ノート:調所広郷

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外部サイト[編集]

http://www4.plala.or.jp/uzuland/ayakagami/hirosatodouzou.html このページと一致しています。外部サイトの製作者の方なら、もうしわけありません。その旨をお教えください。Tsk 10:19 2004年1月19日 (UTC)

外部ページとの同一性確認しました。
サイトの制作者の方にメールを差し上げましたが、エラーが返ってきました。またあとで試してみようかと思います。Tomos 21:08 2004年2月20日 (UTC)
件の外部サイトは現在見られなくなっています。archiveあり[1]。なお、現状(2019年5月)のWikipediaの記事は2005年3月の版が最古です。  --忠太会話2019年5月26日 (日) 11:36 (UTC)[返信]

苗字の読み方[編集]

『平成新修 旧華族家系大成』下巻(1996年、霞会館 ISBN 4642036717)p.91にはチョウショという読み方で載っています。子孫はチョウショを名乗っているのでしょうか。--指鬘外道 2007年3月18日 (日) 02:53 (UTC)[返信]

本文にもある末子の調所広丈は本家の養子に入り明治期に苗字の読みをチョウショと改めました。しかし、調所広郷の後を継いだ次男の系統はそのままズショを名乗ってます。両家とも現在まで存続しています。--220.218.225.42 2007年11月25日 (日) 04:29 (UTC)[返信]

子孫の記述[編集]

おそらく存命者とおぼしき世代まで記されていますが、プライバシーの侵害になりませんか。執筆者は下記のコメントを残しています。
「芳即正著『調所広郷』286頁の「調所氏略系図」に調所広郷の「家系」が掲載されてるのと同様。ウィキペディアの目的は、質も「量」も史上最大の百科事典を創り上げることであり、偏見でもなく、検証が可能な情報であれば、著名人、歴史上の人物に関わらず、事実に基づく最新の詳細情報、関連情報を掲載する事に対して問題はない。」
しかし、芳即正著「調所広郷」は調所宏之までしか記されていません。ここまで執筆することは妥当なのでしょうか?--盛風力 2008年2月14日 (木) 00:06 (UTC)[返信]

とりあえず削除しました。また戻されるかもしれないので、テンプレは残しておきました。ちなみに上記コメントはいつのまにか本文から削除されております。--盛風力 2008年3月3日 (月) 14:01 (UTC)[返信]

(中傷的な文章のため除去 Mrzusho 2010年7月14日 (水) 01:33 (UTC)[返信]

(感情的な文章及び個人的な情報のため除去 Mrzusho 2010年7月14日 (水) 01:33 (UTC)[返信]

(中傷的な文章のため除去 Mrzusho 2010年7月14日 (水) 01:33 (UTC)[返信]

(感情的な文章及び個人的な情報のため除去 Mrzusho 2010年7月14日 (水) 01:33 (UTC)[返信]

数馬は安之進の別名で広郷の三男です。次男の亀太郎が早世したため、次男家を創設し、藩庁からも認定されています。その後、長兄・笑太郎が病死したため代わって家督を継いだのですが、笑太郎の長男である左平太、つまり、後の広智を自身の養子にしております。また広丈は広郷の四男で、明治政府の下、北海道札幌の県令をするなど、広郷の子供の中では一番出世しており、男爵となって現在チョウショ家と呼びます。

原口虎雄先生も芳先生も書かれているように、広郷没後の調所家は没落、離散をしており、かつ広郷自身が分家で、川崎家からの養子であることも手伝って、嫡庶が不明確なのです。薩摩藩士としての本家である調所(チョウショ)家をついだ広丈が直系ともいえます。広郷が江戸でなくなった直後、埋葬された大円寺での法事を現在でもおこなっているのは、この男爵調所家です。一方、MrZusho氏のように広郷を養子にはいった調所家の六代目とせず、家老家の初代として、広郷の現在の本墓(鹿児島市福昌寺跡島津家墓地)で遺骨、遺髪の管理をし祭祀を相続している別の調所(ズショ)家もあります。こちらは広郷の長男・笑太郎を二代目、笑太郎の長男・左平太(広智)を三代目としている流れ(家系)です。-- inatomi

(個人的な情報のため除去 Mrzusho 2010年7月14日 (水) 01:33 (UTC)[返信]

調所安之進(左門・数馬・八郎左衛門・広厚・広胖・広哲・広時)と調所小膳(転・左平太・笑左衛門・広智)に関する誤認の指摘、有難う御座いました。安之進も小膳も多くの別名があった為、誤認しておりました。また、調所家に関する詳細な情報、誠に有難う御座います。私が掲載した広郷に関する系図は、芳即正著『調所広郷』286ページに掲載されております「調所氏略系図」を基に復元し、誤字の修正や最新の情報をつけ加えたものです。
inatomiさんが書かれた上記3行目の「広丈は広郷の四男」と書いてありますが、芳先生の系図に広郷の四男とは明記されておらず、調所本家の人間と位置づけされており、調所広郷との血縁がないようにみえます。広丈は広郷と血縁関係なのでしょうか?お手数ですが、ご教授及び、掲載いたしました系図を正しい情報への修正・追加の方、お願い申し上げます。また、調所氏略系図で掛けてける正しい情報を把握している方がいらっしゃいましたら、是非、修正や最新情報の追加をお願い申し上げます。尚、系図すべてを削除する場合は、削除する具体的な説明をお願いいたします。

(個人的な情報のため除去 Mrzusho 2010年7月14日 (水) 01:33 (UTC)[返信]

広丈(ひろたけ)は正真正銘、広郷の四男(早世した亀太郎を省いて三男とすることもある)です。旧華族大系(大きな図書館や大学図書館にあります)や、広丈が初代校長を務めた北海道大学(札幌農学校)資料にも、きちんと出ていることで、もとより広郷の血を引く者たちの間では知られていたことです。また広丈の調所本家(チョウショ家)ですが、広郷の入った分家で、善右衛門から広郷までが六代なのに、この広丈の家は広丈の養父である広容(ひろかた)まで善右衛門の兄から一〇代を数えます。ほぼ同じ時間の流れなのに六代と一〇代の差異はおかしいと思いませんか。これはチョウショ家の系図に二つの家系を一本につなげてしまっているミスがあるのです。つまり、途中で絶えてしまい、三代前に分かれた弟の家系をそのまま実子として下につなげている分、代数が多くなっています。鹿児島県史料旧記雑録に載っています。

 芳先生の著作は、広郷の事績に関して、大変すばらしいものですが、初版で終わっているため、系図に関しては以上少なくとも二点まちがいがあります。お宅の父上の名前も漢字が違ってたとおっしゃってたではないですか。芳先生より前に出された原口虎雄先生の系図とも違っています。遺品もばらばらで、それだけ広郷以後、家系がゴタゴタしていたということでしょう。従って「辞典」と銘打つこのサイトに、おたくの身近な人間だけ訂正して載せるには、まだまだ不確定要素が多く、「辞典」としては適していないと考えます。-- inatomi

系図に関する建設的なご指摘、誠に有難う御座います。なるほどです。仰るとおり、正確な調所広郷の系図を知るには、芳先生の系図だけを頼りにするより、原口先生、北海道大学の資料、旧華族大系、及び、鹿児島県史料旧記雑録など参考にする必要がありますね。私は海外在住の為、実際に各資料を調べる事は無理な為、いつの日か、見識ある方によって作られた、正しい系図をWikiで拝見できる日を楽しみにしております。Mrzusho 2009年1月18日 (日) 22:35 (UTC)[返信]

 曽祖父 広丈は広郷の四男でなく三男として今まで長らく公に扱われ、認められて来ましたので、三男に修正しました。しらべ--しらべ 2009年7月9日 (木) 07:09 (UTC)[返信]

最期について疑問[編集]

再放送(5/22)で「英雄たちの選択 幕末秘録・琉球黒船事件」を見ました。現在の本文と比べ、気になった点がいくつかありましたので、書いておきます。

  • 斉彬は幕府老中・阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易(藩直轄地の坊津や琉球などを拠点としたご禁制品の中継貿易)に関する情報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図る。
本文には断定的に書いてありますが、前後の状況からの推測と思われます。
放送では、弘化4年5月に老中阿部正弘が島津斉彬と会っていた旨のナレーションがあり、藩の内情を幕府に漏らした可能性がある、と言ってました。(原口泉氏が録画で斉彬についてコメント) また、弘化4年6月22日付書簡で、斉彬が国元に対して、調所一派の行動を探り出すよう指示していたと紹介されていました。
  • 嘉永元年(1848年)、調所が江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問される。同年12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死、享年73。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺とも言われる。
阿部が調所を糾問したというのも推測では?
放送では、吐血があり、服毒自殺だと推定されている、として、調所の死の背後で何があったのかは現在でも解明されていない、という旨のナレーションがありました。
  • 葬所は養父清悦と同じ江戸芝の泉谷山大円寺。法号は全機院殿敷績顕功大居士。現在の墓所は鹿児島市内の福昌寺跡。
放送では、平成13年、歴代藩主と同じ福昌寺跡に「分骨埋葬」されたと言っていました。大円寺にも墓が残っているのでしょうか? なお、銅像建立は平成10年とのこと。

 --忠太会話2019年5月23日 (木) 11:24 (UTC)[返信]