ノート:第5ラテラン公会議

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開催までの経過が少々違っていませんか?
英語版の第5ラテラン公会議より(OCNの訳です;)
ローマ教皇に選ばれた時、ユリウス2世はすぐに総会を召集するだろうと宣言の元で約束しました。(略)この約束は果たされませんでした。従って、さらに皇帝マクシミリアンおよびフランスのルイ12世によって促された、ある不満に思わせられた枢機卿は、ピサで会議を召集し、この出来事が10月1日に遅れたその開始のために、1511年9月1日に固定しました。その後、4つの枢機卿が、3つの不在の枢機卿からの代理と共に提供されるピサで会合しました。(略)
ローマ教皇は、急いで1512年4月19日に聖ヨハネラテラノ聖堂の教会で集まるために、1511年7月18日の教皇勅書によって(略)この「conciliabulum」に反対しました。

「反ユリウス派がピサ公会議を招集し、それに対抗したユリウスがラテラノで開催」ということではないかと。 --忠太 2004年10月15日 (金) 16:45 (UTC)[返信]