ノート:項羽

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ノート:項籍から転送)

垓下の戦いの記載について[編集]

垓下の戦い劉邦側の兵士数は、ひょっとして韓信の項目からのパクリですか?故意なのか、偶然なのか、「60万とも100万とも言われる」と書かれていますけど…。時期的には、韓信の項目の方が早くに書かれているのですが…。----以上の署名のないコメントは、202.254.199.33会話/Whois)さんが 2004年3月3日 (水) 06:04‎ に投稿したものです(Miraburu会話 / 投稿記録による付記)。

  • 初版を書いた者ですが、書かれてあるページを参考にした事はありません。そちらのページがWIKIから文章を持って行ったと思われます。ちなみに「60万とも100万とも言われる」というのは韓信から持ってきました。らりた 14:28 2004年3月15日 (UTC)
  • 申し訳ありません。私も執筆者がらりたさんであることに気付いて、相手サイトの方が更新が後ではないかと更新履歴などを探していました。結局更新履歴などは見つからなかったのですが、あちらのページは他にも転載が散見されますので客観的に見てもあちらがウィキペディアの文章を持っていったように見えます。私の早とちりでした。すみません。Tsk 14:48 2004年3月15日 (UTC)
202.254.199.33さん、ウィキペディア内ページ間でパクリ等の表現をされるのは穏やかではありませんね(^^;
らりたさん、Tskさん、「書かれてあるページ」「相手サイト」とは、どこのことでしょうか? 参考までに教えていただけますと幸いです。
- Gombe 10:42 2004年3月31日 (UTC)
[1]の版に書かれているページです。らりた 12:59 2004年3月31日 (UTC)
なるほど、202.254.199.33さんが外部サイトを何かご指摘だったわけではないのですね。了解しました。
そのサイトを私も見てみましたが、「いろんな資料を集めてきてクイズの解説に使っている」という風に見受けられるので、情報の方向性は確かにウィキからこのサイトへと出ていったと見るのが普通だと思います。
あと、202.254.199.33さんは「相手サイト」とは韓信のことだと思ってしまわれたようですね。 - Gombe 17:56 2004年3月31日 (UTC)

文章中の「」部分の訳が気になります。[編集]

『史記』の記述と離れている点が少々あり、史料に近いように訳しました。

漢文はあった方が良いような気がするのですが・・・。[編集]

漢文は自分で訳したので、読み方が間違っている可能性があるので、 載せて欲しいのですが、もどしても構いませんか?

たとえば、載初の項羽の兵学についての所は読み手によって、二つの解釈ができますし、此処に都を構えましょうという所も、漢文と訳ではどうしてもギャップが生じます。

正確に伝える為には2カ国語でも仕方がないとおもうのですが、どうでしょう。


はじめまして。おじゃまします。 上の書き込みは「Hamyuhamyu」さんでしょうか?おっしゃることはもっともだと思いますし、正式に勉強なさっている方のようなので、漢文の誤訳はガマンができないのだと思います。

しかし、百科事典というのは、たとえば「項羽って何した人だったかな?」という程度の興味で見られることもあるものだと思います。あまりに専門的で逐語訳的な内容が書いてあったのでは敷居が高くなるばかりで、せっかく興味を持って、ひょっとしたらその後研究者などになってくれるかもしれない人を振り落としてしまうのではないかと愚考します。正確に伝えようとするのはもちろん必要ですし大事なことですが、それが細部へのこだわりになって全体が散漫になるのは避けた方がいいと思います。

特にこの項目について私がこれ以上編集することはしませんが、こういう考え方もあるということを頭の片隅に留めておいてくだされば幸いです。(私はついに専門的な学習が出来なかった人間なので、どうしてもダイジェスト的な発想をしてしまうのです…) 出過ぎたことを申したかもしれません。失礼しました。

追記:細かいことを言うようですが…「鬼神の如き強さ」を「鬼神の強さ」に直されていますが、慣用的に使うなら前者で問題ないと思います。それとも項羽本紀にそういう記述があるのでしょうか。 --てら1971 2007年10月12日 (金) 03:48 (UTC)[返信]

漢文が間違っているかどうかは、他の編集者がそれぞれ原文を見て判断すればよいと思いますよ。Wikiで直接見る記事としては、漢文まで載せるのは特に有名な一節であるとか、読み方を一つに断定できないものなどに限っておくべきだと思いますがいかがでしょう。気になる部分があるなら、ノートに原文を記しておいて解説なり議論なりするほうがスッキリしませんか?--てぃーえす 2007年10月13日 (土) 05:39 (UTC)[返信]

私も漢文をつけるのは例えば故事成語になっているとか、あるいは漢詩であるとかそういった部分のみにした方が良いと思います。付けるならば脚注でした方が良いのではと。らりた 2007年10月13日 (土) 14:08 (UTC)[返信]

確かに、注釈をつけて読む人に訳を任せるのが良いような気がしました。ちなみに鬼神の如きの件は私が以前のに戻した際に代わってしまったようです。直しておきますね。ただ、項羽についてはちゃんと史料があるのに、それを使わないために間違った情報が記されるのにいらだちを感じます。史記は小川環樹の訳本がありますし、敷居は十分に低いはずです(もっともそれをそのまま記すことは出来ませんが、小説を基にしるすよりはずっと良いはずです)。

Hamyuhamyu 2007年10月17日 (水) 03:08 (UTC)[返信]

>間違った情報が記されるのにいらだちを感じます
その間違った情報(誤った訳)をしていたのは他ならぬ私ですので汗顔の至りです。ただウィキペディアにおけるそういった誤りは地道に修正していくほかは無いと思っていますので、Hamyuhamyuさんも気長にお付き合いお願いいたします。また私がトンチンカンなことをした場合は(もちろん他の方がされた場合も)ご指摘やご叱責をいただけると嬉しく思います。らりた 2007年10月17日 (水) 11:36 (UTC)[返信]

らりたさんへ いえいえ、独善的な意見を記して反省しております。これからもよろしくお願いします。 Hamyuhamyu 2007年10月26日 (金) 17:56 (UTC)[返信]

垓下での兵士数について[編集]

以下史記の記述です。 史記/本紀/卷八 高祖本紀第八 五年,高祖與諸侯兵共擊楚軍,與項羽決勝垓下.淮陰侯將三十萬自當之,孔將軍居左,費將軍居右,皇帝在後,絳侯、柴將軍在皇帝後.項羽之卒可十萬.淮陰先合,不利,卻.孔將軍、費將軍縱,楚兵不利,淮陰侯復乘之,大敗垓下.

垓下での兵士数で史記に記されるのは此のみですので、淮陰侯・韓信の兵士数が30万、対する項羽の軍が10万の情報のみ今に伝わっています。韓信が30万なら全体で60-100と推測するできますが、ここではなにも書かない方が良いかもしれません。2007/2/1

記事名について[編集]

初めに項籍で記事を立てたのは私ですが、やはり記事名は項羽の方が良いですかね?ちょっと待って反対が無いなら実行しますね。らりた 2007年5月26日 (土) 13:37 (UTC)[返信]

  • 相方の劉邦は姓名で書かれているので、項籍に一票を入れたいと思います。もしくは、今でも転送になっていますが、転送画面を作って「項籍の条をみよ」にしては如何でしょう?--Hamyuhamyu 2007年5月28日 (月) 15:49‎ (UTC)[返信]
  • 項籍に一票を入れたいと思います。記事中では項羽で統一されていますので十分に分かりやすいですし、最初読んだとき項籍が本当の名前だというのは新鮮な発見でした。--Kuro-hato 2007年5月28日 (月) 17:41 (UTC)[返信]
  • ちょっと調べてみました。正史(史記・三国志など)の中で本紀や列伝の題名として記されている人物は、なるべく題名の名前で記すのが百科事典のルールみたいです。そうすると、項籍は項羽本紀になっているので「項羽」に改名したほうが良いかもしれません。よって、劉邦も他の辞典では「高祖(漢)」で記してあります=高祖本紀があるため(参照・ブリタニカ百科事典、平凡社など)。諸葛亮は『三國志』に蜀書五/諸葛亮で記されているので、諸葛亮になっているみたいです。ここらへんは伝統になる見たいですね・・・。--Hamyuhamyu 2007年5月30日 (水) 01:48‎ (UTC)[返信]
  • 本家の中国語版ではzh:项羽zh:刘邦(=劉邦)ですね、検索をかけてくる人はほとんどが項羽だろうと考えると、移動したほうがちょっといいかな、という気はします。なお諸葛亮はHamyuhamyuさんご指摘のように史書では諸葛亮ですし、また漢文学について触れるときには諸葛亮と紹介されるように思います。--Aphaia 2007年5月30日 (水) 01:57 (UTC)[返信]
  • ノート:李淵にて、開祖は本名を記事名にしようということになりました。もちろんこのノートだけで話し合われたことですので強制力がある訳ではないですが、「劉邦」と「高祖 (漢)」であればやはり劉邦の方がよく使われていると思うので、劉邦は劉邦で良いのではないでしょうか。諸葛亮も諸葛孔明も両方とも良く使われる表記ですので、どちらを選ぶかといえば姓+諱だろうと思います。ただ項羽と項籍の場合は項羽が圧倒的に使われる表記だろうなと思ったので、変えたほうが良いかなと思ったのですが。項籍で良いと言われる方もいるので無理に変えなくても良いかなとも思います。らりた 2007年5月30日 (水) 09:13 (UTC)[返信]
  • 一般的に性、字(項羽)で良く聞きます。しかし性、名と表記するのが一般的な気がするのでこのままでいいのではないでしょうか。本文では性、字が使われている様なので知らない方も直ぐに理解できると思いますし。個人的には本文も項籍で統一したい位です。----以上の署名のないコメントは、219.106.52.28会話/Whois)さんが 2007年6月14日 (木) 17:41 に投稿したものです(Miraburu会話 / 投稿記録による付記)。
  • 原則に従えば項籍なのでそちらの方が妥当とも思われますが、定義には「項羽」と呼ばれるのが一般的であることを明記すべきだと思われます。なお、コーエーの解説は(個人的意見としてですが)史料検証が相当甘いと思われる記載(基礎的な史料に当たらないで書かれた記述など)を「信長の野望」関係でいくつも見かけているので信憑性については余り重きを置かない方がいいと思います。--水野白楓 2007年6月25日 (月) 15:26 (UTC)[返信]
  • 一般に知られている程度以上の知識を持たない者です。調べ物の過程で立ち寄りました。個人的な感想ですが、項目名が「項籍」なのに、本文中では「項羽」に統一というのは「百科事典としてちょっとまずいのでは?」と思いました。なぜそのようなダブルスタンダードが起きているのか、このノートを見るまで理解できず混乱してしまったからです。項目名を項籍とするのであれば、本文中も統一した上で「日本では項羽の名で広く知られる」等の但し書きを添える形にしたほうが良いのではないでしょうか?現状のままだと徒に混乱を誘っており、「調べ物の役に立つ」という百科事典の理念から、遠くなってしまっていると思います。
(記事名自体はどちらでも可と思いますので投票は行いません)--竹速 2007年7月8日 (日) 18:56 (UTC)[返信]
  • 私は「項羽」の方がいいと思います。Hamyuhamyuさんと同じく、色々と百科事典を調べてみたのですが、ほとんどのものが、「項羽、名は籍」となっています。やっぱり、ここは皆が知っている方の「項羽」にした方がいい、と思います。---岡崎結依 2007年8月4日 (土) 08:59‎ (UTC)[返信]
  • >本文中を羽に統一することに対して。史記の本文では、籍と羽を逸話によって使い分けています。このさい、エピソードによって使い分けるのは如何でしょう?司馬遷が使い分けているのにはなにかしら意図があるんじゃないかなぁ?なんておもったりもします。
私は「項籍」に賛成です。劉邦は姓名ですから、こちらの方が分かりやすいです。tahaken1993 2007年8月24日 (金) 12:52 (UTC)[返信]

2007年10月17日8時時点(日本時間)での集計(敬称略。誤りがあれば指摘願います。)

  • 項羽 Aphaia、岡崎結依
  • 項籍 Hamyuhamyu、Kuro-hato、Tiyoringo、おっとー、水野白楓、tahaken1993、ねこぱんだ

と項籍が優勢なようなのでこのまま「項籍」をということで決着としたいと思います(なお私自身はどちらでも良いという立場です)。らりた 2007年10月17日 (水) 11:33 (UTC)[返信]

  • (遅ればせながらコメント)
こと項羽については伝統的に字で呼ばれることの方が多く、項目名において姓+諱の原則から離れることも相当の理由があるように考えます。例えば中央研究院(台湾)・漢籍電子文献で二十五史・『史記』・『漢書』のテキストから「項羽」「項籍」を検索したところ、これらの語句を含む段落数はそれぞれ以下の表の通りです。
項羽 項籍
二十五史  344  143
史記

(カッコ内:項羽本紀における「羽」「籍」)

135(39) 53(9)
漢書

(カッコ内:項籍伝における「羽」「籍」)

106(29) 51(8)
この検索結果は単語数ではなく段落数であり、また本文のほか注釈をも対象としているため歴代正史本文における用例の実数を示すものではありません。しかし、二十五史全体においてのみならず『漢書』においてすら「項羽」の用例の数が「項籍」を上回っていることが看取できます。また、「項羽」の語は『史記』から『清史稿』に至るまで見られる一方、「項籍」の語は『宋史』李綱伝における李綱の上奏文を最後に歴代正史からは見られなくなります。さらに、上の議論で比較対象とされた諸葛亮につき、「諸葛亮」「孔明」のキーワードで二十五史を検索するとそれぞれ297段・110段が抽出されます。項羽の場合と異なり諱のほうが歴史的に通用していたことが看取できます。
『史記』『漢書』の両書は優劣関係にないはずであり、『漢書』が「項籍伝」としている一事をもって「項籍」を正当とすることはできないように思われます。むしろ『漢書』ですら「項羽」をより多用しているという事実にこそ着目すべきではないでしょうか。まして「コーエーの『三国志11』に登場した時」の呼称は根拠となり得ません。
なお、Portal‐ノート:歴史#生前使われなかった名の方が周知されている人物の記事名についてでは、学術研究の場で一般化している呼称と世間一般に流布する呼称とのいずれが妥当か、という議論にシフトしています。私見は学術研究の場で一般化した呼称を妥当とする立場ですが、項羽の場合は学界でも世間一般でも「項羽」で通用しているように思われます。
以上の卑見は時機に後れたうしろめたさもあるため改名提案は行いませんが、従前において必ずしも議論が尽くされたようには思われないため、あえてここに記することとしました。将来どなたかが改名提案をなさった場合には改めて投票させて頂きます。--Fish40 2008年10月31日 (金) 17:11 (UTC)[返信]
  • これはやっぱり項羽でいいのではないでしょうか。各国語版はみな項羽になっており、項籍は日本語版だけですし。一次史料だけではなく、その後、歴史的にどう覚えられ、一般的にどう認知されているかも考慮されなくてはいけないと思います。芸能人や君主などで、本名を持ちながら、本名以外のタイトルでページが作られている人物は大勢います。各種研究書や辞典類でも、項籍ではなく、項羽で書かれているでしょう。--希望会話2018年9月27日 (木) 11:44 (UTC)[返信]
  • 私見ですが、項羽と項籍を数で比べるのはあまり公平ではないと思います。『史記』の「項羽本紀」では、項羽や項籍よりも項王表記が多いですよね。『史記』の「項羽本紀」も『漢書』の「項籍伝」も項羽と項籍の使い分けは比較的明確であるように思います。「籍為裨將」となっている部分(項梁が会稽郡守になった時)を境に、前半生では「籍」であり、成人後は「羽」です。すなわち、「項羽本紀」と「項籍伝」の冒頭にある「初起(時)年二十四」が閾値で、数え24歳以降は「羽」がデフォルトのようです。「項羽本紀」ではさらに鴻門の会の途中から恣意的に"項王"表記になります。これはで解説されているように、少年~青年は姓+名、成人後は姓+字、さらにあれば姓+役職/称号の方がよい、という原則に従っているだけのようです。--Askr 2010年4月21日 (水) 18:59 (UTC)[返信]

新安虐殺に付いて[編集]

>この行為がのちに劉邦の項羽討伐への大義名分になった
高祖本紀の広武山での対峙の際に義帝を殺害したこと新安での虐殺を劉邦が非難する場面があります。大義名分となったとは言い切れないかもしれませんが。らりた 2007年8月11日 (土) 09:13 (UTC)[返信]

修正らりた 2007年8月11日 (土) 09:17 (UTC)[返信]

>書かれたのは「らりた」さんでしたか失礼しました。 てっきり推測で他の方が書かれたのかと思っていました。 らりたさんの言う高祖本紀が以下ですね。

楚漢久相持未決,丁壯苦軍旅,老弱罷轉饟.漢王項羽相與臨廣武之閒而語.項羽欲與漢王獨身挑戰.漢王數項羽曰:「始與項羽俱受命懷王,曰先入定關中者王之,項羽負約,[一]王我於蜀漢,罪一.秦項羽矯殺卿子冠軍而自尊,罪二.[二]項羽已救趙,當還報,而擅劫諸侯兵入關,罪三.懷王約入秦無暴掠,項羽燒秦宮室,掘始皇帝�R,私收其財物,罪四.又彊殺秦降王子嬰,罪五.詐阬秦子弟新安二十萬,王其將,罪六.項羽皆王諸將善地,[三]而徙逐故主,[四]令臣下爭叛逆,罪七.項羽出逐義帝彭城,自都之,奪韓王地,并王梁楚,多自予,罪八.項羽使人陰弒義帝江南,罪九.夫為人臣而弒其主,殺已降,為政不平,主約不信,天下所不容,大逆無道,罪十也.吾以義兵從諸侯誅殘賊,使刑餘罪人擊殺項羽,何苦乃與公挑戰!」項羽大怒,伏弩射中漢王.漢王傷匈,乃捫足[五]曰:「虜中吾指!」

これは項羽が一騎打ちを望んで挑発してきたのに対して、劉邦が項羽の十の罪をあげて非難するところです。 たしかに劉邦の言う第五の罪にそれが見えます。失礼しました。

ですが、大義名分としたのは、諸侯に送った檄文と同様の記述が見られる罪の九・十ではないでしょうか。 当時は未だ義帝の家臣という気概が、まず有ったように思われます。それがまずあって、国民の生活があったような気がします。 --Hamyuhamyu 2007年8月31日 (金) 14:44 (UTC)[返信]

項羽の家系について[編集]

項羽の家系について、項一族の家系図『東流 項氏宗譜 一巻』なる書物の「寄彬長子二十七世燕「字叔燕、楚国大将、居下相王陵里、立昌平君、為荊王、以功高封東平君、娶申氏、生子四、 嬰・梁・伯・仲。」」と「燕公長子二十八世嬰「又名英、与弟梁同起兵攻秦、守彭城、娶龍氏、生一子、籍。」」と「嬰公之子二十九世籍「字羽、号西楚覇王、娶虞氏、生一子、隆。」」という記述を持ち出してきているが、これをそのまま信じていいのでしょうか?(項燕の項目でも同じものを引っ張ってきている) 特に『東流 項氏宗譜 一巻』という書物の来歴・性格、資料的価値がどんなものなのか全く不明です。 一部、朱熹の著作と書いてありますが、それも本当なのか詳しく知りたいところです。 仮に朱熹の著となるものであっても、既に項籍が生きていた時代から1200年の時の隔たりがあるにもかかわらず、また、『史記』・『漢書』にさえ情報がないのに、1000年以上経ってから書かれるというのも著しく合理性を欠いているとはいえないでしょうか。 恐らく、唐の李氏が自らの先祖を秦の李信としたり、三国時代の孫堅が春秋時代の呉の孫武の後裔であると称したことと同様のことだろうと私は思います。 ただ、専門家ではないので、宋代の資料等についてよく知っている人がいれば、ぜひ検討してもらいたいと思います。 ちなみに、中国語版ではこのようなことは書いていません(『項氏宗譜』は信用できないから?) Hamham 4/1

評価について[編集]

この項目の評価について、かなりの疑問点がありました。

まず、出典が明示されない主観的と思える意見が多々見られます。

>このように項羽と劉邦は様々な点で対照的な面を見せたが、劉邦が項羽に対して対照的であろうとしたという説もある。

>項羽に対して秦は激しく抵抗し、その間、秦軍を降伏させて進軍を早めた劉邦が先に咸陽一番乗りを果たしている。

>事跡から想像できる項羽の性格は、かなり子供っぽいものと言える。

>(前略)答えたという逸話は、項羽の性格をよく表している。

>項羽の性格は、天下を治めるには不適格だった。

と言った記述です。

これは、ウィキペディアの内容に関する三大方針である「Wikipedia:中立的な観点」及び「Wikipedia:独自研究は載せない」から、好ましくないと思われます。少なくとも、「史記」や「漢書」の記述からはここまでのことを断言できません。出典を明示されない場合は、中立的な観点による「意見を事実として記さない」原則が守られていないことになります。

また、「史記」や「漢書」には一切無いと思われる記述もあります。

>項羽は(中略)、部下に対して(中略)、激しく詰ることも多かった。

>特に部下と女子との扱いが極端に違っていたこともあり、

>ある時あまり敵兵が抵抗せずに城を落とせた為兵士が弱い(或いは敵兵が強く抵抗したことで自分を主と認めない)と怒って城兵を含む住民を皆殺しにしようとした

これは何が根拠でしょうか? 項羽が怒鳴りつけると千人の男がひれ伏すとすると同時に、部下をいたわり愛しむ性格であることは韓信も認めています。また、外黄の十五歳以上男子を生き埋めにしようとしましたが、皆殺しではありませんし、項羽は怒った理由は史記や漢書には明示されていません。根拠が無い記事は、全体の信用性を大きく落とすものです。

さらに、出典も明示されていないのに、そこまで断言してよいのか、主観的ではないのかと思える記述がいくつもあります。

>こうした苛烈さは、秦滅亡後に起きた斉の離反を鎮圧できずに劉邦に東進を許してしまう原因にもなった。

>戦闘以外の場所では捕虜を虐殺したりするなどの悪行が目立った。

>その性格から数々の将軍・策士が項羽から離れる結果となった。

>論功行賞ではなく項羽と仲が良いかどうかによっており、数々の反乱を生む要因となった。

と言った記述です。参考文献としてあげられている佐竹靖彦、『項羽』では疑問が持たれている部分もあります。

他にも、三国志演義にしかないはずの「小覇王」と呼ばれた孫策を例示にしており、評価に含めるには相応しくはありません。

全体的に史記だけではなく、小説や歴史記事などを含めて読んだ執筆者の主観による結論から、項羽の評価を定めている印象を受けます。

そのため、一部を改変するのではなく、出典が存在する部分と事実と確認できる部分以外は全て外す形とし、全面的に評価の内容を改変しています。

まずは基本資料である史記にある司馬遷の評価を記載し、同時代の人物である韓信・陳平随何は項羽の美点と欠点を伝えており、これも掲載しています。続いて、新釈漢文大系「史記」の項羽本紀の末尾に記載された項羽の本紀が立てられていることも是非にかかる論を掲載しています。さらに、同じく新釈漢文大系「史記」の項羽本紀の末尾にある漢文学者の吉田賢抗の評価、項羽に関する専著のある、永田英正佐竹靖彦の評価を記載しています。

ご意見がありましたら、お願いします。--Mamme会話2019年3月3日 (日) 15:20 (UTC)[返信]

冒頭について[編集]

「当初は圧倒的に優勢であったが、人心を得ず」とありましたが、人心については項羽の敗北の理由として様々な要因の一つであり、代表的なものとして見なすのは不適当と考え、削除しました。

ご意見ありましたら、お願いします。--Mamme会話2019年3月30日 (土) 18:33 (UTC)[返信]

生涯について[編集]

挙兵まで[編集]

  • 「項羽は両親を早くに亡くしたため、」とありましたが、『史記 項羽本紀』によると、父はともかく、母まで亡くしていたかは定かではないので、削除しています。史記会注考証による注釈は、
  • 「何焯曰,漢書藝文志兵法形勢中,有項王一篇,而黥布置陣如項籍軍,高祖望而惡之,蓋治兵置陣,是其所長故能力戰摧鋒,而不足於權謀,故其後往來奔命,卒爲人乘其罷而踣之,所謂略知其意而不竟者也」を「項羽の兵法は『漢書』藝文志に「項王一巻」とあり、後世に伝わったが、現存はしていない。清の何焯は「項羽の兵法に依って陣立てした黥布の陣立てを見た劉邦が、『あれは突撃して敵を破るのに適しているだけの陣だ。権謀の策はまるで駄目な陣形だ』と酷評にしたという話があるので、項羽は兵法をおそらく最後までやらなかったのだろう。だから劉邦に翻弄されて滅んでしまったのだ」と論じている。」となっていましたが、佐竹靖彦『項羽』82頁によると、史記会注考証の著者・滝川亀太郎の意見であり、何焯は『史記』黥布列伝を一部引用しただけです。そのため、注釈を分けた上で、現在の翻訳に変更しております。

反秦軍[編集]

  • 「項梁は秦嘉に帰順を促したが、秦嘉はこれを拒否した。」とありましたが、『史記 項羽本紀』によると、項梁が秦嘉に帰順を促した事実はないようです。そのため、削除しています。
  • 「項梁は項羽と英布に命じて、襄城を攻めて秦嘉を討ち取り、降伏した城兵を生き埋めにして凱旋した」とありましたが、『史記 項羽本紀』によると、秦嘉は胡陵で、項梁と戦い、戦死しています。項羽が襄城を攻めていますが、秦嘉の勢力か定かではないので、秦嘉関係は全て削除しています。
  • 「このとき、項梁の戦死を恨んだ項羽は、章邯が居城としていたが既に去っていた定陶城の住民を皆殺しにしている」とありましたが、『史記』ではそういった内容を確認できませんでしたので、削除しています。
  • 「項羽は進軍すべきと宋義に直訴したが「秦が趙との戦いで疲弊したところを打ち破る」と言う宋義に納得できなかった項羽は彼を殺害し、実質的な楚軍の総大将となった。」とありましたが、言葉足らずと考え、『史記 項羽本紀』にて補っています。
  • 注釈において、「佐竹靖彦の著書『項羽』によれば、章邯の秦軍は項羽と戦う前から10万単位の兵を失っていたそうである。」と確認したところ、そのような記述は確認できませんでしたので、削除しています。
  • 別項目「鉅鹿の戦い」において、詳細な内容が分かりますので、重複する文章を一部削除しています。
  • 注釈において、「また、渡邉義浩は『三国志演義』が兵数を大抵10倍水増ししている事を受けて、「どの時代もそんなものだった」としている。例えば『三国志』の国淵伝にもある通り、魏晋南北朝時代における曹魏の敵の兵力は10倍誇張されていた。」とありましたが、「Wikipedia:独自研究は載せない」の観点から、特記して、この部分のみにいれる記述ではないと思われますので、削除しています。
  • 函谷関において、劉邦軍に項羽が進軍を止められたことについて、「功績を横取りされたと感じた項羽は大いに怒り、劉邦を攻め殺そうとした。」とありますが、「史記」の記述から見ても、項羽が怒った理由は劉邦が関中に先に入ったからだけではなく、函谷関から進むことを劉邦の軍に止められたからです。そのため、内容を変更しています。

西楚の覇王[編集]

  • 「子嬰一族を皆殺し」とありましたが、その可能性はあるとは思われますが、『史記』では子嬰を殺したとだけありますので、内容を変更しています。(この部分については、『史記 始皇本紀』にその記述はありました。申し訳ございません。--Mamme会話2020年1月6日 (月) 11:37 (UTC)[返信]
  • 「退出した論客は「人は『楚人とは沐猴(獼猴。猿の一種)が冠をつけているのと同じ(楚人沐猴而冠耳)』と申すが、まさにその通りである」と呟いたために、これを聞いた楚の衛兵は、項羽にこのことを報告した」とありましたが、『史記』ではこれを聞いた人物と報告した人物が明確ではありません。そのため、内容を変更しています。
  • 「項羽のこの行為に諸侯は異論を唱えることができず、」とありましたが、諸侯は同意しており、必ずしも全員が不満を持っていたわけではないと考えられます。『史記』にもないため、この部分は削除します。
  • また、「項羽はそのまま故郷に錦を飾るために楚の彭城(現在の江蘇省徐州市銅山区)を都と定めた。」とありましたが、『故郷に錦を飾るため』とはあくまで項羽の発言であり、本来の目的とは異なる可能性があります。項羽の発言として記載しています。
  • 「楚へ帰ると自ら「西楚の覇王」と名乗り、諸侯を対象に大規模な封建を行うが、」とありましたが、項羽が封建を行った場所は、関中にある戯水です。そのため、内容を改めています。また、彭城を都と定めた時と「西楚の覇王」と名乗った時が史記と違うため、こちらも内容を改めています。
  • 「その基準となったのは功績ではなく、項羽との関係が良好か否かであった。故に、ろくに手柄を立てなかったものが優遇されたり、逆に、咸陽に一番乗りして秦を滅亡させた劉邦が冷遇されて漢中に左遷されるなど、不公平なものとなり、諸侯の多くに大きな不満を抱かせるものとなった。」とありましたが、劉邦や関中入りに同行しなかった諸侯の多くの不満があったことは間違いないでしょうが、『史記』にも、「秦を滅ぼすことに功績のあった諸将を王侯に任じた」とあります。また、関中で同意を行った諸侯の多くは、支持をしていたと考えられます。人物の発言ならともかく、このように項羽の封建全体を判断するのは、主観的過ぎると感じます。特に、『ろくに手柄を立てなかったものが優遇された』とは何を以てそう判断したのでしょうか? 明確に断言できる記述は確認できません。劉邦については、項羽ら諸侯と交渉も行わず、函谷関に兵を置いて進軍を止めたことも『史記』には記載されています。そのため、類似の論説を行っている永田英正、『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』からの引用による注釈で説明を行っています。
  • 「傀儡のはずが自立を模索し自分に指示するようになった義帝の処遇に困り、」「このことによって倫理的に大逆の汚名を負うことになり、人望を失い劉邦に自分を討つ大義名分を与えてしまった。」とありましたが、『史記』に記載されておらず、出典が記載されていません。これも、類似の論説を永田英正、『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』からの引用による注釈で説明を行っています。

楚漢戦争[編集]

  • 紀元前206年」とありましたが、ここに年数をいれると歳を越してから、田栄が反乱したような誤解を与えかねないことから、適切とは言えないと考え、外しています。
  • 「義帝の殺害を知った「漢王」劉邦は大義名分を得て蜂起し、諸侯へ項羽への反乱を呼びかける。」とありましたが、劉邦の挙兵は、義帝の死より先に行われています。そのため、内容を改変しています。また、項羽は覇王に過ぎず、諸侯は臣下と言えるかどうか意見が分かれるところですので、項羽政権に対する軍事行動は、「反乱」という表現は変えています。
  • 「項羽は討伐軍を率いて各地を転戦する。項羽は戦闘には圧倒的に強く、項羽が行けばすぐに反乱は収まるものの、間を置かず別の地域で反乱が起き、項羽がその鎮圧に行けばすぐにまた別の地域で反乱が再発するといういたちごっこを繰り返した。また項羽が降伏を許さず、反乱を起こした国の兵士は全員生き埋めにして殺し、住民も情け容赦なく殺すため、反乱軍は兵民一丸となって必死に抵抗し、戦闘は泥沼化していった。」とありましたが、あらゆる場合にそのようであったかは、史記の記載を見ても不明です。特に、『降伏を許さず』の事実は確認できませんでした。また、外黄では兵を許しており、それ以降は方針が変わった可能性があります。史記の記載に沿って内容を改変しています。
  • また、注釈にありました「『史記』の「黥布列伝」によれば「千万」と形容される程の人民が項羽によって坑殺されたと言う」とありましたが、「項氏の阬殺する所の人は千萬(万)を以て數(数)う。」を出典としているようですが、英布が関わった部分の説明ですので、秦軍の阬殺の部分に注釈を移しています。
  • 「項羽は戦術には非常に優れていたが、戦略・政略・人望などに乏しく、直情径行型であったため人の恨みを買いやすかったといわれる。」とありますが、出典が明示されない、主観的な意見です。これは、ウィキペディアの内容に関する三大方針である「Wikipedia:中立的な観点」及び「Wikipedia:独自研究は載せない」からも、好ましくありません。これに削除を行い、代わるものとして、佐竹靖彦『項羽』から、楚漢戦争における項羽陣営の評価にかかるものを注釈として引用しています。
  • 「『史記』卷七項羽本紀に、「漢軍皆走,相隨入谷、泗水,殺漢卒十餘萬人。漢卒皆南走山,楚又追撃至靈璧東睢水上。漢軍卻,為楚所擠,多殺,漢卒十餘萬人皆入睢水,睢水為之不流。」とある。この数字について、加藤徹はこうした兵数をたぶんに宣伝的な数字であろうとしている。また、裴松之は『三国志』の注釈にて「そもそも10倍の兵力を捕縛できるものではない」と述べている。しかし、佐竹靖彦は30万近くを殺戮したとする。」とありましたが、史記にある兵数をそのまま信用することは難しいとしても、兵数を疑う記述については、「Wikipedia:独自研究は載せない」の観点から、特記して、この部分のみにいれるべきではないと思われます。また、加藤徹のどの著作からの引用か、出典が記載されていません。裴松之については、捕縛に関することであり、追撃して水中に追い落とされることとは違います。また、これも「独自研究」に該当します。佐竹靖彦も著作『項羽』において、史記の記述を引用しているのみです。そのため、この注釈は全て削除します。
  • 「劉邦旗下の韓信による魏・趙・燕・斉諸国遠征や、項羽に反感を抱く彭越、離反した英布などの、諸侯による後方撹乱行動に悩まされる。このため劉邦をしばしば破り何度も追い詰めながら、最後にはいつも逃げられてしまい、別の反乱の鎮圧に戻らざるを得なくなって追及の手を緩めると、今度は関中の蕭何の補給で盛り返した劉邦が再度項羽と対峙する、という繰り返しとなった。」とありましたが、この記述は誤ってはないですが、原因や経緯を単純化し過ぎと思われます。内容を改変しています。
  • 「その間隙を狙って行われた陳平による内部分裂工作により、知恵袋であり亜父(父についで尊敬する人)とまで呼んでいた范増や、これまで共に闘ってきた鍾離眜季布龍且らの各将軍を疑うようになった。」こちらについても、時系列に沿い、改変しています。なお、陳平の離間策の対象となったのは、周殷であり、季布ではありません。外黄の記述を詳細に記載したのは、その他の部分は楚漢戦争の項目で詳細に記載できますが、項羽の人物を知るために重要な部分である外黄の部分は、ここで外せないと判断したためです。

四面楚歌[編集]

  • 「紀元前203年」とありましたが、ここに年数をいれると歳を越してからすぐに、項羽と劉邦が講和したような印象を与えかねないことから、適切とは言えないと考え、外しています。
  • 「しかしこの時漢軍が和平の約束を破り項羽の後背を襲った。長い戦闘で疲弊の極みにあった楚軍は敗走し、韓信の兵力30万を始めとする諸侯連合軍に項羽軍10万は垓下に追い詰められた(垓下の戦い)」とありましたが、項羽本紀によると、項羽本紀によると、項羽は漢軍に勝利しており、垓下に敗走したわけではありません。陳下で敗北したことが途中で省かれているという学説に沿って記述しているのかもしれませんが、その学説の引用や出典が紹介されていません。注釈で引用された学説は、陳下で決着したとするものです。項羽本紀により、改めています。
  • 垓下の部分は、項羽の人物を知るために重要なエピソードですので、より、詳細に記載しています。
  • 「項伯の子孫が劉裕といわれる。」とありましたが、『魏書』島夷劉裕伝においては、劉裕について「或云本姓項,改為劉氏」と記載されているのみであり、誤りと考え、改めてます。

ご意見ありましたら、お願いします。--Mamme会話2019年3月30日 (土) 18:33 (UTC)[返信]

記事名について2[編集]

過去に一度お話合いがあったようですが、過去の合意では主に「姓・名」という慣例を重視する意見が強かったように思います。しかし現在では「姓・名」表記というフォーマットへの統一性を重視する傾向は以前より薄まっており、実際他の記事内においても大抵は「項羽」と表記される事が一般的であり、やはり一般的な認知度からすると、あえて「姓・名」の例に拘る蓋然性は薄いかと思います。改めてとなりますが、項羽への改名を提案させて頂きます。----以上の署名の無いコメントは、Miraburu会話投稿記録)さんが 2021年12月7日 (火) 07:04 に投稿したものです(narumi会話)による付記)。

賛成 積極的にではありませんが、賛成します。
賛成理由
  • 史記』に項羽本紀とあることから見ても、項羽の呼称は明確に一般化されている。
  • 本項の記述自体が「一般に知られている項 羽の名で記」されている。あくまで項籍が正当となるなら記事内記述も項籍であるべきでは。
不賛成理由
賛成 原典である『史記』項羽本紀に加え、日本では司馬遼太郎『項羽と劉邦』などもありますので、一般的な認知度では「項羽」が上と思います。また「屈原」、「伍子胥」など既存のページでも「姓・名」ではなく知名度の高い名称が記事名となっておりますので、あえて「項籍」にしなければいけない理由もないと思います。--ぽん吉会話2021年12月15日 (水) 05:17 (UTC)[返信]