ノート:盛岡藩

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「藩」が公称になったのは明治維新後だと思いましたが(したがって江戸時代のはじめから○○藩と呼ぶのは全く便宜的措置なんですが)盛岡では違ったんでしょうか。調べてみます。Safkan 06:32 2003年10月21日 (UTC)

調べた範囲ではどうも諸説入り乱れているので、併記でぼかしておきました。Safkan

「藩」は幕藩体制下の用語ではないはずです。正式には、明治維新から廃藩置県までの短い時期にのみの存在だったはずです。盛岡だけの特殊事情があるのであれば、それ相応の根拠はあったと思いますが? それに、「南部藩」では盛岡藩か八戸藩か不明瞭です。。利用者:Dagon sato 14:03 2004年11月15日 (UTC)

一応、地元では「南部藩」と言った場合は江戸時代の盛岡南部氏の領土を指し、「盛岡藩」と言った場合は戊辰戦争直後に一時期存在したものを指して区別しています。

盛岡南部氏と北方世界[編集]

北海道との関わりのところに記述を追加しておきました。いずれロシア帝国との関わりも追加したいと思います。--124.154.159.200 2007年5月28日 (月) 11:41 (UTC)[返信]

鎌倉時代から続いたということなら大田原氏や宗氏もそうではないでしょうか?--Namayanagi 2008年3月8日 (土) 00:57 (UTC)[返信]

【「不来方藩」から「盛岡藩」と改められた】というのは誤りですので、変更しました。

弘前藩との遺恨について[編集]

弘前藩との遺恨について、このページに詳しく書いても良いでしょうか?--なんじゃたい 2011年7月21日 (木) 05:04 (UTC)[返信]

内高と人口[編集]

天保郷帳によると、南部領(支藩を含む)の知行は内高28万8874石7斗9升3合。また全国農産表によると、旧南部領の明治9年~12年の年平均米収穫高は30万9444石(他の農産物も米石高に換算すると合計で約45万石)です。単位面積当たりで計算すれば旧南部領の米収穫高は最低の部類に入りますが、公式の内高、実際の米収穫高、農産物高は決して低くありません。

また宝暦2年(1752年)以降については藩による人口捏造疑惑があるものの、享保5年(1720年)の藩内総人口は36万6577人、寛延3年(1750年)の人口は35万8488人と、人口規模では少なくとも20位以内にランクする藩です。

「面積は広いものの実高20万石程度の小藩で、人口が少ないにもかかわらず、」という表現は明らかに誤りなので、削除しました。

米偏重による収入の不安定さや、一人当たりの農産収入が低いことなどは伺えますが。Orichalcum会話2012年5月12日 (土) 17:30 (UTC)[返信]