ハドソン・ロー

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サー・ハドソン・ローとその署名

サー・ハドソン・ロー(Sir Hudson Lowe、1769年7月28日 - 1844年1月10日)は、アイルランド出身のイギリスの軍人で植民地行政官(colonial administrator)である。セントヘレナの総督(Governor)を務め、同地でナポレオン・ボナパルトの「看守」("gaoler")であったことで有名である。

前半生[編集]

軍外科医ジョン・ロー(John Lowe)の息子として、母の母国であるアイルランドのゴールウェイで生まれた。子供時代は、特に西インドのさまざまな駐屯の町で過ごしたが、おもにイングランド、ソールズベリーグラマースクールで教育を受けた[1]。11歳のとき、東デヴォン市民軍(East Devon Militia)の旗手という地位を手に入れた。1787年、父の連隊である歩兵第50連隊(the 50th Foot)に入隊した。これは当時、総督(Governor-General)チャールズ・オハラ(Charles O'Hara)の下、ジブラルタルで軍務についていた。1791年に中尉(Lieutenant)に昇進した。その年、彼は18ヶ月の賜暇を与えられ、そして英国にもどるよりもイタリアを旅行して過ごすことを選んだ。フランス革命が勃発したばかりであり、フランスに旅行することは避けた[2]

コルシカ[編集]

ローは、1793年前半に英国とフランスのあいだの戦争の勃発ののちまもなく、ジブラルタルに帰還した。第50連隊は、サミュエル・フッドの指揮する連合軍によって捕えられていたトゥーロンの防衛に参加するように送られた。連合軍がその都市からすでに撤退していたので、第50連隊は防衛を援助するには到着があまりに遅すぎた。 彼らはそれから、フランス所有の島コルシカに転送された。同地には英国軍が、パスカル・パオリがひきいるコルシカ人の支援のために派遣されていた。

ローの連隊は、フランス人を島から追い出すバスティア攻囲戦およびカルヴィ攻囲戦の間中、ダンダス将軍(General Dundas)の戦力の一部として軍務についた。連隊はバスティアに駐屯していた。ローは、イタリアのリヴォルノに行って兵站を維持することを志願したが、その道中、マラリアで死にかかった[3]

ローは健康を回復した後にコルシカへもどり、ボナパルトの姉妹らがフランス本土に逃げる前に住んでいた場所の近くに、統治者ウォーカプ大佐(Governor Colonel Wauchope)の副官としてアジャクシオの城塞に配置させられた[4]。1796年10月にコルシカの放棄が決まり、アジャクシオの軍勢は乗船させられ、エルバ島へ移された。翌年にエルバも捨てられ、ローは連隊とともに、まずジブラルタルに、ついでリスボンに撤退させられた。彼は次の2年間を、フランスとスペインの軍による侵略を抑止するために置かれた英国軍勢の一部としてすごした。

ローはのちにエルバ、ポルトガル、そしてメノルカと連続して実務につき、英国陸軍内のコルシカ追放者の義勇兵の大隊、王立コルシカ・レンジャー(Royal Corsican Rangers)の指揮を託された。コルシカにおいて彼はカーサ・ボナパルト(Casa Buonaparte)に実際に宿泊した。1800年から1801年まで、エジプトでコルシカ・レンジャーをひきいた。

家族[編集]

ローは1816年12月16日にミセス・スーザン・ジョンストン(Mrs. Susan Johnston)と結婚したが、彼女はサー・ウィリアム・ハウ・ディランシー(Sir William Howe DeLancey)の娘であり、ウィリアム・ジョンストン大佐(Colonel William Johnston)の未亡人であった。2人は3人の子をもうけた。息子2人のうちハドソン(Hudson)は1816年に、エドワード・ウィリアム・ハウ・ドゥ・ランシー・ロー(Edward William Howe de Lancey Lowe)は1820年に、娘クララ・マリア・スザンナ・ロー(Clara Maria Susanna Lowe)は1818年8月26日に生まれた。レディー・ローは、1832年8月22日にロンドン、メーフェア(Mayfair)、ハートフォード・ストリート(Hertford Street)で死亡した[5][6]

ナポレオン戦争[編集]

アミアンの和約ののち、今や少佐であるローは、補給局副局長(assistant quartermaster-general)となった。しかし、1803年のフランスとの戦争の再開に際して、彼は中佐(lieutenant-colonel)として、コルシカの大隊をふたたび徴集するように命じられ、そしてそれとともにシチリアの防衛に加わった。カプリの捕獲に際しては、自分の大隊およびマルタの連隊とともにそこに進んだ。しかし1808年10月、ジョアシャン・ミュラが島への攻撃を命令し、島はジャン・マクシミリアン・ラマルク(Jean Maximilien Lamarque)によって組織化されていた。ローは、マルタの軍勢の信頼できないことと、海からの助力を利用することが出来ないことのために、島から撤退することに同意しなければならなかった。サー・ウィリアム・ネーピア(Sir William Napier)は彼を批判したが、しかし彼の守備隊はわずか1362人であり、一方で襲撃者は3000ないし4000人であった。

1809年の間、ローと彼のコルシカ人らは、ザキントス、ケファロニアおよびキティラのみならず、イスキア(Ischia)とプローチダの捕獲を手伝った。数ヶ月間、彼はケファロニアおよびイタキの統治者(governor)を、そしてのちにレフカダの統治者をつとめた。彼は1812年に英国に戻り、そして1813年1月に、当時形成されつつあったロシア=ドイツ軍勢(a Russo-German legion)を査閲するように送られ、そして彼は1813年と1814年の作戦をつうじて同盟軍に同伴し、13の重要な戦闘に臨んだ。彼はブリュッヘルグナイゼナウから賞賛をかちえた。彼は、1814年4月のナポレオンの最初の退位の報せをロンドンに伝えるために選ばれた。

彼はナイトを授けられ、そして少将(major-general)に昇進した。そしてロシアおよびプロイセンの宮廷からも勲章を受けた。1814年から1815年にオランダにおける陸軍の補給局長(quartermaster-general of the army)の任務を負わせられて、彼はジェノヴァにおける英国軍の指揮を提供されたとき、ベルギー作戦に参加しようとしていた。しかし、まだフランス南部にいるあいだに、彼はナポレオン1世の保護者(custodian)の地位への任命の報せを受けた(1815年8月1日)。ナポレオン1世はロシュフォール (シャラント=マリティーム県)沖でベレロフォン (戦列艦)に屈服していた。ローは皇帝の追放の地、セントヘレナの統治者(governor)になるるはずであった。

セント・ヘレナ[編集]

プランテーション・ハウスに到着するや、彼は、ナポレオンはコックバーン提督とは不安定な関係にあるとわかり、コックバーンはセントヘレナまでの海路、ナポレオンとともにセントヘレナに来て、そして新しい統治者(Governor)の到着まで彼を託されていた。ナポレオンとローは嵐のような関係で、そしてわずか6たびしか会わなかった。ローの両手はロード・バサースト(Lord Bathurst)の命令によっておおいに縛られていたが、しかし彼の機転のきかなさが、彼らのあいだの避けられない摩擦を激化させた。

救援隊が合衆国内におけるボナパルティストらによって計画されつつあるという報せは、1816年10月の厳格な規則の執行につながった。ローは、午後9時にではなく日没時にナポレオンの邸宅、ロングウッド・ハウスの庭園じゅうに歩哨を立てるように命令した。彼は、ある英国官吏に、毎日、皇帝を見つける仕事を課した。ローはささいな規則をひとくみ作り、その規則のなかには、ナポレオンをロングウッド所有地に制限することと英国人はナポレオンにしかるべき称号でではなくただ将軍(General)とのみ呼びかけることがふくまれていた。彼は、ナポレオンが監禁のぶんの支払いをすることを要求し、そのためにナポレオンは皇帝の銀器を売りに出した。このことはヨーロッパにおいてあまりの反感を引き起こしたために、要求は取り消されざるをえなかった。彼はじゅうぶんなたきぎを供給するのを断った。ナポレオンがもとのようにあたたかく過ごすために家具を燃やしているという報せは、公衆の共感のあまりの巻き返しを引き起こしたため、たきぎの供給は復旧した。

こういうことその他すべては、ナポレオンとその追随者たちはローに対する反対運動をおこなった。アイルランドの外科医バリー・エドワード・オメアラ(Barry Edward O'Meara)は、さいしょはローに情報を提供し、さいごにはナポレオンに味方し、そしてラス・カサス(Las Cases)およびモントロン(Montholon)からの批判にくわわった。 フランスの、ロシアの、そしてオーストリアの、セントヘレナにいる委員らは、ナポレオンに敵意を抱くいっぽうで、またローの行動にたいへん批判的で、彼とともにやっていくのは不可能であると考えた。そのうえ、現代の学者らは、ナポレオンの死におけるローの役割を討論している。たしかに地所としてのロングウッドの選択は、良いものであったが、しかしナポレオンの精神的な、そして肉体的な健康にはみじめなものであった。ローの、ナポレオンの自宅監禁同然の制限は、ナポレオンの運動と健康全般に影響をおよぼした。ナポレオンの毛髪のなかのヒ素の発見は、ナポレオンが英国の監視のもとで毒を盛られたという説を生き返らせた。その濃度は、ヒ素がときおり摂取されたことを示している。ベン・ウィーダー(Ben Weider)の書籍『 Assassination at St. Helena 』および『 Assassination at St. Helena Revisited 』は、英国人らは、ナポレオンを健康なままでいさせる強い動機があり、他の人々(とくにブルボン王朝)はナポレオンを殺すより強い動機があったという主張をしている。これらの書籍は、ナポレオンの取り巻きの1人、シャルル=トリスタン・ド・モントロンが彼に毒を盛ったという説を提示した。

1821年5月のナポレオンの死ののち、ローは、イングランドに帰った。オメアラの書籍が刊行されるにさいして、ローは、著者を訴追する決心であったが、しかし、彼の手続きは遅すぎた。しかしオメアラの書籍は、医師がローについて、そしてセントヘレナにおける「死刑執行人」("executioner")という彼の役割についてじっさいに考えたことよりも、彼に対してたいしてより寛大であった。これは、彼が海軍本部のある事務官にひそかに送った手紙から漏れているものである。[7]

接見でのジョージ4世の感謝を別にすれば、彼は、その命令に文字どおりに従った英国政府からはほとんど報酬を受けなかった。彼のナポレオンにたいする待遇と英国政府のその後の公衆関係問題は、彼の経歴の終わりまで根底に横たわったままであった。初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーは、のちにこのように言った、彼は「まずい選択であった。彼は教育と判断に欠けていた。彼は愚かな男で、世間のことをまったく何も知らず、世間のことを何も知らないすべての男のように彼は疑い深く、そして嫉妬深かった。」[8]

1825年から1830年まで、彼はセイロンにある軍勢を指揮したが、しかし1830年に司令官(governorship)が空席になったとき、任命されなかった。彼は1831年に第56歩兵連隊の大佐(colonelcy)に任命され、1842年にもとの第50歩兵連隊の大佐(colonelcy)に転任させられた。彼はまた聖マイケル・聖ジョージ勲章を受章した。ローは、1844年1月10日、麻痺(paralyxis)のために、チェルシー(Chelsea)、スローン・ストリート(Sloane Street)近くの、シャーロット・コテージ(Charlotte Cottage)で、75歳で、死亡した。[5]

映画に登場するハドソン・ロー[編集]

サー・ハドソン・ローは、次のような俳優、映画で演じられた。

脚注[編集]

  1. ^ Gregory p.17-18
  2. ^ Gregory p.18-19
  3. ^ Gregory p.19-22
  4. ^ Gregory p.22
  5. ^ a b  Lowe, Hudson”. Dictionary of National Biography. London: Smith, Elder & Co. (1885–1900) 
  6. ^ http://www.familysearch.org/eng/search/customsearchresults.asp?LDS=1&region=13&fathers_first_name=hudson&fathers_last_name=lowe&mothers_first_name=susan&date_range=0&date_range_index=0
  7. ^ Barry O'Meara's clandestine letters Albert Benhamou, 2012
  8. ^ Lord Rosebery, Napoleon: The Last Phase, 1900, pp. 68–69.
  • Obit
  • Archibald Primrose, 5th Earl of Rosebery, Napoleon: The Last Phase, London 1900.

伝記[編集]

  • Gregory, Desmond. Napoleon's Jailer: Lt. General Sir Hudson Lowe: A Life. Associated University Presses, 1996.

読書案内[編集]

  • Gilbert Martineau, Napoleon's St Helena (1968)
  • Kitching, G. C. (July 1948). “Sir Hudson Lowe and the East India Company”. The English Historical Review (Oxford University Press) 63 (248): 322–341. JSTOR 555342. 

外部リンク[編集]

 この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed (1911). Encyclopædia Britannica (11 ed.). Cambridge University Press.