ノート:現代音楽

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ポール・グリフィスの「モダンミュージック・アンドアフター」の第三版が出版されています。今までの記事には、第三版の文章は反映されていません。第三版にはラッヘンマンとホリガーのオペラについての論考を含みます。一読を勧めます。--217.79.184.45 2014年1月27日 (月) 08:00 (UTC)

記事の肥大化

この項目が秀逸記事に選ばれて以降も多くの方が加筆を続けていますが、各国の状況の説明があまりに肥大化しすぎています。何とかもう少しすっきり収まらないものでしょうか。各作曲家ごとの項目で説明した方が良いものはそれらに説明をまとめたほうが良いと思います。また僕自身も何度か加筆しましたが、ヨーロッパやアメリカにくらべて、アジア諸国の記事がそれほど重要性を持っているとは思えません。これは日本語版記事ですので日本を例外としても、その他のアジアの地域はそれぞれ別項目に映した方がよいのではないでしょうか。もちろん韓国のイサン・ユンは現代音楽史全体で見ても重要な作曲家ですし、エンターテインメント的な活動が目覚しい中国のタン・ドゥンあたりについてはこの項目内で書いておく必要があるかとは思いますが。30rKs56MaE 2006年5月16日 (火) 20:13 (UTC)

さらに文末の作曲家一覧についてですが、今では記事が肥大化しすぎたばかりか、概論と名前のかぶる作曲家も多く、また必ずしも重要とはいえない作曲家も含まれています。概論が既にその役割を果たしているので、この一覧はいっそ削除してしまっても構わないと思います。30rKs56MaE 2006年5月31日 (水) 22:07 (UTC)

国別記事を並べなおしました。また一覧は一旦コメントアウトしました。30rKs56MaE 2006年7月2日 (日) 18:29 (UTC)

内容について指摘できるような現代音楽に関する教養はないので形式的な点だけ意見しておきます。現代音楽の潮流において、大きな流れと、ローカルな展開を客観的に区別することができるならば、この記事には大きな流れに関係することを中心にかいて、ローカルな展開は個別に記事を作るというのがよいかもしれません。この記事では現代音楽を概観できるような解説を行うことを第一とし、必ずしも影響力の大きいとは言えない細かい事項については他の記事に譲るという考え方です。たとえば、アジア等クラシック音楽後進地域に関しては国あるいは文化圏の単位で、西洋クラシック音楽の受容とその国独自の発展というような視点から記事を作ることが可能であれば、そうするのが良いと思います。また、ヨーロッパ諸国にしても、あまり国外に対する影響力を持たなかったがその国内ではある程度の知名度を持つというような事実を拾い上げることができるような記事があればそのほうが良いでしょう。
一覧については、概説中に主要な作曲家が素手に登場しているという意味ではいらないという考え方もできると思いますが、これだけ解説自体が長大であることを考えると、主要な作曲家のリストを再掲することには一定程度の意義を認めても良いかも知れません。ただ、コメントアウト前にあったような肥大化した中途半端なリストはいらないでしょう。とことんマイナーな作曲家まで拾い上げるという覚悟があれば、一覧記事として分離するのも悪くはないと思いますけど、積極的に推進する気にはなれません。yhr 2006年7月3日 (月) 14:35 (UTC)

Yhrさんコメントありがとうございます。とりあえずの整理案として、個別項目が立ったものに関しては、今後順次それとの重複記述を削減していきます。まずドイツのダルムシュタット夏季現代音楽講習会ドナウエッシンゲン音楽祭の重複記述を削除し、詳細はそれぞれの項目に移しました。また「日本編付記」の「効果音としての需要」に関しては日本だけに見られる現象ではなく、また伊福部昭の「ゴジラの効果音」も作曲家の個別記事と内容が被り、また現代音楽の概論として特記すべき必要性を感じないことから、一旦一部をコメントアウトしました。30rKs56MaE 2006年7月3日 (月) 17:02 (UTC)

ポーランドの一部段落を短縮。逆にハンガリーとルーマニアは加筆。バルト三国に関しては、本来ポーランドの作曲家であるヘンリク・ミコワイ・グレツキの名前がここにあるのはおかしいでしょう。もちろんグレツキの交響曲第3番以降の作風がペルトとある程度共通していることは事実ですが。30rKs56MaE 2006年7月3日 (月) 20:12 (UTC)

「冗長である」であるという理由から、「秀逸な記事」から外され、修正が求められているにもかかわらず、その後も加筆(肥大化傾向)が続いているのは好ましいことではないでしょう。すでに提案されていたようですが、国別・地域別の状況については、分割して独立した記事にすべきではないでしょうか。また、映画音楽についての言及も、「現代音楽論」として必要なものと言えるかどうか再考すべきです。 ---間久部緑郎 2006年9月19日 (火) 14:35 (UTC)

こんにちは。水と土と申します。「記事の肥大化」について提案があります。現在進行中のカテゴリなので記事が追加され肥大化していると推測します。例えば、英語版にModernism (music)Postmodern musicなどの項目があります。これを訳出すると記事がいくつか分散可能なのではないでしょうか。--水と土 2006年9月21日 (木) 04:42 (UTC)

独自調査と瑣末な情報の整理

例えば「マニエリスムの音楽」と「エクスペリメンタリズムの音楽」は、秀逸な記事への推薦以前から僕もこの書き方を支持してそれを前提に編集してきましたが、他の文献でこれらに関する記述が見られないことから、独自調査と言われても仕方あらず、Wikipediaの編集方針に反します。これは本来の言葉に言い換える必要があるでしょう。例えば「マニエリスムの音楽」は「新ロマン主義」あるいは「調性回帰」などの語が挙げられますが、これらを包括する意味で「マニエリスムの音楽」という言葉を用いている以上、言い換える語が見当たらないと言うのも現在の問題です。反対に「エクスペリメンタリズムの音楽」も同様でしょう。「ヨーロッパ実験主義」などと言い換えた方が良さそうです。

瑣末な情報に関しては、せっかく今ある情報をどこまで瑣末と切り捨てるかは疑問です。ヨーロッパ偏重主義にこだわらない現在の幅広い視点が失われる危険もありますが、主要な潮流ではない国に関して「この国ではこういう作曲家がいて、自国ではなくヨーロッパに出て活動している」というような情報だけにとどまっている物であればこれを独自調査として一旦コメントアウトしてしまう手もあります。30rKs56MaE 2006年7月18日 (火) 07:29 (UTC)

用語についてあれこれ言える知識はないのですが、少なくとも「エクスペリメンタリズムの音楽」は「実験主義の音楽」と言い換えることができるのではないでしょうか。「ヨーロッパ」の語を外すこと自体は中立的な観点から見れば妥当であり、問題はそれが歴史的事実に合致するか、歴史的事実や一般的認識と照らし合わせて論理的な処置であるかという点に落とし込むことは可能かと思われます。独自調査については、現在も議論中であり正式化されていません。ノートの議論も参照ください。
後段の「些末な情報」については、編集方針では情報を保存する努力が求められています。どの国での動きが先行し、強い影響力を持ったのかなどの記述をしたうえで、多くの国の情報について触れることは、中立的な観点からも求められることと思われます。以下で述べたような語順の組み替えや概説的な記述を加筆することによって、記事全体のなかの力点の置かれ方が読む側に伝わりやすくなれば、冗長であるとは言えなくなります。--Ks aka 98 2006年7月18日 (火) 17:00 (UTC)

話題からずれそうですが、一つだけ提案です。用語法については、ポータル全体として一度見直すべきではないでしょうか。「エクスペリメンタリズムの音楽」(日本語では「実験音楽」?)もそうですが、すでに独立して存在している記事の中にも、日本語での通称があるにもかかわらず、単にヨコのものをタテにしただけの名称(ニューヨーク・フィルハーモニック)とか、初期投稿者による独自の命名法ではないかと思われるセリエル音楽(一般的には十二音技法とかセリー技法というはず)といった記事があります。音楽事典を持っている人に検討してもらって、より適切な記事名に改めるべきです。また、その基準も明快にすべきかもしれません。---間久部緑郎 2006年9月19日 (火) 14:54 (UTC)

再選考にあたっての意見とか感想とか

「現代音楽」という用語は、実際に現代音楽を聴いたり理解しようと努める人たち以外にとってもしばしば用いられ、それは難解であることやアイディア一発のネタといった意味合いがこめられるのみで、現代音楽の実態と乖離していると思われます。そうした人々が読んで、現代音楽の概要をつかめるような記述・構成となることが望ましいと思います。それぞれにかんたんな修飾句が付されているとはいえ、ほとんどの固有名詞が馴染みのあるものではなく、記述上かなりの含意を持って語られているように感じます。他の項目の概要・総論の主要な部分が重複することを避けるべきではないと思います。

「総論」を「歴史的展開」「基本的な方向性」「代表的な手法」(ことばの使い方は適当でなさそうですが)とかにわけて、十二音音楽やミニマル・ミュージックやセリエリズムなどの簡単な説明や代表的な作品を述べていって、「他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響」をそれに続けて、国別概論はその後ろにずらーと並べるというのがよさそうですが、いかがでしょう? --Ks aka 98 2006年7月15日 (土) 16:50 (UTC)

再選考依頼を提出したAotakeです。記事の改善に向けてですが、私は現代音楽はほとんど知らないので、編集に寄与できる点はほとんどありませんが、客観的に見て、現代音楽の記事を難しくしているのは、記事に明確な筋道がないことに最大の原因があるようにおもいます(現代音楽界の現状を反映してのことなのでしょうが)。ですので、Ks aka 98さんが提案されているような節で、おおきな流れが把握できるとかなりよくなるのではないかと期待します。
また、国別の議論については、そもそも現状を「国」でこまかく切り分けることが有効な方法なのか、疑問を感じています。しかも、現在の記事では、国別と言っても、その土地出身の(必ずしもその土地で活動したとは限らない)作曲家のことが中心に書かれていたり、その土地で行われている音楽活動や教育のことが中心に書かれていたりと、ばらばらですよね。もうすこし明確な編集方針の下に整理していかないと、いけないのではないでしょうか。Aotake 2006年7月16日 (日) 16:12 (UTC)
まず、一番最初で述べられている定義「西洋クラシック音楽の流れにあり20世紀後半から現在に至る音楽」は、ある時代における特定の音楽史観にすぎません。1956年に日本語版が出版されたアンドレ・オデール『現代音楽』(吉田秀和訳 白水社)では、バルトーク、シェーンベルク、マリピエロなど19世紀末から20世紀前半にかけて登場した作曲家が扱われていました。また、英語版、フランス語版、ドイツ語版のwikipediaが「現代音楽」についてどのあたりの音楽を指すのかという点において、異なる見方を示しています。「総論」において「統一的な見解はない」と表明しているにも関わらず、日本語版wikipediaにおいて上述の定義を採用するのであれば、それに異を唱える方々を納得させうる説明がそれなりには必要でしょう。
なお、「ブーレーズのようにドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』をもって現代音楽は始まったと言う人もいる」という文章は、「現代音楽が第二次世界大戦後の音楽を指すという見方が多い中での少数派の意見」として読まれる可能性があります。彼がいつ頃からそのような見解を主張していたのかは不明ですが、彼が唱え始めた頃において「現代音楽」がどのような時代、風潮の音楽を指すものとされていたのかを書く必要があると思います。Nattilv1 2006年7月18日 (火) 18:00 (UTC)
むつかしいところに突っ込みましたねー。結局の所、総論或は概論でなんらかの定義を行う際には、概念史にようなものに踏み込まないといけないというのは、今日的な百科事典的な記述に求められるものですが、独自の調査を避けることができるかどうかというウィキペディア上の問題が生じます(いちおう独自の調査のノートでは、このことを念頭において議論に加わっているのですが)。現代音楽という語は、あくまで話者にとっての同時代音楽という意味に過ぎず、そこにある様式が含意されるようになったのはいつ・誰からなのかという先行研究があるかないか。その場合、モダンとコンテンポラリーの切り分けが可能かどうか。たしかロマン・ロランに『近代の音楽家』『現代の音楽家』という著作がありましたが手元にないので確認出来ません。グリフィスの『現代音楽小史』の原題はmodernでした(グリフィスは現代音楽の発端をドビュッシーの「牧神の午後」においています)。Nattilv1さんが概要を把握していらっしゃるようであれば、試案を提示して頂けたりしないでしょうか。ぼくには無理ですので([吹奏楽]の概要部分は上記の点に留意しつつ、あまり明確に切り分けをしないで書くことを試みています)。--Ks aka 98 2006年7月18日 (火) 18:26 (UTC)
概念史については詳しくありません。「現代音楽」、またはそれに類する言葉を載せている日本および諸外国の音楽事典を集めて、定義の推移を探っていくのが1つの方法だと思いますが、独自調査にあたる上に百科事典の範囲を超えることでしょう。とはいえ、日本語版wikipediaが現代音楽に関するさまざまな定義の中で、ある1つの視点を恣意的に採用している以上、それは誰によって提唱され、どのようにして音楽界もしくは公衆に受け入れられていったのかについては私も知りたいところです。
1つだけ言えるのは現代音楽(ここでは各時代の人たちにとっての「同時代音楽」という意味)につきまとう「難解」「珍奇」「耳障りな音響」などといったイメージは19世紀にはすでに形成されていたようなのです。例えばベルリオーズ『管弦楽法』(日本語版 音楽之友社)の序文では「不協和音を使いたがる作曲家」や「メロディの消滅」といった、今日でも指摘されるような状況が描かれています。ただ、このことに本項で触れるのは「現代音楽」を「20世紀後半からの音楽」と定義している性質上、読者の混乱を招く危険性があります。
ついでに以上の議論と無関係なことを書きますが、図形楽譜、偶然性の音楽、トーン・クラスターは第二次世界大戦以前に生まれていたにもかかわらず、「前衛の時代」にはじめて登場したかのように見える書き方になっています。これは執筆者が悪いというより多くの音楽史の本の態度にあると考えます。岡田暁生が『西洋音楽史』(中公新書)で指摘したように、現代音楽の歴史の記述法でよく見られるのは新しい技法や潮流を作曲家の名前とともに列挙する方法です。これ以降は岡田が言ったことではありませんが、これらの技法や潮流が、それらの本で扱うところの「現代音楽」の時代よりも前に生まれていたことについてなぜか一顧だにしない(そのために「現代音楽」の時代に発明されたように見えてしまう)、といったことがしばしば見られます。Nattilv1 2006年7月19日 (水) 05:38 (UTC)

「現代音楽」が指し示すはずの本来の意味と、一般に使われる語義とが異なっているならばそれを明確にして、この項目がどちらを記述しようとしているのか、明確にする必要がありますね。どちらでなければいけないと言う物ではないと思いますが、よりふさわしい項目名があるならその項目名を使う方がいいと思います。また、各論は別ページに分割した方が良さそうですね。最後には曖昧さ回避ページになってしまうのかな。-- 2006年8月14日 (月) 23:58 (UTC)

私見では、「現代音楽」には大きく分けて3つの使われ方があります。1つ目は「(歴史の時代区分としての)現代の音楽」。どのあたりからをもって「現代」とするかは、人や時代によって違います。2つ目は「(時代区分を考慮しない)現代の音楽」。「昨今の音楽」「最近の音楽」と言い換えてもよさそうなものです。どちらの立場においても100年前の書籍に登場する「現代音楽」と、今年出版された書籍に出てくるそれとでは、指すものが異なったものになるはずです。
3つ目は「(現代の音楽の中でも今の視点から見て)前衛的な音楽」。吉松隆の「現代音楽撲滅協会」をはじめとする「反現代音楽」の潮流や、「現代音楽とは無縁の音楽」「現代音楽ではない」などといった言説を記すためにはこの3つ目の定義は必要不可欠です。もちろん、何をもって「前衛的」とするかについても人や時代によるでしょう。クラシックCD総合カタログ2004年版』(音楽出版社)において、「コンテンポラリー」の項目にヴァレーズ(1883-1965)、ウェーベルン(1883-1945)、アイスラー(1898-1962)が入り、ストラヴィンスキー(1882-1971)やプロコフィエフ(1891-1953)が入っていないのも3つ目の定義が関与しているからだと考えられます。なお後者の二人もかつては「前衛的な傾向の作曲家」と認知されていました。今でもそう考える人はいるはずですが、その割合は昔よりは少なくなっていると思われます。
以上の「3つの使われ方」は対象の音楽が「クラシック音楽」であることを前提としたものです。ポピュラー音楽に使われることもあります。例えば、諏訪淳一郎『ローカル歌謡の人類学――パプアニューギニア都市周辺村落における現代音楽の聴取と民衆意識』(弘前大学出版会)。Nattilv1 2006年8月16日 (水) 17:23 (UTC)

その他の話題

:最近余りにも作曲コンクール出身者による名前が多いです。コンクールと言えども作曲の価値は絶対ではないので控えめにした方がいいですね。(菅野茂)以上の署名の無いコメントは、195.93.60.133会話/whois)氏が[2006年4月2日 (日) 20:56]に投稿したものです(Aotakeによる付記)。

まずここは一般論だけにしておいてで国別の項目はそのまま別枠に移した方が良い。以上の署名の無いコメントは、195.93.60.133会話/whois)氏が[2006年8月4日 (金) 21:24]に投稿したものです(Aotakeによる付記)。

映画音楽やアニメ音楽のバランス上の割合が相当大きいので、何も知らない人は現代音楽はこういうものと思い違いしてしまう可能性があります。国別の項目のようにリンクで移した方が良いと思います。--195.93.60.133 2007年1月12日 (金) 19:58 (UTC)

改稿の提案

秀逸な記事の再選考を提出し、その後の改善を期待していましたが、間久部緑郎さんがご指摘のように、記事は依然として冗長な肥大化を続けています。秀逸な記事から取り除くきっかけを作った手前、やはり放置はよくないと思いますので、ここで全面改稿の提案をしたいと思います。前に発言した時にも述べましたように、私は現代音楽には詳しくありません。ですから、私にできる作業は、現在の記述の整理となりますが、加筆能力のある方のご協力をぜひお願いいたします。以下に整理案を提示しますので、ぜひぜひご意見をお寄せ下さい。修正意見がつかなくなって1週間たったら、合意に至ったものとみなし、実際の作業を実行したいと思います(合意に至れない場合は、ある一定の段階で改定案を決定して投票となると思います。)Aotake 2006年9月19日 (火) 17:11 (UTC)

整理案

  • 全体の構成を整理
    • ノートページでのいままでの議論を受けて、地域ごとの記述は分割し、別項目とする。新しく立てる記事は以下の通り。なお必要であれば、さらに国別の項目を作成も検討。
      • アジアの現代音楽
      • アメリカの現代音楽(アメリカ大陸の現代音楽?) -> 北アメリカの現代音楽、南アメリカの現代音楽
      • アフリカの現代音楽
      • オセアニアの現代音楽(現在内容がないので立項にはまだ至らないかもしれません)
      • ヨーロッパの現代音楽
    • 「現代音楽」の記事は、Ks aka 98氏の2006年7月15日 (土) 16:50の発言をベースとして以下の構成をとる。
      • 本記事での定義(他の著名音楽事典とある程度整合性を持たせた上で、本記事で扱う範囲をしっかりと提示)
      • 歴史的展開(最初に生まれた動き(近代音楽との関連)から、特に盛んに活動が行われてきた地域・時代を順に概観)
      • 基本的な方向性(ここが一番難しいと思いますが、全体として現代音楽がどういう特徴をもって展開してきたのかを概観)
      • 代表的な手法(絶対に外せないタームの記事へのリンク。必要に応じて数行以内の概略や代表作品1、2点をあげてもよい)
      • 他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響(実際の執筆の展開によっては、「歴史的展開」や「基本的な方向性」に吸収されうる?)
      • 地域別議論へのリンク(1パラグラフ程度の概略は付してもよいか)
  • 文章のブラッシュアップ。具体的には検証が難しい記述(主観的な批評など)は削除するか、一意見であることを明示。また現在蔓延している現代音楽に馴染みのない人の記事理解を妨げる修飾句類(「あの国際的名声の」など)や、いきなりの固有名詞への言及の削除。(細かい表現の修正などは、議論と平行して行っていきたいと思います。)Aotake 2006年9月19日 (火) 17:11 (UTC)
大筋としてはいいと思います。ほかに留意したい点として、
  • アメリカの現代音楽、では大雑把なので、北米の現代音楽、中南米の現代音楽というように再分割、
  • トルコの位置付け。ヨーロッパなのかアジアなのか
という点が挙げられようかと思います。---間久部緑郎 2006年9月20日 (水) 19:34 (UTC)
> 「現代音楽」という用語は、実際に現代音楽を聴いたり理解しようと努める人たち以外にとってもしばしば用いられ、……
という発言からは「音楽史の中の位置づけとしての現代音楽」と「一般的な認識としての現代音楽」の乖離を読み取るべきでしょう。つまり、音楽史の中で記述する場合は必ずといっていいほど時代区分をするのですが、このような立場からは例えば「シェーンベルクは現代音楽だが、(それより後に生まれた)ショスタコーヴィチはクラシックだ(現代音楽ではない)」といったような言説を捉えることができません。人によって〈現代〉意識に差がある以上(柴田南雄はかつて『西洋音楽史 印象派以後』の中でドビュッシーさえも現代的だと思うような聴衆の存在を示唆した)、その点に配慮した記述は必要ではないでしょうか。
なお、同書の中で著者は、「近代音楽」「現代音楽」の区分に関して本来なかったと指摘しています(例えば1936年の「近代音楽祭」ではチェレプニンなど存命の作曲家の作品が演奏されていた)。Nattilv1 2006年9月21日 (木) 03:27 (UTC)
コメントありがとうございます。北米、中南米を分けることは最初の案を提示した時にも考えなくもなかったのですが、「アフリカ」とか「アジア」のレベルと同列にするなら「アメリカ」なのかなと漠然と思って最初の案を作りました。ですが六大州でも南北アメリカは分けるわけですし、現代音楽としてもそれぞれの記事に十分な内容もみこめるでしょうから、ご提案を受けて上の案に修正を加えてみました。トルコの位置づけですが、難しいところですね。いまの編成を活かすならば、「アジア」に入れておいて、「ヨーロッパ」でも若干言及の上、「アジア」に誘導するというのでどうでしょうか?
Nattilv1さんのご指摘ですが、そうすると、例えば、上案で「本記事での定義」としているところを「定義」にかえ、最初に「現代音楽」の異なる定義の主要なものを紹介し、最後に小節で「本記事での定義」を明確にする、ということでしょうか。今の「総論」の第一段落をもうすこしふくらましたようなものかとは思うのですが。Aotake 2006年9月21日 (木) 04:49 (UTC)
Wikipedia日本語版として特定の史観に肩を入れるつもりであれば、定義を明確にすべきでしょう。時代や論者、聴衆によって指す範囲が異なる音楽を誰もが納得できるかたちでがっしり捉えるのはどだい無理な話だと思うのですが。「異なる定義の主要なもの」を列挙する場合、どの時代の書籍まで参照すべきか、また各立場の立脚点を記すことが重要でしょう。柴田は同書の序章で5つの立場を挙げています。
次の点にも注意する必要があるでしょう。これも柴田が指摘したことですが、「近代音楽」「現代音楽」と、それに値する外国語の用語が完全に一致しているわけではなく、それぞれ対象とする音楽の範囲が少しずつ異なるということ(例えば、日本語版wikipedia「現代音楽」からリンクされているドイツ語のNeue Musikは、もともと第一次世界大戦の後に現れたドイツ音楽の風潮に対する呼称)。欧米では「近代」「現代」という言葉の使い分けによって時代を区分する習慣がない(最もこの本の上梓後に変化したかもしれません)こと。Nattilv1 2006年9月22日 (金) 16:31 (UTC)

国別概論の分割について

小節を区切りなおしました。地域別の分割について、いくつか解決しておかなければならない点が指摘されましたので、話し合いたいと思います。

  • Noda,Kentaro氏の編集によって、上の「六大州」を基本とした提案とは別の区切り方が示されました。このような分割の仕方ももちろんありえると思いますが、皆様のご意見はどうでしょうか。
    • 日本の現代音楽
    • 東アジアの現代音楽
    • 東南アジアの現代音楽
    • 西アジアの現代音楽
    • 中央アジアの現代音楽
    • アフリカの現代音楽
    • 北アメリカの現代音楽
    • 南アメリカの現代音楽
    • 北ヨーロッパの現代音楽
    • 西ヨーロッパの現代音楽
    • 東ヨーロッパの現代音楽
    • ロシアの現代音楽
    • オセアニアの現代音楽
  • 境界上にあるなどの理由で、どこに入れるか難しい地域がいくつか指摘されています。
    • トルコ
    • ギリシャ
    • メキシコおよび中央アメリカ …アメリカについては変則的に「アングロアメリカ」と「ラテンアメリカ」という分け方を持ち込むことも可能かもしれません。これとて、問題はありますが。
    • バルト三国 …とりあえず「ロシア」にまとめることには反対しておきます。

Aotake 2006年9月25日 (月) 17:23 (UTC)

総論部分の再構成について

Nattilv1さま、どうもありがとうございます。仰るとおりと思います。異なる立場の列挙については、私も少し勉強してみたいと思いますが、Nattilv1さんがこのノートページでいろいろとご紹介くださっているさまざまな見方は、とても有用かつ面白い情報で、文体を整えてそのまま記事本文に格上げしてもよいのではないかと、私などは思います。もちろん最終的にどこまで取り上げるかという問題はありますが、まずは今まであげてくださったようなものがあがっていれば、さまざまな見方があることの例として十分機能すると思います。一方、本記事で扱う定義を明確にするこについては、Wikipediaの性質を考えると厳密に定義を運用することも難しいわけで、なかなか着地点が見えない気もします。そもそも、モダンと「近代」「現代」の訳語の対応については、音楽に限らず常に問題になりますね。今の日本語版の編成に一番近いのは、コンテンポランとモデルヌで記事を分けているフランス語版でしょうか。英語版のように20世紀の音楽を対象とすることとしてしまい、近代音楽と統合することも一つの策かとも思いますが、実際には難しい作業かもしれません。なんだかまとまらないコメントですみません。Aotake 2006年9月25日 (月) 17:23 (UTC)

図書館で立ち読みした平凡社は、「現代音楽」はラフに傾向に触れて、歴史については二十世紀音楽でした。ただ二十世紀音楽とすると、英語版にある「クラシカル」を訳出しないと、ポピュラー音楽を含める必要が出てきます。「現代音楽」であれば、ポピュラー音楽での使用はほとんど見られないので、最初に軽く触れるだけで足りると思います。--Ks aka 98 2006年9月26日 (火) 06:27 (UTC)
英語版では現在、20th century classical musicとContemporary classical musicといちいち「クラシック」という言葉を入れていることから、日本語版でも「20世紀音楽 (クラシック)」という項目を作るのが1つの方法です。ただし、この用語は柴田によると「音楽様式への顧慮を全く欠いた言葉」だそうです。ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番やプッチーニの蝶々夫人を、「通念としての二〇世紀音楽の仲間」にすることはできないとも言っています。仮に、この項目を作ったとしても「現代音楽」の項目を排除するのには私は反対です。なぜなら「20世紀音楽」を巡る言説よりも「現代音楽」を巡るそれの方がいっぱいあるわけですから。Nattilv1 2006年9月29日 (金) 01:46 (UTC)

ここにあった複数の節をサブページノート:現代音楽/要出典タグの是非とそれを巡る発言へ移動しました。

仕切り直し

各国についてはGFDL違反で削除されたまま、映画音楽が映画音楽へ「移行」されていますが、これも履歴不備と思われるので、ひとまず「2006年9月24日 (日) 23:56の版」へのrevを提案します。

年明けまでは執筆は無理なのですが、グリフィス(邦題『現代音楽小史』/"modern Music:A Concise History from Debussy to Boulez"11版のほうですが)、松平なら手元にあります。書き出し部分については、買ったっきり未読だった『西洋音楽思想の近代』でなんとかなりそうですので、なにかあればちょこちょこ見てはコメントするくらいはできると思います。"Modern Music and After"は、中古の値がこなれてきているので、もうちょっと下がったら、何かのついでに買うかも。とはいえ、30rKs56MaEさん、間久部緑郎 さん、Nattilv1さんらと違って、現代音楽に慣れ親しんでいるわけではないので、誤解などもあると思いますが、よろしくお願いします。--Ks aka 98 2006年9月26日 (火) 16:33 (UTC)

グリフィスのは改訂版でないと、対応できないと思います。--Noda,Kentaro 2006年9月26日 (火) 16:46 (UTC) んー。まあ買ってから加筆でもいいわけですし。俺以外に誰か持ってる人もいるでしょうし。なりゆきで議論に加わってしまったけど、現代音楽本体は興味の対象ではなくて、ポピュラー音楽との関係とか、音楽における近代/現代とか、西洋の音楽観~音楽学史みたいなところで興味を持って、上に書いてあるような本とか買ってるので。改版とか、あと定期刊行物とかまで追うのは別の所でやってるので(大田黒の『洋楽夜話』の加筆には騙されるところだったぜ)、ここでは勘弁してください。--Ks aka 98 2006年9月26日 (火) 17:11 (UTC)

Ks aka 98さん、必要なら、rev.の上、特定版削除の提案をしてください。-- 2006年9月27日 (水) 03:10 (UTC)
revしました。--Ks aka 98 2006年9月28日 (木) 06:47 (UTC)
? どれ?-- 2006年9月28日 (木) 08:53 (UTC)
[現代音楽]--Ks aka 98 2006年9月28日 (木) 08:57 (UTC)
あ、そっちか...-- 2006年9月28日 (木) 14:13 (UTC)

ここにあった節の一部をサブページノート:現代音楽/要出典タグの是非とそれを巡る発言へ移動しました。

サブページ化しました

以下の節および節の一部をサブページノート:現代音楽/要出典タグの是非とそれを巡る発言へ移動しました。 以後関連する議論はサブページを利用してください。ここでは、現代音楽の整理について話を続けましょう。--Ks aka 98 2006年9月28日 (木) 08:31 (UTC)

4.4 ブラッシュアップについて

5 犯罪的編集行為について

6 とにかく

7 話が

8 さっさとくだらない争いは止めにして

9 音楽の素養の無い人々がつまらない編集をすることについて。

10 提案:野田氏の処遇について

11 最後に

多分ここは犯罪者によって編集の実権が握られているのでしょう。——以上の署名の無いコメントは、195.93.60.133ノート/Whois IPv4IPv6)さんが 2006-09-28T14:27:41 に投稿したものです。

Ks aka 98さん、了解です。お疲れ様です。--間久部緑郎 2006年9月28日 (木) 09:24 (UTC)

仕切りなおしますよー

ご意見を伺いたい。

項目単位の区分

とりあえず「現代音楽」「近代音楽」「20世紀音楽」というのがある。とりあえずメインとなるのは、20世紀のクラシック音楽の流れの記述で、手法・技法とか代表的な作曲家とかを傾向や時代などに沿って列挙するということだと思われます。

「現代音楽」には、その語の用法についての話が必須。つまり「1945年以前も含む前衛的なもの」を指す用法の存在とその位置づけに付いては触れる必要がある。『西洋音楽思想の近代』によれば、音楽史学的には「現代音楽」は45年以降ってことになってるらしい。

「近代音楽」て特別な意味があるのか。つまり、「20世紀音楽」を立てて、そこで主な記述をするとしたときに、「現代音楽」は、リダイレクトではなく項目を立てる必要性を感じるのですが、「近代音楽」も必要なのか。

「20世紀音楽」については、「現代音楽」ほど指示内容が限定されていなくて、ポピュラー音楽も含む時代区分のような印象があります。つまり、「20世紀音楽」の項目で、「西洋クラシック音楽の流れにあり20世紀後半から現在に至る音楽」だけを書くのは、クラシックPOVというように感じるのですがいかがでしょうか。もちろんイントロでフォローすることは可能ですし、それに反対するつもりもないです。

ちなみにニューグローブの日本語版(もとは1980の版)は、「現代音楽」も「20世紀音楽」も「コンテンポラリー・ミュージック」も項目になかったです。

あ、えーと前衛的でないこの時代の音楽もここで記述するかどうか確認しておきたい--Ks aka 98 2006年9月28日 (木) 18:21 (UTC)

国ごとの分割

上で試案も出ていますが、いっそ「国別概論」でひとつのページでいいような気がしています。明確な境界がなく、いずれにしても西洋が中心となりますし、まるごと載せてしまったほうが中立性は保てるような。--Ks aka 98 2006年9月28日 (木) 09:57 (UTC)

一つにできるほど、簡略できるような項目じゃないのに、どうしてそういうことを言うのでしょうか?--Noda,Kentaro 2006年9月28日 (木) 12:32 (UTC)

国別は (反対) です。戦後の現代音楽の発展において、たとえばヨーロッパだけでも「パリとダルムシュタット」「メシアン(またはブーレーズ、シュトックハウゼン)門下のイギリス人」というようなある種の国際的・地域的なまとまりがありますし、民族主義の時代の音楽というわけでもないので、国境線にしたがって記事を分割すると、それはそれで整理するのも、記事を読むのも厄介になると思われます。また、現代音楽シーンでは、けっこうアジア系作曲家も活躍していますので、「西洋中心」という発想はこの際やめておいたほうがよろしいかと(東洋思想と前衛技法の融合なんて作品も、いろいろあることですし)。---間久部緑郎 2006年9月28日 (木) 13:30 (UTC)
ん?国別に分割、ではなく、いまの「国別概論」を地域分けせずに「現代音楽」から分割、という提案です。つまり、単位はともかく地域に関する各論は、「現代音楽」の項目から外す。記事名にもかかわりますが、その分割された先でどういう風に区分けするかは問いません。また、間久部さんがおっしゃるような国際的な動きについては、分割先でうまくやってもいいですが、「現代音楽」のなかで触れるべきかとも思います。ある国の中での出来事も、歴史的に重要であるとか、重要な一つのまとまりを形成しているとか言うことであれば「現代音楽」の項目で書かれるのがよいと思います。
本筋から離れますが、現代音楽という区分そのものが西洋的であり、非西洋の国の「現代音楽」というのは西洋化の上に成立しているものです。非西洋の作曲家が活躍していることは存じ上げていますが、「シーン」として見るならば「西洋限定」ではないけれど「西洋中心」であることを脱しているわけではないでしょう。「東洋思想と…」というような作品があること自体「西洋的」です。もちろん、シンガポールの作曲家あるいは現代音楽シーンが、西洋諸国の作曲家あるいは現代音楽シーンに劣る、という意味ではなく。--Ks aka 98 2006年9月28日 (木) 15:19 (UTC)
クラシック音楽が「西洋的なもの」で、現代音楽もその範疇にあるという考え方には異議がありませんが、「西洋<中心>」かといわれると、ちょっと違うと思っただけです。シュトックハウゼンやケージの場合には、西洋人による東洋思想の「発見」という、ある種の西洋中心的な発想があるのも否めませんが、武満や石井真木、タン・ドゥンなどアジア人の場合は、もうちょっとそこら辺をおおらかに克服していて、そういうのが現代音楽シーンに多文化主義の傾向をもたらしてるんじゃなかろうかと。つまり、1950年代とかならパリとか米国東海岸といった「西洋中心」の<軸>があったわけですが、今はヨーロッパの中でもさまざまな潮流があるわけですし、さらにアジア系の作曲家が、異文化を持ち込んでいるわけなので、特定の中心軸という考え方は、現代音楽には通用しないのではないかと思ったのです。誤解させてしまったようですので、コメントしておきます。---間久部緑郎 2006年9月29日 (金) 01:33 (UTC)

移動

本音を言うと、今の版は全部ウィキブックスにでも移動して、ここには新しく、クラシックなんてほとんど聴かないような人にも、その概念を知らせることのできるような、概論を書きたい。-- 2006年9月28日 (木) 13:37 (UTC)

それもいいかもしれません。自分も今の版はどこかに移動し(あるいは思い切って丸ごと削除し)、みんなで少しずつゼロから再建するのがいいかもしれない、と思っていました。---間久部緑郎 2006年9月28日 (木) 14:22 (UTC)
移動先としては、
  • ウィキブックス>音楽>音楽史>現代音楽。移動後に小項目を作り、分割。
  • ウィキペディア内で現代音楽史に移動。必要に応じ、分割。
  • ウィキペディア内の、既存の各項目(作曲家など)に分散して移動。それ以外は、○○派などを作って移動。
などを考えつつ、どうかなあと思っていたんですがね。-- 2006年9月28日 (木) 15:01 (UTC)


「現代音楽」の歴史的位置付けと語の定義

この版に至るまでにはNoda,Kentaro氏の大幅な加筆があってこそですが、全記事中個別の項目ごとに移動できる箇所は、ウィキペディア内の別記事に移動した方が良いでしょう。それ以前の2004年末までには僕も積極的に参加していた経緯があり、項目の分け方なども大まかな初期段階では僕の手が少なからず入っているはずです。そういう意味で個人的には愛着がある記事であり、ウィキブックス等に移動するには忍びない気もします。ここはもう一度、現在のノート冒頭部分で僕が挙げている「些末な情報の整理」について考えてみませんか?どこからどこまでを「現代音楽」の項目として扱うのか。それに含まないレヴェルの記事とはどの程度のものを指すのか、だとしたら移動先はどこか。国別概論で分けるという案には賛成反対も含め様々な意見が出ていますが、僕としても縦割りの国別で分けるよりは、明確な動きのあるグループごとにまとめた方が見やすい気もします。特に西欧や北米以外の地域は、それらのいずれかの場所から影響を受けている場合が多く、国別に分けるよりはいずれかのグループと見なした方が記事の見通しが良くなるでしょう。また初期の編集で目立って見受けられた、ミュジークコンクレートが現代音楽に影響を及ぼしたとやたらと強調している箇所、ここは明らかに異質で目立ちます。(その指摘を受けて加筆したのは僕ですが)映画音楽についてももう少し整理すべきかとも思います。また最大の問題点は、歴史ごとに横割りの視点でまとめた文章がほとんどないと言う事でしょう。概論を加えるのであれば、まず歴史的視点を最初に立てるべきかと思います。30rKs56MaE 2006年9月28日 (木) 23:31 (UTC)

歴史的視点についてですが、以前に紹介した柴田南雄も岡田暁生も「どの時点までが歴史の対象となりうるか」について触れています(柴田『西洋音楽史 印象派以後』16-19頁、岡田『西洋音楽史』218-221頁)。言い換えると、「歴史の対象となりうる時代(歴史を書くためのデータが十分な時代)」と「歴史になりえていない時代(歴史を書くためのデータが不十分な時代)」があるということ(岡田は後者を「現代」だといっています)。そして、前者については、研究が進んで客観的なデータがある程度提出されていますが、後者についてはそうではないため、「大所高所から『歴史的事実』だけを述べるという綺麗ごとは、そこでは許されない」(岡田218頁)ということ。柴田は第一次世界大戦の終わり、あるいは1930年頃までが前者だとし、岡田は1950年前後と考えました(二冊の出版年は柴田1967年、岡田2005年)。
柴田はさらに、ソヴィエトの音楽事情、および西欧側の音楽事情について触れて、これらの現代の作曲家や彼らの作品が時代の淘汰を経ておらず、評価が困難で浮動的であると指摘しています。彼が言うように、古い世代の作曲家の中でも近年(この場合彼の出版時点から見ての近年)「再発見」されたため、評価が一定していない人たち(アイヴズ、レーガー、スクリャービン、サティなど)もいるわけですから。Nattilv1 2006年9月29日 (金) 01:25 (UTC)

「現代音楽」についての歴史的な定義や位置付けですが、「専門家」の定義はいろいろあるに違いありませんが、思い切って戦後以降の流れに限定してしまうべきだと思います。本項目がだらだらしまりなくなってしまうのは、確かにさまざまな現代音楽の潮流を、野田さんなどの作曲家の皆さんが国別にわたって委細を尽くして説明しているといった事情もありましょうが、現代音楽について、日本語版ウィキペディアではどのように定義するという部分が明快でないために、否応なく記述が膨らんでしまうのではないでしょうか。それを感じさせるのが、たとえば「映画音楽」の節です。現代音楽の記事といいつつ、たとえばロマン主義者のコルンゴルトに言及し、かつコルンゴルトのハリウッドにおける影響力を、現代音楽の記事の中で批判するといった、(他の方の表現を借りると)「評論的発言」がなされていますが、これらの部分は「映画音楽や商業音楽に活躍する現代音楽の作曲家」についてのコメントとしては、まったく必要ないものでしょう。

現代音楽の萌芽がどこにあるのかというのは、確かにさまざまな説があり、音楽語法という視点から見るなら、ワーグナーのトリスタンだったりドビュッシーの《牧神》(あるいは《ペレアス》《遊戯》)だったりするわけですが、そういった問題や戦間期とその後のさまざまな揺れ戻し(新ロマン主義、新古典主義、社会主義リアリズム)にひとまず目をつぶって、現代音楽の従来のクラシック音楽では割り切ることのできない非伝統的性格や異質性に限定して記述していくことも必要だろうと思うのです。そうでないから総花的になるのです。本稿での記述としては、過去の「揺れ戻し」や「ぶれ」については、それこそ書誌を挙げて、誰がどのような説を唱えており、一概に割り切ることはできないが、本稿では「現代音楽」をこのように限定し、その視野から記述すると最初に断わってしまえばいいのではありませんか。ただし、他のセクションでも触れられているようですが、「現代音楽」の範疇については、他国語の表現とそれぞれのニュアンスの違い(英語では、[classical] contemporary music; music of our time; new music; music of 20th century )にも目配りするとか、現代音楽の記事の中に、「歴史的位置付け」と「20世紀音楽(または、20世紀音楽の中の現代音楽)」という節を立てるとかで対応していかざるを得ないでしょう。

それから、現代音楽の記事を長くしない方法として、すでに提案されていましたが、他国語版にあって日本語版にない、現代音楽に関する(カテゴリや概念、人物についての)独立した記事を増やしていき、詳しいことはそれぞれの記事に委ねていくという方法でしょうか。自分としては、とりあえず作曲家について増やしていくことでこれに対応したいと思っています。---間久部緑郎 2006年9月29日 (金) 02:03 (UTC)

Wikipediaが「中立的な観点」を保持しようと思うのなら、多くの観点を紹介し、しかもどの立場にも属さないという立場を取るのが必然だと思います。「思い切って戦後以降の流れに限定してしまう」とすれば、主観的だとの批判は回避できないでしょう。「現代音楽の従来のクラシック音楽では割り切ることのできない非伝統的性格や異質性」という記述にも「割り切ることができる」「いや、できない」「異質だ」「いや、同質だ」という議論がありうるはずです。Nattilv1 2006年9月29日 (金) 11:54 (UTC)
追記。こうして書籍にあたりながら議論に参加している私もまた、主観的な記述はいろいろやっているわけで、「客観的な歴史が存在する」と主張する人々(ハンス・エッゲブレヒトの主張に反発する側)からの、ダブルスタンダードとの批判は甘んじて受けます。Nattilv1 2006年9月29日 (金) 12:07 (UTC)
争いがあること(=時代区分)については、いろんな説を列記して、どれが正しいと書かない。記述する上での便宜として、「ここでは」と、主に記述する対象を限定するということでもいかんですか。--Ks aka 98 2006年9月29日 (金) 13:34 (UTC)
横から失礼します。私はここで議論に参加されている誰よりも「ド素人」ですが、ちょっと思うところを。もともとの秀逸な記事から除外されてしまった理由は記事が肥大化した事もさる事ながら、再選考の審議を復習してみると「独自調査の可能性のある文章の削除と瑣末な情報の整理だと思います」という30rKs56MaEさんの言葉に要約されていると思います。評論的表現、過剰な価値判断を含んだ部分や出典がなければ独自の調査とみなされる部分をなくすというのが(将来的に秀逸な記事へと返り咲く事を目指すのであればなおさら)第1に求められているのだと思います。
さらに、注意せねばならないのは、ウィキペディアは現代音楽シーンの最新情報を取り上げる責任も必要もないということです。ある種の文献に則するならば、とくに1970年頃までのいわゆる現代音楽の潮流を傾向別に記述する事はできると思います。1980年代以降は、誤解を恐れずに言えば現代音楽、とくに musique sérieuseのそれは現代美術と同様、アヴァンギャルドなるものへの大衆の興味の喪失とともにいわゆる「クラシック音楽」の世界の表舞台からフェードアウトしていっているように見えます。私に知識がないからかもしれませんが。おそらく80年代以降はクラシックに興味があるひとはたいてい知っている現代音楽の巨人ともいうべき人物がみえづらくなったことも関係あるように思います。もし、私のこの認識が正しければ、ここ20年ぐらいの現代音楽について記述しようとすれば、この人がこれをやってる、あの人があれをやってる、的な記述にならざるを得ず、極めて煩雑になる事は避けがたいと思われます。一番難しいのはむしろ最近10年〜20年の記述をどうするかだと思いますが、どう思われますか?誤っている点があれば具体的に分かりやすく指摘していただければ幸いです。--Pugnari 2006年9月29日 (金) 14:14 (UTC)

Nattilv1さんへ。「中立的な観点」にかかわること、また各説を挙げながら、どれにも属さない立場をとるということは、否定するつもりはありません。いろいろな説を言及しながら、それでなお独自の立場をとればよいということです。ちなみに、現代音楽のうち「(伝統的な音楽で)割り切ることができる要素があるか、ないか」という問題は、たとえば現代音楽をどの年代から(どのようなカテゴリーから)切るか(区分するか)にもよるでしょう。たとえば、現代において交響曲やソナタ形式は崩壊したと主張する説と、まだ有効だと主張する説の場合です。わたくし個人の主観を述べると、交響曲やソナタ形式は、滅びてはいないものの、もはや現代音楽を代表するジャンルではないという考えです。(そもそも、現代音楽に、他の時代のように、時代を代表するジャンルがあるのかどうかと問われると、答えに窮するるところではありますが。)

次にPugnariさんのご指摘とご質問については、わたくしも熟考したいと思いますので、しばらく時間をください。---間久部緑郎 2006年9月29日 (金) 14:44 (UTC)

節が長くなってきましたがどこで区切ったらいいのか分からないのでそのまま追加してしまいます。皆さんがおっしゃっていることはどれもそれぞれにもっともなことと思います。ひとまず、全体の方向性としては
  1. 「現代音楽」の範囲に対するさまざまな考え方自体を紹介する
  2. (1.と不可分ですが)歴史的な観点から「現代音楽」の概念史を記述する
  3. その上で本記事で現象としての音楽活動を取り上げる範囲をはっきりと宣言する
  4. 音楽的特徴や代表的技法などの紹介(総花にならないように相当の注意が必要。個別ページへの誘導を基本とする。)
という流れになっていきそうに見えますが、いかがでしょうか?
なお、本記事で取り扱う現象の範囲の決定方法についてですが、一つには以前に間久部緑郎さんが指摘されていましたが、クラシックポータル全体の構成を考えてみるのがよいかと思います。極論としてはクラシックポータルを通して(西洋)音楽史がカバーできるようになっていればいいわけですから、時代・地域境界付近に位置するものは便宜的にどちらかにいれてしまうことになっても大丈夫ではないですか?(結局それしか方法はないと思いますし。)Aotake 2006年9月29日 (金) 16:04 (UTC)
手前勝手ながら、「現代音楽」を巡る言説の中からいくつかを自分のブログ上でまとめてみました(利用者ページにアドレスを記しました)。まだまだたくさんの著書を使用していくつもりですが、今はここまでで。
Ks aka 98さん、間久部さん 「あらゆる観点からの描写を平等に扱い」と定められている現状、「ここでは」以降で、ある観点からの音楽を詳細に書けば書くほど、(いくら便宜上と断っても)その観点への肩入れにならないでしょうか(だからといって本当にあらゆる観点から音楽を平等に、かつ詳細に記述しているようであれば、本1冊でも足らない量になるはずです。それだけいろいろな立場が提出されているはずなので)。間久部さんの「独自の立場をとればよい」という記述がWikipedia的に解決になっているのかは私にはわかりません。なお、私は「中立的な観点絶対主義者」ではなく、歴史を記述するにあたってはむしろ反対の立場を採っています。Nattilv1 2006年9月30日 (土) 16:52 (UTC)
「中立的な観点」では、<「偏りのない」「中立的な」という言葉についてはいろいろな妥当な解釈がありえます。ですが、ウィキペディアの方針としての「偏りのない記述」が意味するところは「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」というものです。これにはもう少し説明が必要でしょう。以下にそれを示します>として、<「中立的な観点」とは実際にはひとつの観点なのではなく、「中立的に記事を書くことは、どのような特定の観点も全く表明しない(暗に示したり、読者を信じ込ませようとしたりもしない)」というのが正しい、ということになります>と説明を加えています。
また、重要な制限事項として<複数の観点を比較する記事では、少数派の意見について、より広く普及している観点と同じだけの詳細な説明を加える必要はありません。論争を説明する際には、少数の人々が支持する観点が、あたかも非常に広く受け入れられている観点と同じだけ注目に値するかのような書き方をするべきではありません>とされています。
「現代音楽」についての、様々な観点をすべて記述する必要はなく、現代音楽を主題とする、あるいは現代音楽を含む音楽史を主題とする主要な書籍や論文のなかで、現代音楽の様々な観点として挙げられているものを記述すればよいのだと思います。それぞれの観点に沿った時代区分で技法や作曲家に関する内容を繰り返し重複して記述する必要はないと思われます(というか避けるべきだと思います)。また、観点は必ずしも対立している状況ではないように感じます。つまり、それぞれの観点は、これでなければならないと排他的に主張するものではない。
百科事典における歴史記述のためには、特定の観点を採用せざるをえません。そのような歴史記述を拒むいくつかの観点については、その観点を示すに留めざるをえないでしょう。時代区分上の違いであれば、適当な項目を参照する事で内容自体は補えますし、論点を示す際に区分の作り方の説明をするなかで、たとえば大戦間の動向には触れる事になると思います。
といったところから、「それが正しいと暗示したり信じ込ませようとすることなく」記述上の方便として、どれかを採用する事は、可能なのではないかと思っています。「中立的観点」が主に避けようとしているのは、対立する意見間での論争だと思いますし。
そして、どれか一つを便宜上選ぶという際に、三浦信一郎『西洋音楽思想の近代』によれば音楽史学的には「現代音楽」は45年以降ってことになってるらしいということで第二次大戦後を採用する事や、平凡社の音楽大辞典が「現代音楽」はラフに傾向に触れて、歴史については「二十世紀音楽」ということで、これに倣うというのは、アリなんじゃないかと。
「ラフなメモ」も拝読させていただきました。興味深いです。ただし、挙げられている「現代音楽」観は、それぞれの筆者の個人的意見であり、これらを比較検討する事は望ましいことですが、そこからまとめあげられた結果を「現代音楽」の定義として採用する事は、「独自的研究」にひっかかるおそれがあります(個人的には、ひっかかってもノートでの合意がとれればよいと思いますが)。
もう一つのアプローチとしては、「現代音楽」の「現代」とは何時かという観点でしょう。つまり一般的な語彙としての「現代」もまたたくさんの観点が存在するわけですが、「現代音楽」の概念が発生した時期を考えるなら、音楽学が確立し音楽史研究が確固としいた足場を持った19世紀末から様式史をとりこんだ1915年頃、と見る事もできそうです。「ロマン派」という歴史区分がいつごろ成立したのかがちょとわからないんですが。--Ks aka 98 2006年9月30日 (土) 18:43 (UTC)

「現代」は、単に時代区分としての「現代」を指すだけではありません。「旧式のものに対する新しさ」を意味することもあります(例「現代的なファッション感覚」)。モダニズムという用語からわかるように、英語では、modernに「新しい」というニュアンスが強くあり、contemporaryにはそれが薄いようです(辞書にあたって確認)。「現代音楽」もまた、「新しい」あるいは「先鋭的な」という意味合いを持って使われていることが多いのは事実です。今の「現代音楽」の本文も、その特色に一応は触れています(ただし、戦前でも~)。「現代音楽」を前衛的、実験的な音楽と規定する人にとっては、ベニテズが行った「現代音楽」の3分類(伝統音楽、前衛音楽、実験音楽)のうち、一番最初の音楽を排除するような記述を行うことでしょう。とすると彼らは、Ks aka 98さんが書いた「前衛的でないこの時代の音楽もここで記述するかどうか」に否を表明するはずですし、それに対して前衛中心史観排除を主張する人たちは、賛意を示すはずです。

このような場合、どのような書き方にすれば「中立性の確保」が守られるのか、私には答えが見つかりません。「伝統音楽」についても「前衛音楽」や「実験音楽」と同様に扱えば、後者の立場に有利になりますし、それらと等しく扱わない、あるいは言及さえもしなければ前者に有利になるという二者択一ですから。Nattilv1 2006年10月1日 (日) 03:50 (UTC)

どれかに従えば、どれかに従わないことになります。答えがでない、出す事が明らかに困難な選択肢は、少なくとも百科事典の執筆に際しては採るべきではないでしょう。どのように書いても保てない中立的観点をウィキペディアは望んでいるわけではないと思います。大事な事は、争いが生じないように配慮することであって、アクロバット的に解決させる事ではないはずです。とはいえ、ちょっと記述法についての話を続けてみます。
前段の「現代」については、前の投稿の最後の段落へのレスと受け取りました。上で書いたのは、「何時」の重要性です。「新しい」の意味があるとして、それは、「何時」新しかったのか。新しい事に価値が強く付与されたのが「近代」であり、それが音楽においては19世紀末から20世紀半ば過ぎあたりだったと言う形で時代というか歴史時間の中に参照先を作る事ができる(「現代音楽」の項の中で「アルス・ノヴァ」を排除するというか)。で、その頃に新しかったものが「モダン・ミュージック」で、当時から日本では「現代」の訳語も多く使われた。その後反動があったり、様式化されたりして、もはや「今」ではないけれど、モダン時代の音楽およびその様式との連続性が強くある音楽、あるいはモダン時代の精神を受け継いでいるというか新しさを求める意識を今なお持ち続けて生まれている音楽を指して「現代音楽」というような捉え方かな(「様式」という言葉はいいかげんにつかってます)。そして、刻々と更新されている「今」に対して「新しい」ものを記述する事はほぼ不可能でしょうが、そのような立場もありえるでしょう(即興とか)。あまり「現代音楽」という表現は使わないと思いますが。
また少なくとも日本語としての「現代音楽」は、「現代」+「音楽」ではないとして考えてよいのではないかと思います。字義通り現代+音楽とした場合に指す対象として、たとえばKAT-TUNはそこに含まれるかと思いますが、ここでの議論ではそれを想定していないと思われますし、参加していない人達の間でも想定していないと想像できます(想定している人がいない、というわけではなく)。ならば、「現代音楽」というのはまとまったタームとして存在し、「現代」が指す範囲が考察される事はあっても(たとえば<「現代音楽」における「現代」>)、それ自体を議論の対象とする必要はないと思います。
要は、「現代音楽」を調べようと思ってる人にとって使える内容はどれで、フォローしておかないといけない内容は何か、ってことでいいと思うです。
ついでにベニテズの三分類では「伝統主義」。

--Ks aka 98 2006年10月1日 (日) 14:28 (UTC)

「現代音楽」の定義についてですが、まっさきに、「本稿ではクラシック音楽の現代音楽について取り上げる。クラシック以外については、「現代の音楽」を参照。」と書いてしまうことだと思います。実際のところ、現代音楽と聞いて、ポピュラー音楽も含めた「今の音楽」のことだと考えている人や、ポピュラー音楽でいうところの「コンテンポラリー・ミュージック」(例:ブラック・コンテンポラリー)のことだと思っている人も少なくないようです(日ごろをクラシックを聞かない友人数人に確認済み)。
また、現代音楽について、わたくしが「ある時期(たとえば戦後)から区切るべきだ」というのは、あくまで中心(本論)のことであって、序論において、20世紀音楽の諸潮流について語らないわけにはいかないでしょうし、結びにおいて、現代音楽の現状についても、まったく無視するというわけにもいかないでしょう。ただし、それはほんのサワリで充分に違いありません。たとえば現代音楽の先駆者として、ドビュッシー、スクリャービン、アイヴズ、新ウィーン楽派、ヴァレーズ、バルトークについて触れるにせよ、あくまで<どのような面で先駆者だったのか、そしてどの程度まで現代音楽に影響力を及ぼしたのか>に留めるべきでしょう。いずれにせよ注意すべきは、現代音楽20世紀音楽そのものではない、ということです(英語版の作曲家に関するカテゴリには、「20世紀の作曲家」「21世紀の作曲家」というのもありますが)。
現代音楽を語る難しさは、20世紀音楽とからめて考えてしまうからであって、もし必要なら20世紀のクラシック音楽という記事を独立して立て、そこでロマン派音楽の消長や新古典主義音楽の興亡について記述すべきでしょう。ともかく現代音楽の記事では、ショスタコーヴィチロドリーゴプーランクと同世代のケージメシアンが、戦後音楽を創作と教育の両面(またはいずれか)で影響力を発揮したということや、このエピソードが示しているように、現代音楽ではしばしば(または時おり)歴史の「逆流」が起きていて、アドルノのような単純な進歩主義史観(ある時期までがロマン派音楽とその頽廃期であり、ある時期からが現代音楽の萌芽とそのひたすらな発展)というわけにはいかない、ということを付け加えてもいいかもしれません。
ついでに言うと、現代音楽だけでなく、新ロマン主義音楽や新古典主義音楽についても、記事が詳しすぎるようなので、この際、現代音楽とまとめて整理すべきでしょう。---間久部緑郎 2006年10月2日 (月) 12:38 (UTC)
「中立的な観点」の問題に関してご教示いただき、ありがとうございました。この数日、「現代音楽」について触れられている書籍や雑誌などを読んで、かえって、「現代音楽」について語ることが難しくなった、という感を強くしています。もし、私がこの項目について書くのであれば、「現代音楽とは○○を指す」「△△のことである」といった定義をあえて書かずに、かわりに、「現代音楽について、これまでにどういう語られ方があったか」について扱うことにするでしょう。例えば、「現代音楽は難解だ」という言説に対しては、いつからそのようなイメージが形成されていたのか。このような見られ方に対して、作曲家や演奏家、音楽評論家たちはどういう答えを提示してきたのかを書く。定義は個々の読者に委ねればよい、というスタンスです。この立場をとれば、ドラスティックな改稿がなされなければならないので、全面賛成する方は多くないと思います。
以下は、「現代音楽」をきちんと定義しようとする路線を、これからも踏襲していくという前提での指摘なのですが、現在の「現代音楽」の定義は、「時代区分」と「前衛的な音楽」の2つの要素を並列的に配置しているため、「調性をはじめとする従来の音楽様式を否定した前衛的な音楽」が、20世紀前半のそれらも指すのか、それとも「20世紀後半から現在までの範囲内においての前衛的な音楽」なのかわかりにくい面があります。私見ですが、音楽事典の中での「現代音楽」は、「時代区分としての現代音楽」を強調することが多く、それ以外の音楽書、あるいは音楽人、一般人にとっては、「前衛的な音楽」の要素を強調することが多いように思います。Wikipedia日本語版は、どちらを強調すべきだと思いますか。もちろん今のような紛らわしさをあえて残すのも、時代区分を変更するのも選択肢の1つです。Nattilv1 2006年10月3日 (火) 14:58 (UTC)

いい感じに踏み込んでいっているようで、なかなか楽しみなのです。言説で丁寧にやると字数がふくれあがるので、がんばってください。ウィキペディアでは定義なしというわけにはいかないので、そこのところは各論併記がよいと思います。

語義としては「現代」の「音楽」を指すが、ポピュラー音楽に用いられるのは稀で、主にクラシック(なり、西洋芸術音楽なり、~の流れを汲む音楽なり)音楽を対象とする。音楽史学上は1945年以後という時代区分をおくことが一般的になりつつあるが、区分としては第一次世界大戦を境とする意見や(以下略)もあり、語義的に「話者」にとっての「同時代音楽」であるため、戦前から「現代音楽」の語が用いられている例もみられる。他方、一般には20世紀前半にはじまる「前衛的な音楽」全般を指す事が多く見受けられる。時代区分としては20世紀音楽を用いる例もある。欧米においてもコンテンポラリー、モダンの区別は曖昧であり、「現代音楽」を一意的に定義する事は困難である。この項目では、「現代音楽」の概念/言説を解説するとともに、歴史的な記述としては便宜上1945年以後のクラシック音楽の流れを汲む前衛的な音楽を主に扱い、またこの時代の特性としてクラシック以外の音楽との関係などについても触れる事とする。1945年以後の保守的な傾向を持つ音楽については、どこそこなどを、1945年以前については「近代音楽」を参照されたい。

みたいな。ちょっと長いですけど。いちお前衛に限定した記述ですが、保守的なものも含むようにはすぐ直せるはず。あと「記事が詳しすぎる」分にはあとまわしでいんじゃないかと。--Ks aka 98 2006年10月3日 (火) 18:42 (UTC)

今の私が執筆すると、「何をもって音楽が前衛的だ、保守的だと判断されているのか」を巡っても、論者の立場をあれこれ紹介したくなってしまいます(例えば、近年の調性回帰が「保守的」なのかそうでないのかについても、いろいろな意見があるようです。もっともシェーンベルクの頃から議論されていたことですが)。大量の字数でうんざりさせること必定なので、私は本文にはあまり関与しないことにします。その代わりに、「述べられていることの詳細」や「本文の記述に対する異論の存在」などを、註のかたちで示す立場に回りたいと思います。具体的には、「戦前から『現代音楽』の語が用いられている例」には、『現代音楽大観』(東京日日新聞社/1927)、小松耕輔『現代音楽の奔流』(春秋社/1930)などの情報を与えることができます。Nattilv1 2006年10月10日 (火) 17:45 (UTC)

記事を切り詰めるには

どうすべきかという議論もあってよさそうですが、このところ観念論がつづいていて皆さんお疲れじゃありませんか。ちょっとクールダウンしませんか。とりあえず削っても文面に差し障りのない部分を指摘し合って、すぐ削れるところは削りませんか。---間久部緑郎 2006年10月3日 (火) 08:18 (UTC)

たとえば、出版社情報が書いてあったりしますが、これをすぐ削っていくだけでも、字数は減るはずです。---間久部緑郎 2006年10月3日 (火) 08:18 (UTC)
観念論は嫌いじゃないので。申し訳ない。まずは、「各地の現代音楽」とか「現代音楽(地域別)」とか適当なタイトルで今の国別概論を外しておきたい。--Ks aka 98 2006年10月3日 (火) 18:49 (UTC)

他の時代区分に関する記事とのバランス

現代音楽と、それ以外の時代区分に関する記事と比べてみると、やはり現状では飛びぬけて長すぎるということは疑いようがありません。一方、ほかは短すぎるというのも事実です。たとえば古典派音楽の記事は、古典という言葉の定義をめぐるトートロジーが書いてあるのと、古典派音楽=ウィーン古典派との誤解を与えかねない内容(グルックとその世代とか、バッハの息子たち、マンハイム楽派に言及がない)は好ましくないと判断しましたので、そちらを加筆していくことにしました。当面こちらの編集には参加できないと思いますが、提案はしたいと思います。---間久部緑郎 2006年10月3日 (火) 08:18 (UTC)

国別概論をやめて、何にするのか。ヨーロッパでもダルムシュタット講習会(当時は「あれはマフィアだ!」とも言われた。)の信者(たとえばベーマー)、脱会信者(ヘンツェ、チンマーマン)、そして無視する人々(ビアラス)で章立てするのも一考かと。ケージは40歳を越えてダルムシュタットで議論された記譜法を取り入れており、フェルドマンが提起した図形楽譜やバビットのセリー主義が流行ったのはアメリカではなくヨーロッパであり、アメリカの楽壇がアメリカ実験主義を受け入れたわけではありません。

1970年代、ヨーロッパはアメリカ実験主義を「非常に消極的に」認めました。パーチやナンカロウのLPをいまさら聞き込むリゲティとシュターンケの姿はえらい滑稽ですが、その姿を書き込むには「技法」でくくることも必要かと思います。1970年代がなぜ世界的停滞の一因かといわれると、「ショスタコーヴィチの死」だったりするんですよね。--125.205.217.90 2006年10月3日 (火) 21:51 (UTC)

国別概論は、削除ではなく、記事の分量の観点から別の頁にGFDLに則って移動、ですよ。個人的には、現在国別概論に書かれていること、加筆されている事を、まるごととか、大幅にとか、削除することは望んでないので。--Ks aka 98 2006年10月5日 (木) 19:33 (UTC)

「反論」以下の項目はサブノートに移しました。---間久部緑郎 2006年10月2日 (月) 11:55 (UTC)

ここに「バランス」と言う項目があるけれども、Wikipediaである限り永遠に加筆する事ができ肥大していく事には歓迎すべきでしょう。インターネットだからこそWikiは詳しいし最新の情報が手に入りすぐ更新できる。それを消極的ではなく肯定的に受け入れるべきだと思う。我々の使命はまず明らかな間違いを直すということ。このWikiには永遠に終わりはないのだという事ですね。みんなどこかでまとめたがっていますが、システムの性格上弁証法的に又どこがで崩されるでしょう。それはそれで良しとしたいです。要するに決定稿はありえないという事です。Kanno、21.11.06、10:52

国別概論切り分けについて再び

議論がすこし停滞してきましたね。「国別概論」の分割方法については、いくつか意見が出たまままとまっていませんが、まずは現代音楽のサブページとして「各地の現代音楽」として移動する、というのはどうでしょうか。また現在コメントアウトされている代表的な作曲家のリストと近現代音楽の作曲家一覧20世紀のクラシック音楽作曲家一覧(この3つはどこかに統合が必要と思われる)との連動も有効だと思います。

国別概論の内容については、前にも述べましたが、「各地で行われている音楽活動」と「各地出身の音楽家の音楽活動」が混在している現状はわかりにくいです。私の意見では、「各地の現代音楽」のサブページでは「各地で行われている音楽活動」を中心にした記述にしていった方がいいと思います。どこ出身かという情報は、各音楽家の記事あるいは音楽家一覧で補えます。またさまざまな事象について1文程度の情報を羅列することは、全体的な理解を妨げます。「現代音楽」の記事本体および「各地の…」のページでは代表的な事象を取り上げてそれぞれの事象に少なくとも1パラグラフは内容を与え、それ以外の内容については上記の作曲家リストに数行以内の情報を与えることで処理するということはできないでしょうか。このようにすれば、まだ記事ができていない作曲家についても若干の情報を提供することはできますし、「現代音楽」の記事本体の見通しもよくなるかと思います。賛成・反対表明及びご意見お待ちしています。Aotake 2006年10月10日 (火) 04:01 (UTC)

えーっと、ご意見もないようですし、今までの話の流れでおそらく国別概論のサブページ化には異論がない方が多数だと思われますので、作業しますね。総論の議論の進展をたのしみにしています。--Aotake 2006年10月13日 (金) 13:55 (UTC)

Unreferencedについて

お邪魔します。本項目、錚々たる面々が参加しているため詳細は省きますが、Unreferenced テンプレートの置き換え作業で立ち寄りました。何か上手いこと置き換えもしくは除去していただければ助かります。よろしくお願いします。--スのG 2007年2月21日 (水) 04:57 (UTC)

Unreferenced が貼られた昨年9月以来参考文献が示されていることから、Unreferenced をはずしました。コメントアウト部についても除去しました。要出典が貼られていた節にだけ、出典の明記を添えておきました。--スのG 2007年3月30日 (金) 14:04 (UTC)

ドイツ語のU-MusikとE-Musikの出典の明記ですが、あなたもドイツのラジオ・テレビ・雑誌・新聞などを読まれればこのような表記は無数にあります。常識的に独和辞典にも載っています。無駄な出典の要求はしないこと。時間の無駄です。--195.93.60.133 2007年6月2日 (土) 22:09 (UTC)

だったら、具体的に提示して下さい。 -- NiKe 2007年6月2日 (土) 22:36 (UTC)

インターネットラジオなどでドイツ側の放送でも聞いたらどうでしょう。TVだったら世界中の放送を受信できるものがいいですね。トーク番組が多く必ずこういう表現が頻繁に出てきます。でもいつどこで出てくるかはわかりません。すぐ消え去るので捕まえられませんしね。ドイツの音楽大学に聴講生として出席するのも良いですね。普通は聴講無料です。「ポーランド学派」なども同一です。その外新聞・雑誌・本などで調べることができます。具体的も何もどこでもありますよ。でもドイツ語版WikipediaにU-MusikとE-Musikの説明を誰か書いていないでしょうか?--195.93.60.133 2007年6月9日 (土) 19:04 (UTC)

ドイツ語版に詳しくありました。各自の方々調べてください。今後こういうくだらない出典要請は素人の発言として無視することにします。なおあそこの部分の記事を書いたのは私ではありません。誰か他の人です。http://de.wikipedia.org/wiki/E-Musik --195.93.60.133 2007年6月9日 (土) 19:14 (UTC)

なにか勘違いなさっていると思いますが、あの「要出典」はもともと、「この領域の音楽が、最も著作権問題にうるさい音楽になっている」という一文につけられたものです(この編集参照)。その部分に「出典:映画音楽やそのたの著作権問題に関する裁判の記録」を足したのはあなただと思いますが、もうお忘れになりましたか?ちなみに、残念ながら「映画音楽やそのたの著作権問題に関する裁判の記録」ではあまりに曖昧で、普通の学問の世界では出典としては認められないと思いますが、音楽学では違うのでしょうか。--Aotake 2007年6月10日 (日) 00:56 (UTC)

要出展タグはBOTで貼られることがほとんどです。貼っているほうは何もわかっていません。出典として認めるか認めないかは、専門外のAotake君ではわからないはずです。--畢竟 2007年6月11日 (月) 16:23 (UTC)

「要出典」は昨年の8月に私が貼りました。BOTというシールを貼っていただいてもかまいません。A型のある人間が、誰かからB型だと決めつけられようが、その人物にとって困る問題ではない、というのと同じ理屈です。
「映画音楽やそのたの著作権問題に関する裁判の記録」というまるで具体的ではない記録でよければ、私もいろいろな現象を「裁判の記録」で論じられます。畢竟さんはそれでよいと思っている方なのかもしれませんから、以下は他の方に向けて書くつもりです。
「最も著作権問題にうるさい音楽」という現象を「立証」するには、いくつかの説明方法が考えられますが、例えば、裁判件数を、他の音楽分野と比較して多いことを挙げて「うるさい」と説明できるかというと、無理です。理由は分かると思います。また、個々の事件に立ち入って著作権問題が生じた事情、あるいは裁判の判決文を探るということだけでも無理です。
話は大きく変わりますが、私はまだ「現代音楽」をめぐる言説について追っているのですが、今の「現代音楽」の文章にある、「西洋クラシック音楽の流れにあり20世紀後半から現在に至る音楽」「一部の先鋭的な作曲家や潮流は現代音楽に含む意見もある。さらに、新ヴィーン楽派の無調以降だがしかしヒンデミットやオネゲルらの後発音楽は近代とみなす」という文章がどこから出てきたのか、いまだに分からないでいます。第二次世界大戦後だの、1945年以降だのはありますし、「20世紀の音楽」について論じた音楽史の教科書の中に、「19世紀末の作品も、近代性を持っている限りは、20世紀の音楽に含み入れることになる」(門馬直美『西洋音楽史概説』春秋社)という説明のしかたがあるのは確かです。ですが、直接的なものがなかなか見つからないのです。
特に、「……後発音楽は近代とみなす」という文章がどこの文献に書かれているのか――ご存知の方は教えていただきたいと思います。--Nattilv1 2007年6月12日 (火) 13:59 (UTC)

オネゲルはクセナキスを半ば破門のような形で追い払ったために、現代音楽組には入れてもらえなくなったのが真相ですね。ヒンデミットはボリスなど確かに多くの弟子がいたのですが、その弟子がほぼヒンデミットの模倣に留まった為、現代音楽組に入れないという見解が多数ですかな。要はエクスペンタリズムに誰から誰まで入れるか、という事です。--Dreme 2007年6月23日 (土) 06:26 (UTC)

あの出典のはりかたはU-MusikとE-Musikの言葉の出所に付けられたとしか思えないですね。そうでなかったらいいですが。

いわゆるヒンデミットらが近代音楽にいれる方法について。様式的に印象派・原始主義・新古典主義に近いものですので、欧米の多くの演奏家試験などでこれらのレパートリーを現代ではなく近代として扱う傾向が強まっています。オネゲルやコープランド・オルフなども同様です。要するに演奏・鑑賞が無調よりも楽なので現代音楽とみなさないということです。また現在でも誰かがニ長調のソナタを書いたならば、ロックンロールなどのポピュラーがそうであるように、現代音楽として研究されることは普通はありません。この方面で良く問題となるのはむしろ「前衛ジャズ」の方面でしょう。--195.93.60.133 2007年6月23日 (土) 22:53 (UTC)

私は日本語の紙文献でU-MusikとE-Musikを何回か見ております(最初に見たのは『音楽芸術』だったと思います)。「うるさい」ということを学術的な点から確かめられるのは、たとえば、ドイツ著作権法の研究者ではないでしょうか。
私は「現代音楽」には3つの用法があると上で書きました。1つ目は時代区分に関することであり、それによって、「現代音楽」と「ロマン派音楽」「近代音楽」などを区分することができます。3つ目は端的に言えば音楽の様式に関することであり、これによって「現代音楽」と「現代音楽でない音楽」を分けることができます。ここからが重要なことなのですが、3つ目の用法において、「現代音楽でない音楽」――「保守的な音楽」だとか「調性音楽」だとか、人によって答えが少しずつ違うでしょうが――を「近代音楽」だの「ロマン派音楽」だの「ルネサンス音楽」だのに入れるのは正しいことなのでしょうか。特に、「近代」という用語は(欧米のmodern系の用語にも言えますが)、もともと「新しい」というニュアンスを「現代」よりも帯びていた言葉です。例を挙げると、宮下誠は『20世紀音楽』(光文社新書)の序文で、吉松隆の「交響曲第5番」について、「聴いた人はこれを現代音楽とはいわないはずだ」(12頁)と言っていますが、だからといって、彼のこの作品を「近代音楽」の項目で説明してよいのかということです。「近代音楽」の項目で、「近代音楽らしい音楽」と定義し、それより後の時代の音楽についても説明した辞典を、私は見たことがありません。
「現代音楽」について考える場合は、時代区分に関することと、様式に関することは峻別しなければいけないと思うのですが。--Nattilv1 2007年6月24日 (日) 00:54 (UTC)

現代においてそのような保守的な音楽を作曲した場合、ほとんどの作品が重要でない聴く価値が無い物です。吉松隆をあげれられましたが、海外においては全くの無名です。ラジオでも全く流れた事もありません。まあ西村朗も同様ですが。日本で騒がれているじゃらといって国際的に通用するとは限らないのです。例えばウイルヘルム・キルマイヤーも同様でしょう。ここでは知名度ではなくどれほど普遍的に重用かも加味して書かれているとおもいます。でも書いて良いならば、糞味噌混ぜて書いても良いのでしょうが。今時バロック音楽を作曲する人もいます。柴田南雄はそれを作曲行為とはいわずに西洋音楽演習といってましたが!--195.93.60.133 2007年7月4日 (水) 21:27 (UTC)

歴史を学んでいれば、保守的だの、折衷的だのとして軽視、ないしは否定された人物が、後の世代には評価されるという話をいくらでも耳にするはずですが。195.93.60.133さんは具体的な人物を何人か挙げられる方だと思います(そうでないのでしたら、次回私が出しますが)。また、上で私がほのめかしましたが、「何をもって音楽が前衛的だ、保守的だと判断されているのか」ということをめぐっては、論者によって意見が異なっているのです。すぐ後に「シェーンベルクの頃から」と書きましたが、これを読んだ人の中には、彼の「革新主義者ブラームス」という文章を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。「前進しようとする態度自体が、……もはや伝統になってしまった前衛の様式そのものに他ならない」と書いた人もいます(松平頼暁『現代音楽のパサージュ』青土社、238頁)。
「Unreferencedについて」という項目で、出典とあまり関係のことを議論するのは問題かもしれないので、どこかで区切らないといけないですね。「現代音楽」の歴史的位置付けと語の定義 再び」みたいな項目がいいかもしれません。--Nattilv1 2007年7月5日 (木) 12:47 (UTC)

:保守と前衛の区別ですね。ここでは常識にしたがって、音大の音楽史に定義された区分にしております。それ以外の定義も無数にありますが、混乱の元になりますので控えた方がいいでしょう。「否定された人物が、後の世代には評価される」ということはないわけではないですが、ただ単にすぐに記事にしてしまうのではなく、検証の可能性や音楽史教科書への追加などの考慮も含めて慎重に検討すればいいとおもいます。そのためには急ぐのではなくある程度の時間:一年とか二年とかです、も必要と考えます。というのはこの種の発掘は特に日本では単なる「流行」に終わる事が覆いからです。検証の可能性は外国語版も必ず検討されることを希望します。日本でだけ騒がれていても海外では全く通用しない記事も無数にあるからです。松平氏の文章はある程度比喩的と捕らえております。全く無視するわけではありませんが、他の作曲家の文章なども合わせて参考にすべきでしょう。松平氏は自分なりに評価して嫌いではありませんが、作曲家として海外でもかなり「無名な存在」であるのは今も昔も代わりありません。必ずどんな権威でも最初は疑ってかかる事、これが第一でしょう。本に書いてあるからといって何でもむやみに信じるのはかなり危険です。間違いも印刷された例は無数にあります。もうここは長くなったので古いのは倉庫に移した方がいいですね--195.93.60.133 2007年7月16日 (月) 19:29 (UTC)

「現代音楽」のドイツ語表記、英語表記の記述について

ドイツ語では「Neue Musik」、英語では「20th century classical music」と表記されるようにその定義も非常に曖昧であり、他の時代の西洋音楽史の区分のように、様式によって区分されたものではない。

「現代音楽という用語が、様式によって区分されたものではない」の下りは問題ありません。しかし、「英語では~と表記される」と断定的に記述してしまうと、現代音楽という日本語に対応する英語が"20th century classical music"であるかのように読者を誤解に導いてしまう恐れがあり、問題があるような気がします。もちろん英語版の項目名である"20th century classical music"でも間違いではないのですが、一般的には"contemporary music"などの方が広く使用されているのではないでしょうか。論文サーチエンジン Google Scholar での検索結果でも、

"20th century classical music" - 30件
"contemporary music" - 17,200件
"contemporary classical music" - 278件

と、学界でも"comtemporary music"が多く使われています。といっても、定義の曖昧性を説明するためにドイツ語や英語での表記を挙げるのは有意義だと思いますので、

  • ドイツ語では「Neue Musik」、英語では「20th century classical music」などと表記されるように~

と言葉を濁すか、または少し格好悪いですが

  • ドイツ語版ウィキペディアでは「Neue Musik」、英語版ウィキペディアでは「20th century classical music」と表記されるように~

のように参照元をはっきりさせる方が親切だと思います。--Occhanikov 2008年8月2日 (土) 15:28 (UTC)

全くそのとおりだと思います。さらに良きように、加筆願います。--マウリシオ・ハーゲル 2008年8月3日 (日) 13:51 (UTC)
ドイツ語ではZeitgenössische・Musikという言い方もあります。--79.233.173.112 2008年8月3日 (日) 21:07 (UTC)
平凡社の『音楽大事典』の「現代音楽」を開くと、そこには英語、ドイツ語、フランス語でそれぞれ複数の「日本語の“現代音楽”に一致しそうな用語」が載っています(Musik der Gegenwartやmoderne Musikが列挙されていますが、Neue Musikは記載されていません。この用語の背景については上で書きました)。そして、「上記各国語に相当する語であるが、その指すところは一定していない」としています。「現代音楽」という日本語にきっちり対応する外国語がない問題については、上の柴田『西洋音楽史 印象派以後』12-16頁も参照してください。--Nattilv1 2008年8月6日 (水) 11:52 (UTC)
追加。「現代音楽」を「20世紀音楽」と同じように定義する考え方は当然ですが、前世紀の出版物に頻繁に見られました。今世紀に出版された『音楽中辞典』(音楽之友社)にも、「20世紀の音楽全般をさすこともある」と。--Nattilv1 2008年8月6日 (水) 12:14 (UTC)

過去ログ化

前の質問から5年以上たっているので、誰か過去ログ化してください。わたしは過去ログ化のやりかたがわかりません。162.243.22.167 2013年9月29日 (日) 19:02 (UTC)