ノート:方便

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

天台所立の三方便(法用・能通・秘妙) への言及はありませんか。 --Unagire会話2012年6月1日 (金) 15:13 (UTC)[返信]

独自研究の疑い[編集]

利用者:日経美痔根巣 須空流という人が、鎌倉時代の僧侶が書いた一次資料だけを出典にした執筆をしていますね。これ→[1]の、「浄土教などでは」ではじまる文です。この利用者はそこで「般若の次に方便を修する」と書いていますけど、その出典を見ると、〈般若の「次」〉なんて書いてないですよね。「次」という字はこの出典に2回出てきてますが、2つとも、般若や方便とはかなり離れた位置にあります(一番近い距離でも約100字くらい離れてます。漢文でですよ)。一体この出典をどんなふうに読めば、「般若の次に方便を修する」と読めるのか明らかではありませんね。書いた人が説明してください。〈般若の次〉というこれは独自研究でしょう? 仏教記事執筆者のみなさま、はやめに対処したほうがいいとおもいます。当方は特別:投稿記録/日経美痔根巣 須空流にて問題のある編集を見つけたら修正しています→特別:投稿記録/218.231.76.206利用者‐会話:218.231.76.206もあわせてご覧いただければ。--218.231.76.206 2017年10月18日 (水) 01:59 (UTC)[返信]

追記です。「浄土において般若の次に方便を修する」という加筆部分の「浄土において」という場所設定も、出典に書いてないですね。この部分の出典[2]を見ると、その本文にある「浄土」の文字は旧字体(淨土)で1個だけであって、

墮兩邊故云不著淨土論云智慧慈悲方便三種門
攝取般若般若攝取方便應知同論註云般若者達

というところにあるだけです。「浄土に於いて」の「に於いて」などとは書いてないでしょう。だいたい、ここに出ている「淨土論」の文字は「浄土論=無量寿経優婆提舎願生偈」という文献名じゃないんでしょうか? 文献名でないという資料があるかといえば、それは示されていません。--218.231.76.206 2017年10月18日 (水) 02:49 (UTC)[返信]
利用者:日経美痔根巣 須空流が勝手に削除した部分(下線部)を復元しました。--218.231.76.206 2017年10月18日 (水) 22:17 (UTC)[返信]

そうかもしれないし、そうでないかもしれませんが、浄土に関する「二次資料」ということになりますね。鎌倉時代とはいえ、日本人の書いた擬似漢文なので、高等学校の国語レベルの読解力で十分です。「般若を摂取し(さらに)方便を摂取した般若」となるので「次に」と同義です。
一応、出典をもうひとつ加えておきますが、浄土教に限らず、華厳、天台でも石を投げれば当たるほど説かれているでしょうから(そうでなければ方便がこれほどの日常語にはならないでしょう)、「浄土教など」とした方が無難と思いそうしてあります。なので、独自研究のタグは外しました。--日経美痔根巣 須空流会話2017年10月18日 (水) 17:31 (UTC)[返信]
「日本人が書いた漢文なら二次資料」というこの人の判断は、WP:PSTSにおける二次資料の位置付けによって裏付けられると思われますか? 「日本人が書いた漢文だから」というだけでは二次資料と言い切るのは無理でしょうね。たとえ二次資料だとしても、漢文の読み方がおかしければ糺されますし、実際おかしいと思います、この人の読み方は。
「般若を摂取し(さらに)方便を摂取した般若」との読み方をしているとのことですが、このカッコ付きの「(さらに)」というのは利用者:日経美痔根巣 須空流が当人の判断で書き加えたもので、原文には無いはずです。出典に無いものを勝手に混ぜた読み方を記事に発表するのはWP:NOR違反です(現状の方便には「さらに」とは書いてないけど、「さらに」というニュアンスを入れて読んでるなら同じことでしょう)。
また、「般若を摂取し方便を摂取した般若」と読むのだとすると、「修する」という動詞はそこに出てこないのに、なぜ方便におけるこの人の加筆分には「般若の次に方便を修する」と書いてあるんですかね? このノートページで披露してる読み方と、その人が方便に書いてある読み方が違ってるじゃないですか。何ですかこれ。
>一応、出典をもうひとつ加えておきますが、
今回付け加わった[3]その出典も、平安〜鎌倉時代の弁長が書いた漢文ですわ。それでこれも、「浄土に於いては般若の次に方便を修する」というあなたの読み方の「浄土において」という場所設定がこの出典からどのようにして導けるのか分かりませんね。どの文のどこをどう読むとそうなるんですか? きちんと具体的に説明してください、書いた本人であるあなた(利用者:日経美痔根巣 須空流)が。
なお、前回ここに書いたことですが、「墮兩邊故云不著淨土論云智慧慈悲方便三種門」のところの「浄土論」の文字が「浄土論=無量寿経優婆提舎願生偈」でないことの論証はまだなされてません。ですので、「浄土において」という場所設定をこの「墮兩邊故云不著淨土論云智慧慈悲方便三種門」だけから主張するのは無理です。従って、今ある出典のうちでは[4]←これのみから、「浄土において」という場所設定を導くほかありません。--218.231.76.206 2017年10月18日 (水) 23:53 (UTC)[返信]