ノート:知里幸恵

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内容[編集]

この項の内容のほとんどがNHK『その時歴史が動いた』の単なる要約のように見えます。--125.30.97.182 2008年10月22日 (水) 19:20 (UTC)モリオスケ[返信]

時代背景の節について[編集]

この節は特に必要とは思えないのですが、節ごと全削除すべきかどうか現時点では判断しかねるので、とりあえず冗長な記述を短くしました。この手の長文が本項の内容を本題(知里幸恵という「人物」についての説明)から脱線させる恐れがあるからです。--花蝶風月雪月花警部 2008年11月3日 (月) 15:36 (UTC)[返信]


なにをもって「アイヌのごく普通の家庭」と言っているんでしょうかね? 母親がジョン・バチラーの聖公会の伝道婦であったりするのが、ごく普通でしょうか? かなり、当時としては教育のある家庭だったはずです。そもそも、当時は地域によっても、またその家庭がおかれている状況によても、その生活の様式はさまざまであったはずです。たとえば余市の違星北斗のように、和人とほとんど変わらない生活をしており、家庭の中でアイヌ語がほとんど用いられることがない家庭も少なくなかったはずで、そういうアイヌの生活からすると、家庭の中で、アイヌ語の会話が成り立ち、アイヌ語が話せた知里幸恵の家庭は、ごく普通とは言えないでしょう。大正時代にすでに、そういう若者が少なかったからこそ、知里幸恵の存在は金田一京助にとって貴重だったのですから。 「ごく普通の」を削除します。--yamashina kiyoharu 2008年12月16日 (火) 10:12 (UTC)[返信]


アイヌ語に文字がないことに対して「ハンディ」と書いていたりするところや、「日本人」と「和人」の区別がついていないところなどが、幸恵の生きた大正時代のアイヌの置かれている状況の多様性、複雑さなどを全く理解されていないところなどが気になります。

後世の影響のところをみても、違星北斗や森竹竹市はともかく、ずっと上の世代であるバチラー八重子まで幸恵の影響を受けているような書き方はどうなんだろうか。アイヌによる出版の突破口を開いたという意味ではまったく影響がないとはいえないかもしれないですが、バチラー八重子が知里幸恵のフォロワーであるようなのは全くお門違い、順序が逆です。世代的にお互いに影響を与えあっているのは、むしろ母親のナミやおばの金成マツでしょう。バチラー八重子の思想はあくまで保守的なものでしたから、違星北斗や森竹竹市のような「叫び」とは違うタイプのものではないでしょうか。 どこから手をつけたらいいのかわかりませんが、認識の不足というか非常に重大な視点が欠けているような気がします。どなたか、全面的な改稿をお願いしたいです。--yamashina kiyoharu 2008年12月16日 (火) 10:35 (UTC)[返信]