ノート:霊の戦い

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冒頭の引用文の出典の明示をお願いします。また、日本においてどのように霊の戦いが認識されていったのかという説明が欲しいと思います。さらに、この問題については、賛成派、反対派から数多くの議論がなされおりますので、それらの公平な立場からの文献の付与が必要だと思います。--More blessing 2009年10月19日 (月) 00:52 (UTC)[返信]

議論の多さはよく存じております。--イザヤ 2011年2月11日 (金) 13:13 (UTC)[返信]

正確性テンプレ、観点テンプレ[編集]

正確性・中立的観点テンプレにつき説明申し上げます。

  • オカルトにおける霊の戦いとキリスト教における霊の戦いの区分も不明瞭であり、全体的に整理されておらず、非常に見通しが悪いです。この事について何のテンプレートを使うか迷いましたが、一応「正確性」テンプレを使いました。
  • 中立的観点テンプレについては、出典と記述が福音派のものに偏っていることを問題としております。--Kinno Angel 2010年12月27日 (月) 16:22 (UTC)[返信]

霊の戦いの当事者の考えによれば、異端やオカルトとの戦いも、霊の戦いです。--イザヤ 2010年12月27日 (月) 16:31 (UTC)[返信]

取り敢えず、節「オカルトレベルの霊の戦い」については、体言止めが主体と客体を不明瞭にしていましたので、上記イザヤさんのご指摘をもとに、この編集で、主体と客体が明瞭になるような文言に修正しました。--Kinno Angel 2010年12月27日 (月) 16:35 (UTC)[返信]

解決に向けて[編集]

特に中立的観点について、解決への方策は以下二つ考えられます。

  1. エフェソの信徒への手紙にある概念を中心に、霊の戦いについての教派ごとの理解を文献を揃えて併記する。
  2. 記事冒頭に「本項は福音派における概念について詳述する」と断り書きを入れる。

1番は必要なリソースが膨大なものになってしまうと思います。2番の方が現時点での手っ取り早い解決策としてはリーズナブルだと思うのですが、いかがでしょうか…。--Kinno Angel 2010年12月27日 (月) 16:52 (UTC)[返信]

私はKinno Angelさんのご指摘を受けて、この記事を改善するにはこの記事だけではすまないので、これに関連した用語を両論併記あるいは分割するために努力したのですが、ローマ・カトリックの用語のところで強硬に反対する者がいて時間がかかりました。ウィキペディアではPOVが推奨されているという主張があるようですが、一方の観点だけが書かれるのが推奨事項であるとはさすがに私も思っていません。ただ、キリスト教という用語は日本語版ウィキペディアでは非常にあいまいな使い方をされています。現状はキリスト教でないものもごっちゃになった名称として使われています。しかし、全教派の一致事項、両論併記が難しくても、キリスト教には最低限、異教でないという意味もあるはずです。霊の戦いについては教父の理論までなら、加筆可能です。--イザヤ 2011年2月11日 (金) 13:12 (UTC)[返信]

冒頭定義文[編集]

20110103T0755Zの版以降、冒頭定義文を読んでも「霊の戦い」が何であるか、一般的な読者にはわからなくなってしまっています。それ以前の版の冒頭文が正しいのかどうかは門外漢なので判断できませんが、少なくともスタイルにおいては何でありそうかはわかるものとなっていました。「霊の戦いとは○○である」と言い切れない事情があるにしても、「霊の戦いとは基本的に○○であるが立場によって云々」といった冒頭文にできないでしょうか。百科事典は辞書ではないので、説明対象は概念であって言葉そのものではなく、従って「○○」が「語」では基本的に困りますし、「霊の戦いのイメージを呼び起こす」と言われても一般的な読者には何だかわかりません (もし、それがイメージであるならば、「○○」は「イメージ」でしょう)。冒頭文ではありませんが、「古典的な悪魔学」の節で「告白した」、「信仰告白でも確認されている」という表現が説明もリンクなしに用いられていますが、これも一般的な読者には難解です (教会が告白する、という表現が一般的読者には馴染みがない)。信仰告白あたりにリンクするのが適切かとも思いますが、議論あるやもしれないのでアクションは起こしません。折角の記事なので、一般的な読者にも理解できる言い回し上の工夫をしていただければ幸いです。--Jms 2011年2月12日 (土) 00:59 (UTC)[返信]

早速の対応ありがとうございます。冒頭文はだいぶわかりやすくなりましたが、まだ疑問点があります。「堕落した御使いとの霊的戦い」というのは、堕落した御使いと誰との霊的戦いなのでしょうか。そして霊的戦いとは何なのでしょうか。霊的戦いについては、霊的戦い霊の戦いへのリダイレクトであるため説明としては循環論法ですし、戦いの一方だけが示されているのでは、霊的戦いといわれて多神教的神話上の神々同士の戦いを連想しがちな/しかねない一般読者に対してはむしろ不適切な説明になっているのではないかと危惧します。戦いの相手方の参考になるかと堕落をみると「堕落した御使い」というのは堕落した人間のことだと理解されますが、それは適切な理解でしょうか。御使いを読むと違うのではないかと漠然とした印象は持つのですが、結果としてよくわからないという印象を残す記事になってしまっていると思います。--Jms 2011年2月12日 (土) 02:43 (UTC)[返信]
言語間リンク先のen:Spiritual warfare冒頭文はずっとわかりやすくて良いと思いますが、あの冒頭文では問題がありますか。--Jms 2011年2月12日 (土) 02:59 (UTC)[返信]
基本的には英語版が最も分かり易いと思います。で、日本語版の事情として、「本項ではプロテスタントの福音派と聖霊派の理解を中心に記述する。」を付け加えれば良いかと思います。マリア崇敬云々は、冒頭に持ってくるほどの重要性は無いと思います。--Kinno Angel 2011年2月12日 (土) 06:55 (UTC)[返信]
日本語の讃美歌集の題名になっているなど、いつからかは知りませんが、キリスト教の専門用語としてこの語は存在しています。はっきりと公の宣言レベルにまで出て来たのはローザンヌ誓約ですが、ジョン・バニヤンジョン・ミルトン敬虔主義、また、教父の文書、そしてこの根拠の聖句であるパウロ書簡に霊的戦いについて書かれてあります。彼らの神学、文学、ローマ・カトリックの注釈付き聖書、プロテスタントのエペソ講解、注解をいくつか見れば即座にその事実が理解できます。More blessingさんがご指摘なさるように、福音派と聖霊派の中に非常に多くの議論があり、私はこの項目の記述の難しさを重々、承知しています。霊の戦いという用語の方が古いのですが、どちらかというとその語を避けて、霊的戦いの語を用いる立場もあります。互換的に用いていいのかは考えどころですが、まだそれを分けるほどの分量はないですし、分けることはまだ考えていません。--イザヤ 2011年2月12日 (土) 12:47 (UTC)[返信]
イザヤさんのご意見のご意見に賛成です。私もかなり混乱しており整理する必要性を感じています。元々、霊の戦いはen:spiritual warfareのエペソ(エフェソス)6章の解釈を中心として、英語圏においてもキリスト教の専門用語として用いられてきたと思います。明治から戦前の日本のプロテスタント教会でも、spritual warfareのもともとの伝統的な聖書解釈の概念の翻訳として用いられてきたと思います。特に「霊の戦い」の概念は日本ホーリネス教会などの伝道のための祈りに関連して、よく用いられていた概念のようです。この記事に掲載されている讃美歌「神は我がやぐら」もそういう意味だと思います。しかし1990年代に入って事情が変化してきたようです。1990代にフラー神学校宣教学部ピーター・ワグナーらの宣教学的な霊の戦いである「聖霊の第三の波」がブームになってから事情が少し変化してきたと思います。それは、いままでの主流派福音派の伝統的な解釈とはかなり異なっているものです。ワグナーらの宣教学と聖霊論の融合という意味で斬新な考えでした。実際、記事「霊の戦い」の初期の記事は1990年以降にアメリカの日本に輸入された運動であるカリスマ派、聖霊派の「聖霊の第三の波」の「霊の戦い」の記述が中心で、説明なしにワグナーらの意見が引用されいましたが、これは、伝統的な福音派の主流の意見ではありません。しかし、主流派の意見のごとく書かれていました。ところが、後で、まったく異なる意見であるもともとの伝統的主流派の解釈が同じような意見のごとく、区別なしに加筆されたことが混乱の原因だと考えられます。伝統的な見解と聖霊第三の波の見解を区別すればはっきり本質が見えてくると思います。聖霊の第三の波のカリスマ派聖霊派の「霊の戦い」の流れは全日本リバイバルミッションに大きな影響を与えて、滝元明らの運動の流れを別の方向に動かし、母体のイエス福音教団の分裂騒ぎを引き起こしました。その経緯で、福音派陣営を抜け出した一部と聖霊派が日本リバイバル同盟を形成していきました。かくのごとく混乱を引き起こした聖霊の第三の波の霊の戦いの運動に対して、福音派の団体は基本的に賛成していません。これらの混乱に対して福音派の主要な団体は反対声明を出していますし、福音派の公式な代表機関である日本福音同盟などでは公式に距離をおいています。実際福音派陣営では高木慶太内田和彦などの著名人が聖霊派の「霊の戦い」についての反対意見の本を執筆しています。ですから、「福音派と聖霊派の見解」とすると、不正確な記述になってしまう可能性があります。英語版では意見の異なる派の住み分けできているようでから一つの記事で大丈夫なのでしょうが、日本の福音派では90年代の全体を揺り動かした大問題でしたので、もう少し整理をしたほうがいいと思います。提案としては、「1990年代からブームになった聖霊の第三の波の運動の結果誕生した日本リバイバル同盟などのカリスマ派聖霊派を中心とした見解」と冒頭に書き加えるか、英語版のように冒頭に伝統的な解釈に則った簡単な「霊の戦い」の概念を乗せて、最後の方に、1990年代の「聖霊の第三の波」(カリスマ派、聖霊派の見解)のセクションを加えて、そこに、元々投稿されていたピーター・ワグナーらの意見を掲載すれば良いと思います。そして、聖霊の第三の波の見解に対して正統派や福音派の反論を併記することを提案します。--More blessing 2011年2月14日 (月) 06:40 (UTC)[返信]
JEAでは内田先生らの立場がそうですが、内田先生もペンテコステ派の万代栄嗣先生との対話で宣教の現場でこれが出てきたことを認め、批判的ではありますが、霊的戦いの世界観について一定の評価を与えています。ディスペンセーションはもともと終焉説をとるわけですが、高木先生の本にしても宣教の現場ではこれがありうることを否定してはいません。高木先生はむしろ悪魔の働きということではエキュメニズムが将来の大淫婦バビロンとお考えだったようですね。JEAには今も霊的戦いを教える奥山先生の宣教師訓練センターが入っており、米福音派のインターナショナル・チャペル・ミニストリーズも霊的戦いを教えます。いのちのことば社から出ているバイヤーハウス『宣教のめざす道-エキュメニカルと福音派の間-』はドイツ系の保守的な福音派ですが、宣教は悪霊追い出しを含むと述べます。ピーター・ワグナーの理論は承認するせよ、否定するにせよ、これを切り分けるには便利であって、「地上レベル」と「地域レベル」のうち、聖書の直接の記述と宣教関係については「地上レベル」を否定する見解を福音陣営では見たことがありません。リベラルは悪は人格ではないなどと言っているのではじめから問題外です。尾山先生はチャールズ・クラフト師や山崎ランサム和彦師の霊的戦いをを含む著書の推薦文を書いていますが、その内容を全肯定しているわけでも、全否定しているわけでもありません。ただ、クリスチャンすべてが認識しなければならないこととして、キリスト者の戦いに人格的な悪の霊との戦いがあると教えています。これは古典的にはC.S.ルイスの『悪魔の手紙』にも見られるもので、福音陣営の誰にも異存がないはずです。もともとの福音派のオーソドックスな見解はロイドジョンズのエペソ講解シリーズであるとか、シーセンの『組織神学』を見れば書いてあります。世界的な福音派の公式声明としては、ローザンヌ委員会とアフリカ福音同盟の「霊の戦いに関する聖書的・包括的理解のためのナイロビ声明」があり、これは古典的な霊の戦いと聖霊派的な霊的戦いの立場、両者のソフトライディングを目指したもので、一宮基督教研究所の安黒務先生は、これが福音派全体で共有されるべき声明だと述べています。ナイロビ声明では上記のワグナーにある区分で地域レベルを「議論のある事柄」に入れていて、説明に便利です。宣教団体の新生運動は霊的戦いよりの本を出していますし、福音派内部でも、宣教関係の団体と内田先生ら保守的な聖書学者には若干温度差があります。古プリンストン神学は聖書釈義ではそれほど異なった所はないのですが、いずれにしても戦略レベルは霊的戦いの推進者ですら直接に根拠聖句で教理化できると言っている者は誰もいません。ところで、悪霊につかれて口のきけない人をキリストがいやすノート:イエスの奇跡の統合提案を出されて心外だったのですが、私はこれ関係の記事を書くと、福音派と聖霊派の議論で埋めることが出来ることを知っていたので、最初から記事を分割しておいたのです。英語版の様に霊の戦いに関する記事をきちんと分割していかないとメチャクチャになります。しかし、この論争を知らなければ奇蹟に一緒くたに出来ると思ってしまうのも無理ありません。福音派と聖霊派の中だけでもこれだけ議論があるというのに、異教やオカルトとキリスト教を区別しない学者たちがいて混乱が起こっています。何とかしたいのですが、憑依にも見られるように、異教やオカルトとキリスト教を分割しようとすると強硬な反対が起っています。--イザヤ 2011年2月14日 (月) 09:00 (UTC)[返信]
昨年ホーリネス系の淀橋教会あたりが中心になってクリストファー・サンの宣教大会を開いていましたが、彼もこのように聖書による悪霊追い出しレポートその1を教えています。ただこれはその上の区分では「地上レベル」ということになるでしょう。クリストファー・サンの解釈はディスペンセーション系の影響を受けているようでした。--イザヤ 2011年2月14日 (月) 09:57 (UTC)[返信]

加筆のお願い[編集]

イザヤさん、近年の福音派内部での議論についての詳細な解説をありがとうございます。私は、ノートにノン・クリスチャン向けに1990年代の福音派内部の聖霊の第三の波についての議論の概略だけは提示しました。内田氏と高木氏の主張は20年前の議論ではありますが、二人の主張は、運動そのものを否定するものではないと、私も読み取りました。高木氏が聖霊運動と新正統主義類似性をあげているところが印象に残りました。実際、1990年代の福音派内部は、聖霊運動による混乱に対する反動という形で、聖霊運動に反対する声明や非公式な意見を含めると、逆に振り子が振れているような、いささか極端な動きがあったように感じていました。保守的な聖書学者の意見が日本福音同盟の意見の大半を支配しており、世界的が潮流から見ると、日本の福音派内部の公平な議論がかなり遅れていたことも事実です。日本福音同盟内部には、実際に聖霊運動に関係する団体や教職者が多数が存在していることも承知上で、あえて主だった保守的聖書学者の原則だけ意見を述べさせていただきました。(それらの、意見が一応公式見解とされているという意味で)2011年になっても福音派は、聖霊運動に対する見解は一枚岩ではないことも重々承知しております。私も福音派内部で活動していますが、霊の戦いに対する個人的な見解は、戦略レベルに対してでさえも完全に否定しているわけではありませんし、実際に福音派陣営で活動している知り合いたちも、各教会においてはコンセンサスははっきりしていない状況です。ですから、聖霊運動に賛成している一部の流れを紹介することも必要ではあると思います。
結論を申しますと、ウィキペディアは個人的な意見を述べる場ではなく、中立の立場で文献という根拠に基づいた事実を列挙する場ですので、かくのごとく混乱している1990年代以降の聖霊の第三の波についての福音派と聖霊派の流れを公平な視点で説明することが一番有益だと思います。そして、一般の人でも議論の概略をつかめる記述というのがウィキペディアの良い記事だと思っています。かつて、私は、聖霊の第三の波が日本に入って、混乱が生じ日本リバイバル同盟が形成されて、日本福音同盟と距離ができていた経緯を「霊の戦い」の本文に加筆しました。しかし、資料不足のために、十分な加筆はできませんでした。うわさはいろいろ聞いていますが、信頼できる資料がなければ百科辞典には成りえませんので、もっと詳しい資料が入手できれば、できる限り詳しく、客観的に執筆したいと願っています。ですので、「霊の戦い」で1990年代以降の福音派内部および聖霊派と議論の賛否両論の議論の流れに関して、かなり重要な資料をお持ちであると推察されるイザヤさんに、恐れ入りますがこれらの流れを執筆していただければとも思います。--More blessing 2011年2月14日 (月) 13:33 (UTC)[返信]