ノート:海軍三長官

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「海軍三長官」という言葉は独自研究ではないか?[編集]

本記事の主題となっている「海軍三長官」という言葉ですが、「陸軍三長官」という言葉に引きずられる形で、主にウィキペディアにおいて造語された用語、即ち独自研究ではないか、という疑問を持っております。

以下に根拠を述べます。

(1) 「陸軍三長官」は、確かに存在する言葉である。

  • 「陸軍三長官」という言葉は多数の文献に見られるが、WP:RSを満たす出典を一つ挙げると、
秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。 
「第5部 陸海軍用語の解説」(705- 708 778頁)に「三長官会議(陸軍)」が立項されている(736-737頁)。同項目に「陸軍大臣・参謀総長・教育総監の3人を陸軍三長官と呼んだ.」と明記されている(太字、ピリオドは原文のママ)。
  • 帝国陸軍部内で「陸軍三長官」という言葉は使用されていた。WP:RSを満たす出典を一つ挙げると、
上聞案(関東軍ノ状況ニ就テ) 昭和6年11月7日 陸軍大将白川義則、電報(案)他”. アジア歴史資料センター レファレンスコード C12120030500. 2018年1月10日閲覧。
昭和6年11月7日付の「上聞案(関東軍の状況に就て 陸軍大将 白川義則」という文書ですが、「陸軍三長官の依嘱に依り・・・」と書きだされています。

(2) 一方、語感としては「陸軍三長官」とよく似ている「海軍三長官」は、私はウィキペディア以外で見たことがありません。

(3) 本記事の初版(2009年10月4日 (日) 03:01 UTC)には出典は付されておりません。初版を投稿なさった利用者:小川尚明会話 / 投稿記録 / 記録氏に、2017年10月30日にお伺いを立てましたが(差分)、現時点ではウィキペディアで活動しておられないようで、ご回答を得ることは出来ませんでした。

(4) 本記事では、初版の投稿から現時点までに、4件の参考文献が具体的な参照箇所を示さずに追加されております。

このうち「野村実 『山本五十六再考』 中公文庫、1996年」は手許にありますのでざっと確認しましたが
本記事の一文「昭和期においては海軍の方針や最高人事に関しては、伏見宮の同意を得るのが慣例となっていた」
の出典となりえる記述が89頁にあります。ここでは、陸軍大臣、海軍大臣の後任を決める手続きについて陸軍と海軍の違いを述べ、陸軍については「いわゆる三長官会議」という言葉を使って説明しておりますが、海軍については「海軍三長官」「(海軍)三長官」という言葉は用いておりません。
他の3つの文献(いずれも、吉田俊雄氏の著書)は確認できておりませんが、手元にある同氏の著書「『良い指揮官 悪い指揮官』光人社NF文庫、1999年」は、14人の海軍高級士官について論じるにあたり、冒頭で「永野修身(海軍大臣・軍令部総長・元帥)」として、「海軍三長官」を全て経験した唯一の人物である永野修身元帥に20-39頁を割いておりますが、「海軍三長官」「(海軍)三長官」という言葉は一度も使われておりません。

(5) 「海軍三長官」を「アジ歴」で検索すると、1件だけ検索結果がありましたが(レファレンスコード B11090476300)、どうも、米国の国務長官・陸軍長官・海軍長官の3つを「三長官」と表現した文書のようです。帝国海軍部内で「海軍三長官」という言葉が使われていたことは、アジ歴の史料からは確認できません。

(6) 手許にある他の文献を参照しますと

雨宮孝之 雨倉孝之『海軍アドミラル軍制物語』光人社、1997年」の43頁
GF長官、海軍大臣、軍令部総長、軍事参議官・・・を指して「およそ、海軍のなかの、これは最高のポストに分類すると考えられる職」
山口宗之『陸軍と海軍-陸海軍将校史の研究』(増補)清文堂、2005年。 」の29頁
(永野修身元帥について言及し)「海相・総長・長官を歴任し海軍軍人の最高峰をきわめた。」
といった記述が見つかりました。

(7) 結論として、本記事の主題である「海軍三長官」という言葉そのものが独自研究であり、WP:NORに抵触するのではないかと考える次第です。皆様のご意見を伺いたく、よろしくお願い致します。--Pooh456会話) 2018年1月10日 (水) 11:21 (UTC) / 修正--Pooh456会話2018年1月10日 (水) 18:14 (UTC)[返信]

昔、記事ができてるのを見て形式が整っていないので定義自体の妥当性は確認せずに、加筆しました。今見るに怪しい記事ですね。吉田俊雄の三冊の参考文献は、列挙された3つの職の内容について加筆する資料としたものです。今ざっと見た限りでは、三長官という単語は出てこないと思います。これは感想ですが、海軍で「長官」というと司令長官の略称であって、スタッフ系の総長や軍政系の大臣を「長官」と呼ぶのは違和感覚えます。
「海軍三長官」が出てくる本として一応以下は見つけましたが、本項目の立った後に刊行された雑学書の類で信頼できる情報源に値するか疑問。おそらく本項目を参照して本を書いてしまったのではないかなという気がします。後者は一応、一般向けの歴史雑学本をたくさん書いてる人ですが、海軍史の専門家ではないようです。
  • 山北篤, 福地貴子『図解 組織・結社』新紀元社、2014年
  • 川口素生『太平洋戦争 海軍提督100選』PHP研究所、2015年
ただし、海軍大臣・軍令部総長・GF長官をまとめて「海軍三顕職」という用語はあるように思います。例えば、Pooh456さんの挙げている雨宮孝之雨倉孝之『海軍アドミラル軍制物語』光人社、1997年の文庫版である『帝国海軍将官入門』光人社NF文庫、2015年、262頁に「“海軍の三顕職”をぜんぶ経験した永野修身元帥」、276頁に海軍大臣を指して「さすがは海軍三顕職」という用例があります。項目削除よりは改名のほうが適当かもしれません。--Snlf1会話) 2018年1月11日 (木) 15:41 (UTC);訂正--Snlf1会話2018年1月12日 (金) 14:21 (UTC)[返信]
Snlf1さん、詳細なコメントを頂き、加筆の経緯をご教示下さり、厚く御礼申し上げます。このウィキペディアの記事「海軍三長官」が立項された後に出版された書籍で、この記事を見て書かれたと推察される例が二つある、というご指摘は重要ですね。
さて、Snlf1さんのご指摘の通り、雨宮孝之 雨倉孝之氏の著書に「海軍三顕職」という表現が用いられております。そこで、海相・軍令部総長(海軍軍令部長)・GF長官を経験した人(日露戦争の終結の後)について、中将進級以降の履歴を
一覧表
にしてみました。
  • 3つの職を全て経験したのは永野修身のみであるが、2つ経験した人はかなりいる。特に、GF長官→総長の例は多い。「雨宮孝之 雨倉孝之『海軍アドミラル軍制物語』光人社、1997年」の「総長と長官どっちが上?」節の190頁には、昭和期の軍令部総長とGF長官をまとめた表が掲載されていますが、昭和期の総長8名のうち5名が、GF長官→総長であると述べています。
  • 海相と総長については、平時においては、退任後に他の重要ポストには就かず、軍参→離現役となるのが例で、いわゆる「上がりポスト」です。これは陸軍三長官(陸相・参謀総長・教育総監)も同様でした(陸海軍総合事典でざっと調べました)。現代の官界ですと、例えば警察庁では警察庁長官と警視総監が「上がりポスト」です。
  • 一方、GF長官のみを経験した人の履歴を見ますと、GF長官退任後に他の重要ポストに就いてから軍参→離現役となった人が多い。つまり、GF長官は「上がりポスト」ではない。
  • 既述のように、GF長官→海相・総長の履歴は多数の例があるが、その反対の、海相・総長→GF長官の履歴は永野修身の1例のみ(「阿川弘之『米内光政』新潮文庫、2002年」の232頁には、永野修身海相が退任して米内光政GF長官が海相になった時の記述として「彼が二か月で去った聯合艦隊司令長官のポストは、永野修身大将がお手盛りで引き継いで、出港延期中の旗艦陸奥に着任した」とあります)。
  • 海相と総長は、GF長官よりはっきり格上のポストであった。
と言ったことが読み取れるように思います。
一覧表を見ると、横鎮長官を経た人が目につきます。これについては、「雨宮孝之 雨倉孝之『海軍アドミラル軍制物語』光人社、1997年」の「"栄転ポスト"横鎮長官」節(117頁‐119頁)で、データを示して「横鎮長官が出世ポストであった」と述べられています。
さて、「海軍三顕職」に改名して記事を存続させるとすれば、例えば「条約派」「艦隊派」のように、
「帝国海軍部内でそういう言葉が使われていた、あるいは同時代のメディアでそういう言葉が使われていた訳ではないが、現代の歴史家の間で一般的に使われている」
なら問題ないと思います。歴史用語の多くがそういうものです(例:江戸時代に「江戸幕府」という言葉はなかった)。
ただし、私の知る範囲では、そのような状況ではないように思いますが、いかがでしょうか。--Pooh456会話) 2018年1月13日 (土) 10:31 (UTC) / 修正 --Pooh456会話2018年1月13日 (土) 17:19 (UTC)[返信]
あせって結論を出すこともなかろうと思いつつ、とりあえずコメントです。
「海軍三顕職」への改名の当否について、ポイントの一つは雨倉孝之(雨宮孝之ではない)の著書以外にのどの程度用例があるかだと思います。見かけた記憶はあるので調査を要するところ。
この三職を別格とする評価があるか。これはこのノートで海軍人事の研究をして決めるのではなく、戦前当時の人の評価や既存の研究でどう見られているかという問題かと思います。この点、Pooh456さんの援用する『日本陸海軍総合辞典』の主要陸海軍人の履歴の採録基準を見ると、「2、陸軍三長官、海軍大臣、軍令部総長、連合艦隊司令長官経験者全員」というのがあり、同書では陸軍三長官に比肩する特別な地位と評価されているようです。
陸軍三長官会議のような何らかの役割があるか。まとまりとしての役割がないと、たとえ海軍三顕職という用語はあっても独立項目としてもあまり書くことはなく、各職の記事に「海軍三顕職の一つに数えられる」と書き足せば十分ということもありうる。程度によりますが、削除の方針の「百科事典的な記事に成長する見込みのないもの。」に当たるかもしれません。--Snlf1会話2018年1月14日 (日) 10:42 (UTC)[返信]
  • 用例が多いわけではなさそうですが、山北篤『図解 組織・結社』(新紀元社,2014)[1]、小林久三『光と影 奇骨の参謀黒島亀人の生涯』(光人社,1989)[2]のように用例の存在自体は確認でき、後者はWikipediaでの立項の20年前に出版されています[3]。--Simasakon会話2018年2月7日 (水) 11:38 (UTC)[返信]
Simasakonさん、議論への参加、ならびに情報提供ありがとうございました。さっそく、小林久三『光と影 奇骨の参謀黒島亀人の生涯』を読んでみます。Snlf1さんは現実世界でご多忙の様子ですね。--Pooh456会話2018年2月7日 (水) 12:39 (UTC)[返信]
報告
(1)小林久三『光と影 奇骨の参謀黒島亀人の生涯』(光人社、1989年)を確認しました。同書の89頁に「永野は、海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部総長の、いわゆる海軍三長官を歴任した唯一の人である」とありました。
ただし、以下の理由から、「海軍三長官」という百科事典の記事の出典としては不適切であると思われます。
  • 著者の小林久三氏は小説家であり、元海軍士官、歴史研究者、もしくは海軍史家とされる人ではない。
  • 読んでみれば分かりますが、この本は黒島亀人を主人公とした小説である。
  • 小説は、百科事典の出典にはなり得ない。(国語辞典を編纂する際の「用例」としてなら別ですが)
(2)山北篤『図解 組織・結社』(新紀元社、2014)も確認しました。この本は、古今東西の様々な「組織」について、見開き2ページで解説している本ですが、54-55頁が「No.023 大日本帝国海軍」、56-57頁が「No.024 大日本帝国海軍編制」となっております。「No.023 大日本帝国海軍」では、「海軍三長官」という言葉が4回使われております(うち1回は見出し)。
ただし、以下の理由から、この本も、「海軍三長官」という百科事典の記事の出典としては不適切であると思われます。ウィキペディアで記事「海軍三長官」が立項された後に出版された本ですが、そのことを無視しても、です。
  • 本書には、著者の山北篤氏の経歴についての情報は全くありません。仮に、ウィキペディアに立項されている「山北篤」と同一人物だとしますと、「元海軍士官、歴史研究者、もしくは海軍史家」に当たる人でないのは明らかです。
  • 読んでみれば分かりますが、この本は典型的な「雑学本」である。
  • Wikipedia:井戸端/subj/「公刊された出版物」イコール「信頼できる資料」なのか?」で議論されていますが、このような本は百科事典の出典としては使えないでしょう。
  • なお、この本の帝国海軍に関する部分(「No.023 大日本帝国海軍」「No.024 大日本帝国海軍編制」)には、一目で分かる誤りが2か所あります。
(1) 「No.023 大日本帝国海軍」の「役所としての海軍は、陸軍よりややこしい構成になっている。大元帥たる天皇に直属する役職が多数あり、しかもそれらの間に命令系統があるためだ」←帝国陸軍でも帝国海軍でも多数の親補職が存在しました。親補職の数は、師団長以上の部隊指揮官が全て親補職となる陸軍の方が海軍よりだいぶ多かったはずであり、著者は「親補職」について理解していないようです。
(2) 「No.024 大日本帝国海軍編制」の「駆逐艦は小さいので、駆逐隊の隊長(所属駆逐艦の艦長の1名がなる)が他の艦の艦長と同格とみなされる」←駆逐隊の指揮官は「司令」です。「雨倉孝之『帝国海軍士官入門』(光人社NF文庫、2007年)の98-102頁「操艦の名人」によると、大尉の最後年、少佐、中佐の前半で駆逐艦長・水雷艇長、中佐の後半から駆逐隊司令になることができ、中佐で「所轄長」になれるのが水雷屋の魅力であった・・・とのことです。駆逐隊司令が駆逐艦長を兼任する辞令が出た例はないと思われます。
--Pooh456会話2018年2月15日 (木) 15:58 (UTC)[返信]
  • 小林久三の本に「いわゆる」とあるように要するに俗称なのでしょうね。ただ、ウィキペディアにおける造語ではないのでしょう。この分野を専門としているわけではないので見つけた用例を挙げるにとどめますが、「海軍の三長官」として、秦郁彦『昭和史の軍人たち』[4]、北村恒信『「戦前・戦中」用語ものしり物語』[5]、川口素生『太平洋戦争 海軍提督100選』[6]、「海軍三長官」として、古村治彦『ハーヴァード大学の秘密: 日本人が知らない世界一の名門の裏側』[7]というものもありました。--Simasakon会話2018年2月15日 (木) 23:41 (UTC)[返信]

(インデント戻します)Simasakonさん、いろいろとお調べを頂き有難うございました。現在までに判明したところによりますと、

  • (1)ウィキペディアに本記事が立項される前から「海軍三長官」という表現が存在したことは小林久三『光と影 奇骨の参謀黒島亀人の生涯』(光人社、1989年)で明白であり、「海軍三長官」はウィキペディアの造語ではない。
  • (2)ただし、「海軍三長官」の用例は、「永野修身は海軍三長官を全て経験し~」と言った文脈で、永野修身に言及するケースに集中している模様。
  • (3)WP:RSを満たす文献で「海軍大臣・軍令部総長・連合艦隊司令長官の3つの職を特に『海軍三長官』と呼んだ」といった旨を直接的に述べているものは存在しないようです。即ちWP:GNG/SCに照らして有意な言及がなく、Wikipedia:独立記事作成の目安を満たさない。
  • (4)記事「内務省 (日本)」に、「内務次官、警保局長、警視総監は「内務三役」と称された重職で[出典]、退任後は約半数が貴族院の勅選議員に選ばれていた[出典]。」という文があります。前半の出典は学者の論文、後半の出典は「大霞会編 『内務省史』全4巻 原書房、1971年」です。
  • (5)同様に「海軍三長官」を、WP:RSを満たす出典を付して、記事「大日本帝国海軍」に記述できるかと言うと、現時点で判明しているところでは無理なようです。
  • (6)記事「海軍三長官」は「海軍大臣・軍令部総長・連合艦隊司令長官の3つの職を指す俗語。戦後に出版された本で、永野修身に言及する際に使用例がある」以上は書けそうにありません。WP:NOT#DICTIONARYに抵触し、Snlf1さんが言われたように、「削除の方針の『百科事典的な記事に成長する見込みのないもの。』」に該当し、Wikipedia:独立記事作成の目安を満たさないと思われます。--Pooh456会話) 2018年2月23日 (金) 16:17 (UTC)/修正 --Pooh456会話2018年3月7日 (水) 17:35 (UTC)[返信]
  • ある項目について独立の記事を立ててよいかどうかの基準はWikipedia:独立記事作成の目安なので、仮にWP:RSを満たす出典が存在しても、その内容や量が充分でなければ、独立記事を立てるべきでないという判断になる場合があることを指摘しておきます。
  • WP:NOT#DICTIONARYに抵触し、削除の方針の『百科事典的な記事に成長する見込みのないもの。』に該当するという見解を、支持します。--Dwy会話2018年2月24日 (土) 04:40 (UTC)[返信]
報告Dwyさんからご意見を頂いた後、1週間が経過しました。議論終結と判断し、「Wikipedia:削除依頼/海軍三長官」を提出いたしました。--Pooh456会話2018年3月6日 (火) 08:21 (UTC)[返信]
独自研究による概念でないとすれば、それほど急いで削除することもあるまいと思いつつ、少し加筆しました。成長する「見込み」すらないのかは諸賢の判断に委ねます。--Snlf1会話2018年3月6日 (火) 16:13 (UTC)[返信]
Snlf1さん、加筆ありがとうございました。雨倉氏の本に「海軍三長官」についての有意な言及はありませんので、冒頭文と合わせ、最小限の修正をさせて頂きました。--Pooh456会話2018年3月7日 (水) 19:20 (UTC)[返信]
たしか「海軍の三公」という呼び方もあったように思います。とりあえず加筆の手がかりとして。--Snlf1会話2018年3月8日 (木) 11:09 (UTC)[返信]
最後にある「海相のみが政治への関与を認められていた」というくだりに出典がないのが気になっておりましたので、出典をつけ、文章を直しました。--Pooh456会話2018年3月9日 (金) 19:43 (UTC)[返信]
ああ、ちょっといいですか。上記の出典「軍人勅諭」はさすがに不適切です。出典の参照箇所を引用してくれてない場合は、それが出典として適切なのか不適切なのか、いちいち分かりませんが、日本の昭和の海軍が明治15年の御勅諭「軍人勅諭」を守っていたかのように「軍人勅諭」を出典とするのは余りにも不適切です。軍部が政治に関与し政治を妨害した昭和の数々の事件を海軍軍人は全員全て追認し続け、しかも、最も容易に日米開戦を止められる立場であったのにあべこべに日米開戦の最大の原動力となったのは海軍の伏見宮博恭王以降の軍令部総長たちと連合艦隊司令長官山本五十六だからです。 --Breaklush会話2018年3月10日 (土) 13:27 (UTC)[返信]

(インデント戻します)「WP:RS」を満たす出典を提示して加筆しております。ウィキペディアの方針文書、特に「WP:V#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」」を熟読してから議論に参加してください。--Pooh456会話2018年3月10日 (土) 14:00 (UTC)[返信]

昭和の海軍が軍人勅諭を守っていた証拠の出典として軍人勅諭そのものを出されても全く検証可能性がありませんが? --Breaklush会話2018年3月10日 (土) 15:08 (UTC)[返信]


余りにもみっともないので、削除依頼そのものをさっさと取り下げるべきだと思います。[編集]

海軍三長官」という言葉は、組織編成上の3人のトップ、宮中での席次、叙勲優先対象者、俸給の額とかを考える上で、権力闘争・政治闘争が激しかった「陸軍三長官」ほどではないにしろ、とりあえず会話用の雑学的俗語として必要不可欠だったと思われます。自然発生していたと思われます。海軍省のトップ海軍大臣と、海軍軍令部のトップ軍令部総長と、外線部隊のトップ連合艦隊司令長官の3人が役割も勤務地も各々異なるのに「三位一体」的に職務をこなさなければならなかったという本質的な事実を端的に表現する言葉としても、「海軍三長官」という言葉以上の言葉は見当たらないので、雑学的用語として、使う人は使っていたと思われます。使わざるを得なかったと思われます。そもそも、「陸軍三長官」が頻繁に一堂に会するのに対して、「海軍三長官」が一堂に会する事は、旗艦にいなければならない連合艦隊司令長官のためまずあり得なかったため、「海軍三長官」と表現できる機会そのものがほとんどなかっただけです。これらの事情により、「海軍三長官」という言葉が独自研究であるとか有意義ではないとか削除すべきであるとか記事として成長する見込みがないとか言っている事自体が陸軍と海軍の基本的な違いすら理解できていない事による大間違いであることは余りにも明らかであると思われます。それとも、「陸軍三長官」という言葉が既にあるのに「海軍三長官」という言葉を誰も考えつかなかったほどに当時の日本人は全員、施設送りが必要なレベルの超ウルトラ低能ばっかりだったという証拠を出典付きで示せるとでもいうのでしょうか。 -- Breaklush会話2018年3月10日 (土) 15:08 (UTC)[返信]

管理者伝言板に報告しました(差分)。--Pooh456会話2018年3月10日 (土) 15:50 (UTC)[返信]
ソックパペット荒らしという事態に最初から気が付いていた私こそ真っ先に管理者伝言板に報告すべきでした。ある意味、誘導ありがとうございます。差分です。 -- 寿蘭太郎会話2018年3月10日 (土) 18:46 (UTC)[返信]