ノート:隼人

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都城隼人?[編集]

「都城隼人」なる概念の記述がありましたが、基本テキストである中村明蔵氏の『隼人の古代史』には、現れない概念で、また、従前聞き慣れない概念なのでいったん戻しました、復活させる場合は出典を付して記載されるようお願いします。

ただ、そもそも論として「熊襲」ならいざ知らず、8世紀頃の隼人の時代において、都城地方(日向国諸県郡)に隼人勢力があったかというのははなはだ疑問です。日向国成立過程を見ると、対隼人(服従隼人族はいたとしても)の前線であった(だから、諸県郡は大隅国司配下ではなく、日向国司配下に残った)と考える方が自然です。

なお、薩摩隼人の典型として島津義弘、西郷隆盛をあげていますが、島津氏はもともと京都を出自とする鎌倉武士ですし、西郷氏は菊池氏の流れで土着の隼人族とは言い難いものがあります。剽悍な薩摩隼人のイメージは、鎌倉期以降に関東から移住してきた武士団により形成されたものが多いと言うことを意識すべきです(前出、中村氏著作より)。

書き込んだ人も私と同じ都城の出身者なのでしょうが、こうあってほしいと思い、根拠に欠けることを書くのはひいきの引き倒しとなりかねませんからご注意ください。--Tomzo 2008年12月17日 (水) 06:02 (UTC)[返信]

まだ妄言が書き続けられるようなので念押しを、

  1. 現在の宮崎県都城市近辺を「都城」と呼ぶようになったのは、14世紀都之城築城以降である、一方、隼人族が部族としての行動を残しているのは8世紀中であり、9世紀には史書から見えなくなる。都城隼人と言う言葉は時代的に500年程度隔絶した概念をくっつけたものである。
  2. 現在の都城市は諸県郡に位置している。隼人が居住したとされるのは、薩摩では阿多郡、大隅で大隅郡、囎唹郡(現在の曽於市近辺ではなく霧島市周辺)であり、少なくとも、大隅郡に都城市はかかっていない。もし現在の都城市近辺に隼人族が起居したとしたら、「諸県隼人」と呼ばれたはずであるが史書にその名は見られない(というか、諸県地方は記紀の記述から比較的早くにヤマト王権に服属した隼人族ないし熊襲族と考えられる)。

以上が、「都城隼人」なる概念が如何に奇異な概念かの論証です。この記事に、「都城隼人」なる記事を書き加えるならば、上記の論を破る証明ののち記述願います。ただ、「その都城隼人に関する古文書は諸般の事情、学術的理由により未だ非公開となっている。」というような、非科学的証明は、少なくともwikipediaでは哄笑されるもとなのでやめたほうがいいですよ。

あと、「但し、都城隼人だけは(都城隼人の舞乱)その大規模な騒乱をとどめることはなく、南九州をはじめ九州四国までその乱を広げ、中央を悩ませ続けた。」と書かれていますが、何と言う歴史書に書かれているのでしょうか(まあ、提示はできないでしょうから消しておきますが)。--Tomzo 2009年1月12日 (月) 12:49 (UTC)[返信]