 2014年5月9日閲覧。 
  24. ^ a b “Geologist loved his work”. The Register-Guard (Baker, Alton F. "Tony" III). (1991年6月7日). http://news.google.com/newspapers?nid=1310&dat=19910607&id=FFVWAAAAIBAJ&sjid=-esDAAAAIBAJ&pg=4581,1478174 2014年7月15日閲覧。 
  25. ^ National Science Foundation. “Awards Search”. 2013年11月30日閲覧。
  26. ^ a b “Brother Missing”. The Bulletin (Western Communications). (1991年6月5日) 
  27. ^ Talmadge, Eric (1991年6月9日). “More Bodies Still Line Volcano Slopes”. Hendersonville Times-News 
  28. ^ Thompson, pg. 154.
  29. ^ Sanger, David E. (1991年6月4日). “Volcano Erupts After Months of Sporadic Activity”. Star-News Vol. 124 (200): p. 1. http://news.google.com/newspapers?nid=1454&dat=19910604&id=QwEyAAAAIBAJ&sjid=dBQEAAAAIBAJ&pg=5893,1297120 
  30. ^ Parchman, pg. 359.
  31. ^ a b c Lopes, pg. 44.
  32. ^ Fisher, pg. 98.
  33. ^ a b Unzendake: Bulletin Reports”. Global Volcanism Program (2013年). 2014年7月22日閲覧。
  34. ^ Lopes, pg. 43.
  35. ^ Fisher, pg. 99.
  36. ^ Glicken, pg. 1.
  37. ^ Glicken, pgs. 74–79.
  38. ^ Russell, Ron (1991年6月25日). “In Pursuit of Deadly Volcanoes”. Los Angeles Times (Hartenstein, Eddy) 
  39. ^ Graduate Student Awards”. University of California, Santa Barbara (2014年). 2014年7月15日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]