ハク奇

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はくき
各種表記
ハングル 백가
漢字 [* 1]
発音:
日本語読み: はくき
ローマ字 Baek Gi
マッキューン・ライシャワー式 Paek Ki
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[* 1](はくき、백기(ペキ)、生没年未詳)は、百済武王の時の将軍で、大姓八族中の[* 1]出身貴族である[1]

生涯[編集]

達率を務めた。

602年(武王3年)8月、武王が親しく新羅阿莫山城(今の全羅北道南原市雲峰邑)を攻囲したが、新羅の真平王は精鋭数千騎を送って抵抗してこれと闘ったため、不利となり撤退した。新羅は、新たに小陁・畏石・泉山・甕岑など4城を築いて百済との境界に迫り侵したため、武王は怒って佐平解讎に命じ、また4万の大軍を連れ、その新築の4城を攻撃したが、解讎だけが命からがら単騎で逃げおおせた程度の惨敗を喫した[2]

14年後である616年(武王17年)10月、再び新羅の阿莫山城を攻撃しようとする武王の王命を受け、苩奇は達率として軍士8000名を率い、阿莫山城[* 2]を攻撃した[2]。が、やはり勝つことができず、戻ってきた[* 3]

注解[編集]

  1. ^ a b c 草冠「艹」に「」。
  2. ^ 百済本紀の本文には母山城と記されているが、阿莫山城と同じ城である。
  3. ^ この記録は、百済本紀でなくて新羅本紀にあるのだが、二つとも勝敗に関した言及がないのに鑑みて、百済が攻略に失敗したようである。[要出典]

脚注[編集]