ノート:金田一京助

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「金田一京助」と「金田一春彦」[編集]

3段落目に「金田一春彦」とあるのは「金田一京助」の誤りではありませんか?

「受章」と「授章」[編集]

(お知らせ)当記事にて、「受章」と表記すべき箇所を、わざわざ誤字である「授章」との表記に繰り返し修正する利用者がいるようです。詳細は「ノート:川端康成#文化勲章について」をご参照ください。--60.254.214.100 2008年7月20日 (日) 19:05 (UTC)[返信]

「授賞」は「賞を授(さづ)く」と読み、賞を与える側が「褒美や、賞を与える」ということ。
「受賞」は「賞を受(う)く」と読み、文字通り与えられる側が「褒美や賞を受ける」ということ。どちらも漢文由来の熟語なので返り読みをするわけです。ということで、問題になっている各ページは文化勲章を受けた側の人々に関して書かれているので「受賞」と表記するのが正しい。
ちなみに内閣府賞勲局の文化勲章の説明にもこうあります。「文化勲章は,我が国の文化の発達に関して顕著な功績のあった者に対して授与される勲章です。受章者は,文化審議会に置かれる文化功労者選考分科会に属する委員全員の意見を聴いて文部科学大臣から推薦された・・・・・(以下略)」とあります。--Kogane 2008年7月21日 (月) 10:24 (UTC)[返信]

家族について[編集]

ご子息として長男の春彦氏の名前だけが書かれていますが、他にもお子さんがいらっしゃるようです。 http://pochipress.blog20.fc2.com/blog-entry-208.html

昭和24年12月26日(月)朝日新聞(東京)7版

金田一博士の四女自殺

一部既報=東京都杉並区東田町一ノ一一五東京工大助手金田一正弘氏若葉夫人(二九)=学士院会員金田一京助博士の四女=は、二十三日午後一時ごろ「買物に行く」といって外出したまゝ帰宅せず、午後六時ごろ帰った正弘氏が自殺するむねの遺書を発見、杉並署に捜索願を出した

読売新聞1949年12月25日朝刊

金田一博士の愛嬢自殺 『宿命の淋しさ』から玉川上水へ

若葉さんはアイヌ語の研究家として有名な国文学者、文博、学士院会員金田一京助(六八)氏=現在国学院教授=の一人娘だが昨年十二月十五日正弘氏と結婚、両親と前記住所に同居していた

--Itokawa kamoi 2009年12月26日 (土) 14:34 (UTC)[返信]

樺太アイヌ語語彙採録のエピソードについて[編集]

「適当な絵を描いて『何(ヘマタ)』という語彙を知り、それを用いて語彙採録を始めた」という樺太アイヌ語語彙採録のエピソードは面白おかしいのですが、これは彼が一般向けのエッセイに書いているだけで、それが彼のアイヌ語研究の方法論だったわけではありません。1889年にはすでにバチェラーの辞書が出版されており、金田一自身も樺太調査時にはすでに北海道方言についてかなりの知識がありました。金田一のエッセイでも「ヘマタ」という語を聞いて北海道方言形の「ヘマンタ」の対応形だろうとすぐにわかった、と書いています。彼の語彙収集は実際にはいわば「バチェラー辞書を参考にして語形を確認して、さらに語彙を増やした」というべきものです。もちろん、実際の語彙採録にあたってはさまざまな方法がとられますが、このエピソードをこのような形でとりあげるのは学術的なテーマ項目としてふさわしいとはいえないのではないでしょうか。--Riendautre会話2013年5月22日 (水) 09:10 (UTC)[返信]

樺太のアイヌの言語の語彙を収集するとき、北海道アイヌ語で質問をしても思うように答えが得られなかったので、疑問詞「何?」を知る方法としてめちゃくちゃな線を描いて子どもたちに見せるという方法を取った、という逸話がある(『金田一京助随筆選集 第1』「片言をいうまで」)のは事実ですが、その逸話を入れる場所が現在の記事中にないように思います。[1]での挿入箇所は前後に合いません。このため除去しました。 --2001:268:C209:6EE7:D7A:2E1B:CB5D:4C5C 2023年11月16日 (木) 03:09 (UTC)[返信]