ノート:島病院

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Google検索数を見てみると微妙なのですが、現在の「島外科」の方が良いかもしれません。原爆投下当時の「島病院」の方がヒット数が多いので、どちらが良いのか意見を下さい。--Taisyo 2006年2月19日 (日) 12:11 (UTC)[返信]

現存する病院についての記事なので、現在の名称にすべきでしょう。Wikipediaの場合はリダイレクトがあるので、どちらかで検索ないとヒットしないということもありませんし。--210.79.174.253 2006年2月25日 (土) 16:09 (UTC)[返信]

「爆心地」という意味で独立したトピックとして取り上げられているのですから、現状通り「島病院」が適当かと思われます。今後、現在の「島外科」が著名な病院として取り上げられ、その沿革として原爆の惨禍を乗り越えて存続しているといった記事になるのであれば、その時に改めて現在の病院名に変更すればよいのでは。ハイゼン 2006年4月12日 (水) 20:52 (UTC)[返信]

私も爆心地としての項目である以上その当時の名称であるべきだと思います。現状の島外科についてもちゃんと書いてあることですし。--Hoyatetuto 2006年7月9日 (日) 07:26 (UTC)[返信]

改名しない方が良いという意見が多い様なので、今回は見送りたいと思います。--Taisyo 2006年7月9日 (日) 10:22 (UTC)[返信]
やっと資料を入手、加筆することができました。昭和17年、薫先生に縫って頂いた足の傷跡を観ながら、何とか記録したいと思っていました。当時、盲腸といえば「それ!島病院」でした。もう、3代目の院長(お孫さん)になるんですね。医院の歴史は、中野時代を含めると江戸時代から、それだけでも大変なことだと思います。生前、何も語られませんでしたが、あの日、ご自身が運命的に生き残られたこと、アメリカの医療を学び、アメリカの病院にならって病院を作られた薫先生がどのようなお気持であったのかということを思うと、本当に胸が痛みます。ヒロシマの爆心地に再建を果たした個人というのは島病院くらいで、御子息も学童疎開で難を逃れられ、結果、医院が続いているというのは、本当に運命的なものを感じますが、薫先生の思いは「原爆の惨禍を乗り越えて」といった言葉ではとても表現できるものではなく、それは献身的に袋町の国民学校で被爆者の治療にあたられていた先生の御姿からも察するに余りあります。姉が亡くなりましたが、薫先生には本当に最後までお世話になりました。
今でも地域密着型の島外科内科、薫先生のご意志はしっかりと受け継がれているものと思います。原爆に関する記事では、当時の医院名で記録すべきです。--ENG0000 2010年1月9日 (土) 06:15 (UTC)[返信]
手持ちの被爆前の島病院の写真をアップしました。よく出回っている写真です。これでやっと引退できます。被爆時の写真・再建された当時の写真は、悲しくてとてもアップできません。--ENG0000 2010年1月11日 (月) 09:28 (UTC)[返信]