ノート:建武の新政

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親政?新政?それとも・・・[編集]

『建武の新政』を「親政」とは呼ばない理由は、後醍醐天皇にとっては天皇が自ら政治を行う―即ち「親政」の形態をとるのは本来あるべき日本の政治の姿であって、殊更に強調する事でも何でもない。天皇が自らの親政でやりたかったのは、鎌倉時代に生じた公家政権と武家政権による二元政治体制を解消して天皇の下でしい(一元化された)治体制を構築する事であったから。--220.211.247.16 2005年6月30日 (木) 08:28 (UTC)[返信]

用例を探してみました。 --2005年6月30日 (木) 13:14 (UTC)(一部修正 --忠太 2005年7月2日 (土) 13:36 (UTC)[返信]

  • Googleでは、「建武の親政」491件、「"建武の新政"」5610件、「"建武新政"」551件
  • 「建武の新政」派・・・角川日本史辞典、山川日本史(手元のは古いので最近のは未見)、つくる会教科書[1]、週刊朝日百科
『後醍醐天皇』(中公新書)では、本文中に「建武政権」と表記している。「いわゆる建武の新政」という表現もある)
  • 「建武新政」派?・・・『異形の王権』『内乱と民衆の世紀』(←但し、少ししか出てこない)、東大日本史、『マンガ日本の歴史』
  • 「建武中興」派・・・「旅研」の歴史事典、戦前には一般的な表記(『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』など)
「建武の中興」「建武の新政」という表記には既に一定の価値判断が含まれると考えられるためか、最近の歴史学者は「建武政権」の方を使うことが多いのかもしれない(?) 
  • 「建武の親政」派・・・ネットに見られる程度
学術書、論文等で「建武の親政」という表記があればご教示ください。

「政権」のページか「政策」のページか「時代」のページか[編集]

本文に「建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年/正慶2年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始した事により成立した政権及びその新政策(「新政」)である。」と書かれていますが、「建武の新政」という政府はありません。「大化の改新」という政府があったのではなく「改新政府」が「大化の改新」という政策を実施したのであって、「建武政権」という政府が「建武の新政(or親政・中興)」などと呼ばれる政策を実施したのです。

ですから、仮にこのページが「政府」についてのページであるならば名前は「建武政権」にし、そのなかの1項目として「建武の新政(or親政・中興)」という項目を立てるべきです。また「政策」についてのページならば、最初の文は「建武政権が行った政策」などのように説明するべきです。

また、このページの一番下に旧石器時代から江戸時代までのテンプレートがありますが、仮にこのページが「時代」についてのページであるならば、「建武政権期」などとするべきです。

なお、これは私の個人的な意見ですから、反対ならば変えなくても構いません。--180.43.6.159 2017年1月18日 (水) 10:36 (UTC)[返信]

誤字らしきものについて[編集]

冒頭のほうに「後醍醐天皇は松田さんの」という文言がありますが、松田さんというのは何かの間違いではないでしょうか?--240B:C020:431:D2B5:5929:1298:9A90:1FAF 2021年12月14日 (火) 14:19 (UTC)[返信]