ノート:小田原城の戦い (1560年)

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

改名提案[編集]

去る2010年6月8日に、「小田原城の戦いは1561年なのでタイトルが間違い」という理由でフォックストロット氏より小田原城の戦い (1561年)が新記事として立てられました。削除依頼提出の上、履歴不継承・コピーペースト転記・改名議論無し、等の理由で削除となりました。ですが、議論の余地はありというコメントも複数あり、元の改名記事を立てたフォックストロット氏からの提案がなされないようですので、代わりに改名提案いたしました。削除に至る議論のついてはWikipedia:削除依頼/小田原城の戦い (1561年)を参照願います。議論中のコメントにもあり、また今「記述が冗長である」との理由で出典付き記述を、議論無しで削除している方もいますので、場合によっては分割も視野に入れての議論にもなると思いますが宜しくお願いします。

私の意見としては1561年への改名は、テンプレにも1561年となっているとことも有り賛成ではありますが、そこに至るまでの流れとして、「諸城攻略戦」の分割は反対といったところです。--ジャムリン 2010年6月23日 (水) 09:33 (UTC)[返信]


ジャムリン氏と同意見。改名には異論ないが、前後の成り行きを知る為にも「諸城攻略戦」の部分は分割すべきではないと思う。また分割しても互いの項目が説明不足になり、全体の流れを把握し辛くなると思う。--ポテンシャル0 2010年6月26日 (土) 06:04 (UTC)[返信]

コメント戦争の経緯からみると、そもそも小田原城攻めを目的としたものではないので、諸城攻略戦部分も含めて「上杉謙信の関東遠征」とかにした方がいいような気がします。数次の遠征があり、それと区別をつける必要があるので今の名前になっているのではとも予測しますが。。。なお、仮に小田原攻め部分のみを切り出すのならば、提案のような改名でいいかと思います。Fuji 3 2010年6月29日 (火) 04:19 (UTC)[返信]
経歴未継承という手続きの問題は別として、二者比較であれば小田原城の戦い (1560年)よりは小田原城の戦い (1561年)の方が正確性においてマシかと思います。
ただし、この記事の主題と定義によっては他に良い記事名があるかもしれません、例えば上杉氏の関東進出や関東管領就任に重点がありその一環として小田原城攻撃が行われているような取り扱いの記事であれば、上杉謙信の関東進出(佐藤博信「越後上杉謙信と関東進出-関東戦国史の一齣 」1984年、「上杉謙信について : 特に関東進出を中心として」神田久美子1994年、栗原修「戦国大名上杉氏の上野国沼田城支配 : 沼田在番衆を中心に」1993年[1](PDF閲覧可)には章題として「一 上杉氏の関東進出と沼田氏」とあります。)や越後上杉氏の関東出兵、あるいは上杉謙信の関東管領就任(長尾景虎の?)という記事名もありえるのかもしれません。
現在、ノート:九州の役にて似たような改名議論問題を抱えて。こちらへの調査や執筆に掛ける時間と熱意が不足しているので深く口を挟むつもりはないのですが、上記のような記事の定義や重点(その記事は何なのか?何を基に作られているのか?)、そしてなにより記事を作るために使われた出典による呼称は記事と記事名を正確に一致させるということで重要かと思います。--Yasumi 2010年7月2日 (金) 23:59 (UTC)[返信]
上杉謙信による関東遠征はこの後10数年間、断続的に幾度も繰り返されており、このときの遠征の目的についてはFuji 3さん、Yasumiさんも触れられていますように「関東管領就任式」が主目的ではなかったのかという説もありますが、まだ実証の段階にはないようです。ノート:九州の役と決定的に違うのは、このときの一連の戦いにおいて、この地域が何れかによって「平定」されたわけでも、帰属や興亡が決着したわけでもなく、むしろ上杉氏としては結果的に挫折した目的の軍事行動の端緒だったということです。Yasumiさんのあげられた参考文献は上杉氏側のみのようですし、それだけですと中立性に欠けているのではないでしょうか。北条氏からすれば「一応は成功した防衛戦」であるわけです。参考文献をご覧いただければお判りだと思いますが、どちらかの側だけで構成されているわけではありません。従って、まだ学会の統一見解に基づく呼称が無い以上、両軍とそれに関わる周辺勢力、または総体的な合戦史などからの出典と、その中の呼称にしても、「謙信の小田原攻め」、「景虎の小田原攻撃」、「小田原城攻撃」と、どれかひとつに統一されているわけではありません。遠征の目的と意義を公に示すところの謙信側の願文等には「北条氏の討伐」(当然、迎えうつ北条氏としては逆のことを大儀として打ち出すわけですが)をうたっており、遠征の中でもその北条氏の本拠小田原城に迫ったのは、このときの遠征だけでもあります。記事の目的としては中立的観点から両義的に作成されることにあると認識しております。以上の点からして、両軍の目的の象徴として、その後の影響から考えても「小田原城の戦い」は妥当ではないかと思われます。--ジャムリン 2010年7月15日 (木) 21:29 (UTC)[返信]
私の方からは考え方の提示であり、深い考察や提案ではないため、他に対案が出てこなければ現状比較でジャムリンさんの推す「小田原城の戦い (1561年)」に改名することに異存はありません。出典があれば万全であると言うことです。--Yasumi 2010年7月16日 (金) 20:01 (UTC)[返信]
遅くなってすみません。「小田原城の戦い (年)」をとる出典としては、私の今の時点で把握する限りですが『戦国合戦史事典』(小和田秦経、新紀元社、2010年4月発行)がありました。これによると戦国期の小田原城にまつわる4度の合戦(北条早雲による大森氏からの小田原城奪取、当項の長尾景虎によるもの、武田氏との戦い、豊臣秀吉によるもの)が全て「小田原城の戦い (年)」で立項されていました。『戦国合戦大事典(二)』(新人物往来社、戦国合戦研究会(池田公一、下山治久、湯山学、伊藤一美、柴辻俊六)、1989年)にも同名項で「小田原城の戦い (年)」がありましたが、それは北条早雲のときと、豊臣秀吉のときのもので、当項は「大槻合戦」という項名で永禄3年(1560年)の長尾景虎の越山から関東管領受領式までを解説していました。--ジャムリン 2010年8月20日 (金) 02:01 (UTC)[返信]

定義において1560年からの事象を包括しましたし、改名への強い意見もありませんでしたので、改名の必要はないと判断しました。遅くなりましたが、議論に参加してくださった方々、ありがとうございました。--ジャムリン 2011年3月8日 (火) 10:48 (UTC)[返信]

史料不足のような気がしますけど[編集]

攻防の中心となった北条氏の本城・小田原城では、太田資正の部隊が小田原城の蓮池門へ突入、激しく攻め立て北条軍も粘り強い抵抗を見せたと、後世成立の軍記である『関八州古戦録』等は伝えている。[5]。信頼性の高い史料でこのときの包囲戦の様子の詳細を伝える物はなく、わずかに上杉家文書で、小田原城下での両軍のぶつかり合いは認められず、挑発のため城下に放火をしても北条方は城から討って出ることはなかったとされる。 >>> ええええ?これって、戦闘はなかったってことですよね?なら、小田原城の戦いって、おかしくないですか?城下に放火しただけ?小田原近くまでやってきて帰ったって、ことでしょう?要は。

関八州古戦録や松隣夜話のような江戸中期成立の軍記モノにしか記述がないって、おかしくないですか? 普通の常識で考えて、10万の大軍で本当に小田原城を包囲しているなら、落城して、北条氏は滅亡しているのでは? だいたい、北条氏の領土が削減された様子もないし、単なる侵攻では? 10万の兵力が集まったという話しも信じられないし。なんとなく、豊臣秀吉の小田原城攻めの焼き直しのような気がするけど。

一応、太閤記を読んでみたけど、上杉謙信の小田原包囲の記述なし。

改正三河後風土記には、小田原城中軍議、平惟盛の富士川合戦の記述があるだけ。よく、ドラマなどである、上杉謙信の包囲も撃退したなどという記述なし。

結局、上杉家関連の軍記や家譜みたいなもんしか記述がないって。誇張されてる可能性。--Muson0123 2010年9月25日 (土) 07:25 (UTC)[返信]


上記の改名に関するものとは別議論と判断したので節分けしました。
Muson0123氏の主張の主旨がわかりかねます。何か勘違いなされているようですが、ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。とガイドラインに明記されております。記述として検証可能な出典が提示されている以上、反証や別説の併記にも出典が必要です。出典なくして疑問・反証記述を投稿された場合は、独自研究とみなされます。Muson0123氏が上記で主張されるた内容を裏付けるための、カイドラインで示されるところの信頼に足る出典があれば、出典と共に加筆することで記事の充実が図れると思われます。太閤記は別人物についての文献ですので、小田原城で過去にあった戦いや上杉謙信の全ての戦いが網羅されてなくても何ら不思議ではないと思われます。実数はともかく、上杉謙信の小田原城包囲については、上杉家文書(これは家譜だけでなく当代で他家とやり取りした書状や日記、公文書も含まれます。)の他、主要なものですと、北条家にかんする書状(『戦国遺文・北条編』)にも残ってますし、近衛前久の遺した書状他(『陽明文庫』)にも残ってます。後世に成立した軍伝・家伝ばかりに記されているわけではなく、それらは当時代の生史料を編纂したものです。発見、発掘は軍伝・家伝より後の時代でも、史料成立の時代、真贋の比定、は専門研究者によってなされています。参考文献、出典はそれら史料を検討研究して、研究者によって著され、編まれたものです。記事内容に関しては、史料不足、資料不足ではないと考えます。
さらに。記事には、包囲軍側の撤退と書いてはあっても、Muson0123氏がいわれているような撃退などとは、現時点では書かれていませんが?当項記事は引用された軍伝内容の真偽を定める項ではありませんよ?当項記事は、ウィキペディアの記事における三つの方針である「Wikipedia:検証可能性」、「Wikipedia:中立的な観点」、「Wikipedia:独自研究は載せない」はに添って作成され、「Wikipedia:信頼できる情報源」、「Wikipedia:出典を明記する」を充たしておりますので、あとはご自身で確認して下さい。ノートにご自身の疑問を持ち込む前に、該当記事本文と、ガイドラインの熟読をおすすめいたします。--ジャムリン 2010年9月25日 (土) 08:28 (UTC)[返信]