ノート:扶桑 (戦艦)

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質問[編集]

扶桑の近代化改装前として提示されている写真ですが、三番主砲が後ろ向きになっています。 扶桑は前向きで山城は後ろ向きだったと記憶しているのですが、この写真は扶桑であっているのでしょうか?--おいかわ 2008年7月31日 (木) 10:38 (UTC) [返信]

失礼しました。こちらの早とちりでした--おいかわ 2008年8月13日 (水) 19:33 (UTC)[返信]

沈没時の生存者について[編集]

「艦長の阪匡身少将を含む全員が戦死したので、その最期を詳しく知る者はいない。」
と文中にありますが、2002年に発売された「丸エキストラ5月別冊『戦史と旅34』」には元扶桑乗員の方の手記が載っており、 沈没時の様子も書かれています。
この事から、全員が戦死した訳ではなく少なくとも生存者は居られたようです。
しかし、最終的な生存者数については掲載されていませんでした。
時事通信社から出版された「連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記」という本には生存者数が掲載されているそうですが、 残念ながら所持しておりません。
扶桑沈没時の生存者数について他に資料を持っている方は居られないでしょうか?--Toppa 0911会話2013年11月8日 (金) 14:48 (UTC)[返信]

その本持っているので少し見てみました。238ページからある戦艦山城主計長の所見で、扶桑生存者数10名という数字が出ています。--三日月会話2013年11月14日 (木) 04:24 (UTC)[返信]

生存者数の内容について教えて頂き、有難うございます。
こちらでも他の本を探してみたのですが、光人社出版「艦長たちの軍艦史」では扶桑の項目に「幹部以下全員が戦死した」と書かれていました。
内容を編集するのは待って、もう少し調べてみます。--Toppa 0911会話2013年11月15日 (金) 15:21 (UTC)[返信]

生存者の記述について丸エキストラの内容を去年追記しましたが、つい最近になって「実際に扶桑乗員であった事は確認出来ず、日米双方の記録と大幅に食い違う証言も見受けられるため、信憑性が極めて低い証言でしかない」と書き加えられていました。
勉強不足で申し訳ないですが、あの記述は信憑性が極めて低いという事はどこかの調査や書籍なので触れられていたのでしょうか?--Toppa 0911会話2014年10月22日 (水) 03:45 (UTC)[返信]

山城の主計長だった方は帰還報告を行っていますので公式な記録として山城沈没までの状況の概要が残っていますし、江崎氏の身分が偽りでは無いことは確実ですが、扶桑の乗員だったと言っている方に関しては実際に扶桑の乗員だったかを確かめる術が今の所ありませんし、公式な記録として証言が残っているわけでもありません。そのため、残念ながら信憑性の非常に低い証言であると言わざるを得ません。--Syhinapj会話2014年11月6日 (木) 04:31 (UTC)[返信]

ご返事ありがとうございます。確かに公式として残っている証言とそうでない証言ならば、仰る通り前者の方が信憑性は高いと思います。ただ、扶桑乗員の方の件は英語版wikipediaのレイテ沖海戦にも書かれており、「1945年にヒデオ・オガワから尋問を行った」「証言から通説と違う可能性がある」ことが参考文献の脚注付きで記述されていることが引っかかっております。こちらでももっと調査したいと思います。--toppa会話2014年11月11日 (火) 04:13 (UTC)[返信]

質問[編集]

概要に、「完成当初は扶桑型と同時期に建造された米国のネヴァダ級戦艦、英国のアイアン・デューク級戦艦、ドイツのケーニヒ級戦艦を上回る世界最大最武装最速の戦艦であった」とあり出典もありますが、扶桑よりも進水も就役も早い英国の戦艦クイーンエリザべスの方が優速でありまたトン数でも上回っています。武装においても砲数では劣りますが14インチ砲である扶桑に比べクイーンリザベスは15インチです。扶桑を完成当初世界最大最武装最速とするのは誤りでは?もちろん出典があるのは理解していますし、完成当初というのが一体どの時期を指すのか出典元を読んではいないのでわかりませんが。

完成した時点と言うのは竣工時の事を指す場合が多いかと思われますので、扶桑が竣工した1915年の時点では世界最大最武装最速の艦であったという事になりますね。 比較に挙げられている各艦の竣工年度はクイーンエリザベス級:1915年、アイアンデューク級:1912年、ネヴァダ級:1916年、ケーニヒ級:1913年となっていますので、同時期に建造された艦はクイーンエリザベス級のみです。 クイーンエリザベス級は常備排水量27,500t、水線長:193m、速力:25ktの艦ですので扶桑型よりも小さい艦ですが、主砲は15in連装4基8門ですので火力は扶桑型を大幅に上回っていますし速力も4kt程度優速です。 また、艦型が小さい事は防御上有利ですのでクイーンエリザベス級の垂直防御は水線下8in、水線部13in、中・上甲板側面6inと水線下4in、水線部9in~12in、中甲板側面8in、上甲板側面6inの扶桑型よりも重防御を実現していますし、水平防御は4inになるためこちらも扶桑型を上回っています。いずれにしてもクイーンエリザベス級は扶桑型以上の艦ですので扶桑型を世界最大最武装最速の戦艦であったとするのは誤りです。 --樹雨会話2014年12月21日 (日) 13:14 (UTC)[返信]

爆風問題により第一、第二砲塔が射撃不可について[編集]

すみません、いくつか質問があります。
「爆風問題によって第一、第二砲塔で射撃を行う事が不可能となっていた扶桑は実質8門艦となっていた」の部分なんですが、出典の「軍艦扶桑砲熕公試発射記事」を平賀譲デジタルアーカイブで閲覧しました。
14インチ砲12門の一斉射撃など行い、その際主砲射撃による爆風や振動で観測が一時困難になったり、故障した設備などがあることは確認できるのですが、爆風により第一、第二砲塔が射撃不可の記述がどの箇所かわかりませんでした……。
見落としている自分が悪いのですがどうしても分からないので、よろしければ該当箇所の画像番号を教えていただけますでしょうか?
「大正十五年度戦闘射撃成績摘要」では扶桑、山城の準備砲数が12となっており、1926年には第一、第二砲塔で射撃を行うことが可能なように見えます。--Zhelanie会話2014年11月1日 (土) 14:27 (UTC)[返信]

質問[編集]

すみません、いくつか質問があります。
概要に一斉打ち方を行う事は出来ずとありますが平賀譲デジタルアーカイブで閲覧できる「軍艦扶桑砲熕公試発射記事 別冊甲乙添」の画像16では14インチ砲12門の一斉発射を終了し結果良好と書かれており、画像18などで14インチ砲12門による一斉射撃の影響について書かれているので、一斉打ち方自体は行うことが可能であるように見えます。
扶桑型が実質6門艦となっていたの部分なのですが、「丸 2013年8月号」「丸 2014年7月号」では砲塔動力の水圧機の能力不足から当時の日本海軍では交互打ち方が主流となったと書かれており、交互打ち方の採用により扶桑型が実質6門艦となっていたと表現するならば伊勢型も実質6門艦ということになるのでしょうか?
「射撃時の砲煙、爆風の影響でまともな観測すら不可能となる扶桑」の部分ですが山城(戦艦)のページでは砲熕公試の成績などから扶桑型の爆風による影響は問題ない範囲に収まっていたとされています。 「軍艦扶桑砲熕公試発射記事 別冊甲乙添」では爆風により一時観測困難になるといった記述がありますが、画像35の最後の所見では爆風の影響でまともな観測すら不可能とは書かれていません。どの記述が正確なのでしょうか?--Zhelanie会話2014年11月13日 (木) 06:13 (UTC)[返信]

日本海軍が採用していた打方は独立打方、一斉打方、交互打方、指命(司令)打方の4つです。 この内独立打方は日露戦争以前は主用されていましたがそれ以降は一斉打方(交互打方)にシフトして行きましたので、WWⅡの時代には一斉打方、交互打方、指命(司令)打方の3つが用いられていた事になります。 また、一斉打方は号令官の号令によって各砲射手が同時に発砲する打方になりますので、厳密に言うと交互打方は一斉打方の変形に当たります。 それはさて置き日本戦艦の場合は連装砲の2門を同時に発砲して、後退した砲身を前進させると共に弾丸・装薬を揚げて装填するためには水圧機の力量が不足していたので日本戦艦でも一斉打方自体は不可能ではありませんが、次弾薬の供給や装填に大幅な遅れが生じる事になりますので実用性が全くありません。その為日本海軍では2門を同時に発砲する一斉打方ではなく1門づつ交互に発砲する交互打方が採用されています。 なお、この交互打方が採用されるに至った原因である水圧機の力量不足は大和型以外の日本戦艦全てに共通する事で、日本海軍で一斉打方が行われるようになった1905年頃から続いていた問題でもあります。 大和型以下の戦艦に関してはこの問題を解決するために近代化改装の際に水圧機の力量の強化が行われていますが、改装後に行われた戦闘射撃でも各艦は交互打方を行っています。また、実戦でもフィリピン沖海戦では金剛が交互打方を行っていますし、戦訓の中で交互打方の有用性について報告している他、西村中将も2S(第二戦隊山城・扶桑)の射撃実施については交互打方と場合によっては司令打方を取るとしていますので、改装後も扶桑型や金剛型では交互打方の方が有用と考えられていたようです。 前述のように交互打方を行った場合各砲塔は1門づつ射撃を行う事になりますので一斉射が12門艦の場合は6発、10門艦は5発、8門艦では4発のみが一度に弾着する事になります。 このため扶桑型と同じ12門艦の伊勢型でも一度に弾着する砲弾は6発となり、その点は扶桑型と変わりませんので伊勢型や扶桑型は6門艦と言えるのかもしれません。もっとも出弾率は100%ではありませんので12門艦の場合は実際には一斉射3~5発程度が弾着する事になります。

山城ではそれ程大規模ではありませんが設計の変更が行われていますので、山城で問題が発生していなかったとしても扶桑では問題が発生していた可能性があります。扶桑の砲熕公試の記録を見る限りでは爆風、振動の影響で観測が不可能となった旨や爆風対策等の必要性について画像11~28の中で報告されていますし、山城で設計の一部が変更され本来扶桑型の三番、四番艦となる予定だった伊勢、日向が設計を改め伊勢型として竣工している事からも扶桑が問題のある艦と判断されていた事は確かです。ただ、改装後の山城、長門でも戦闘艦橋の射撃舷にいた場合は爆風の影響で帽子やノートが吹き飛んだという事例が報告されていたようですので、その辺りは扶桑の場合でも射撃に及ぼす影響は無かったと考えてもよいと思われます。また、画像35で述べられている所見は実施した砲熕公試全体を通しての所見でしかありませんので、爆風の影響については画像17以降の具体的な報告の部分を参照する必要があります。 --樹雨会話2014年12月21日 (日) 13:41 (UTC)[返信]

質問に答えてくださり、ありがとうございます。--Zhelanie会話2014年12月26日 (金) 07:01 (UTC)[返信]

竣工時の扶桑型の舷側防御について[編集]

竣工時の扶桑型の舷側防御の部分の出典について質問があります。
「扶桑の舷側防御は金剛型巡洋戦艦と比べても劣るものとなっており」と文中にあります。出典の「海軍装甲技術史-戦艦富士・三笠から大和まで-]p78~p79、p105、や「軍艦山城一般艤装図」、「歴群30扶桑型」p.121などを閲覧したのですが、出典の資料には防御概要図や装甲配置などが書かれていますが、扶桑型の舷側防御が金剛型巡洋戦艦と比べて劣るものになっていたなどの記述はありませんでした。
本当にこの出典であっているのでしょうか?--Zhelanie会話2015年1月16日 (金) 11:56 (UTC)[返信]

第一次および第二次近代化改装の定義について[編集]

近代化改装の時期について、本記事と「扶桑型戦艦」の項目とで定義に違いが生じています。

  • 「扶桑 (戦艦)」~概要 ※本記事
    • 第一次近代化改装:1930年4月~1933年5月12日
    • 第二次近代化改装:1934年10月下旬~1935年2月19日
  • 「扶桑型戦艦」~改装
    • 第一次近代化改装:1922年~1923年
    • 第二次近代化改装:時期の記載がないが、内容は本記事の第一次+第二次近代化改装に該当

公式にはどちらが正しいのでしょうか。検証した上で統一すべきだと思います。

また、冒頭の画像の説明が「第一次近代化改装後(1933年)」となっている事とも矛盾しています。 この写真では1番煙突が撤去され、前を向けられた3番主砲塔上にカタパルトが設置されていますが、このような艦容になるのは(もし現状の本記事に拠るならば)第二次近代化改装を終えた1935年以降になるのではないでしょうか。--114.160.218.68 2017年1月11日 (水) 13:45 (UTC)[返信]