ノート:杉亨二

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事実確認[編集]

118.10.81.68さん。「1848年に大坂適塾に入ったが病のため同年帰国した。翌年には江戸に出て中津藩江戸藩邸の蘭学校(慶應義塾の前身、福澤諭吉が出府するのは1858年(安政5年)だがその後も慶應義塾に出入りした。)」のうち「その後も慶應義塾に出入りした」の情報源を検証可能なかたちで、ご提示ください。『慶應義塾出身名流列伝』に「杉亨二」の項目が存在しないことは確認しています。率直に言いまして、LTA:AJAX#発言等の「他者を騙すために虚偽の発言を繰り返す。存在しない出典を提示するなどして、他者を騙そうとする。」に該当するのではないかと思っています。 --rshiba 2010年5月5日 (水) 16:31 (UTC)[返信]

「『慶応義塾出身名流列伝』はPDFで閲覧する参考文献」とコメントを付した編集[1]をするならば、『慶応義塾出身名流列伝』の具体的なページ数を示してください。--rshiba 2010年5月5日 (水) 18:14 (UTC)[返信]

  • 『慶応義塾出身名流列伝』の杉の記述は、明治11年末の「製表社」小幡篤次郎、阿部泰蔵、森下岩楠らの項目に設立とある。更に明治13年11月統計協会『統計集誌』創刊に加わる。更に出典を加えるなら、『慶應義塾圖書館和漢圖書目録』googleブック検索にも名前が出てくる。その他のカテゴリとなりと「慶応義塾の人物」に当てはまると思うが、「他者を騙すために虚偽の発言を繰り返す。存在しない出典を提示するなどして、他者を騙そうとする。」「自分の都合のいい編集を繰り返す」は、柴崎に当てはまる行為。深夜に暴れてないで自身の個人への誹謗中傷行為をもう一度見直して下さい。--122.22.74.249 2010年5月5日 (水) 18:27 (UTC)[返信]
  • コメント福沢が佐幕派なのは周知の事実、書籍も多く出ている。あなたが日の当たらない8流学者だからといってウィキペディアで暴れて勝手に「コミュニティ」を自分で作ってウィキペディアの質を堕落させないでくださいね。いくつなんですか君の精神年齢は。私はただ歴史事実を研究しているだけですので。--118.10.135.9 2010年5月5日 (水) 18:44 (UTC)[返信]

名流列伝[編集]

上記「『慶応義塾出身名流列伝』の杉の記述は、明治11年末の「製表社」小幡篤次郎、阿部泰蔵、森下岩楠らの項目に設立とある。」について、近代デジタルライブラリーで『慶応義塾出身名流列伝』を確認した結果:

  1. 402~403コマ、725~726頁に「阿部泰蔵」の項目。
  2. 497~498コマ、909~910頁に「森下岩楠」の項目。
  3. 520~521コマ、巻末「故人の部」3~4頁に「小幡篤次郎」の項目。

3個所ともに、明治11年末の「製表社」設立、などという記述は見当たらず。また、杉亨二への言及もなし。--rshiba 2010年5月8日 (土) 10:29 (UTC)[返信]

  • コメント『慶應義塾入社帳』に確認、『慶応義塾出身名流列伝』は間違いでは?第2回OLIS-慶應義塾大学保険フォーラム [3]福澤諭吉と保険事業 慶應義塾大学経済学部教授小室正紀で確認。--124.98.54.43 2010年5月8日 (土) 18:50 (UTC)[返信]
『慶應義塾入社帳』は、塾生になる際に提出された姓名・本籍・族籍・保証人(「証人」という表記だったはず)などを本人からの申請書類に基づいて、義塾の事務担当者が一覧書式に転記した入塾者名簿のことです。慶應義塾から写真版で復刻されていて、都道府県立図書館クラスには備わっています。実際に見ていないで「『慶應義塾入社帳』に確認、『慶応義塾出身名流列伝』は間違いでは?」などど書いても意味ありません。--rshiba 2010年5月8日 (土) 21:57 (UTC)[返信]
杉亨二が新たな入塾者の保証人になっていたとしても、ある新入生の保証人になるのは学校の外部の人間であっても構わないのは現在と同様ですから、義塾の内部者ないし関係者であることを確認したことにはなりません。--rshiba 2010年5月8日 (土) 22:06 (UTC)[返信]
残存する入社帳の最初は、慶応年間か明治の初年だったはず。『慶應義塾入社帳』は購入注文を出してありますので、大阪府立中之島図書館に見に行くのではなく、手元にきてから確認します。なお、ここで「外部」と言っているのは卒業生も含みます。「『慶應義塾圖書館和漢圖書目録』にも名前がある」とのご発言ですが、意味不明です。杉亨二の著書や翻訳書が明治45年現在の慶應義塾図書館にあったとして、それがどうして慶應義塾と杉との間に関係があったことの証明になるのでしょうか。--rshiba 2010年5月8日 (土) 22:47 (UTC)[返信]
「製表社」繋がりで慶應義塾に出入りしていたことはもう認められた訳ですね?『慶應義塾圖書館和漢圖書目録』だけではない、『三田評論総目次創刊80年記念出版(1898-1978年)』などにもやはり名前が出てくる。それと、『立志学舎と慶応義塾--派遣教師を中心に』を読んだことがありますか?--124.99.169.96 2010年5月8日 (土) 23:08 (UTC)[返信]
情報の提示のないものを認めようもありません。「名前が出てくる」として、どのような場所に、どのようなかたちで「名前が出てくる」のでしょうか。つながりがあると主張している方は、典拠名は示すが、そのどの部分のどのような情報がつながりがあることの根拠になるかは、少なくともいままでのところでは示しておられないようです。--rshiba 2010年5月9日 (日) 02:02 (UTC)[返信]
CiNiiも読めないような人物が編集に携わるべきではないのでは?--114.172.112.173 2010年5月18日 (火) 17:14 (UTC)[返信]

関連する他所での対話[編集]

ノート:福澤諭吉#杉亨二・松木弘安の出講時期をご参照ください。--rshiba 2010年5月15日 (土) 00:00 (UTC)[返信]

参考文献[編集]

参考文献に『慶應義塾入社帳』が記載されていますが、同書のどこに「杉亨二」の名前が出てくるのかが付記されないままの場合、5月末に、編集削除します。--rshiba 2010年5月12日 (水) 11:32 (UTC)[返信]

コメント『慶應義塾入社帳』は『三田評論総目次創刊80年記念出版(1898-1978年)』内の杉の記述における出典。『慶應義塾入社帳』は購入注文を出してありますので、大阪府立中之島図書館に見に行くのではなく、手元にきてから確認しますなお、柴崎氏は購入注文を出されているようであるが。--114.172.112.173 2010年5月18日 (火) 17:18 (UTC)[返信]