ノート:天守

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型式の復古型について[編集]

こんにちは。現在の復古型の説明では、望楼型の高知城天守も層塔型のように読み取れてしまいます。そもそも、望楼型や層塔型以外に復古型という型式があるのかどうか、勉強不足のためよく分かりません。この部分の解説をもっと詳しくしていただければありがたいのですが…--Qje 2007年12月1日 (土) 13:30 (UTC)[返信]

始めまして、こんにちは。
確かに、天守の構造形式には望楼型と層塔型しかなく、復古型天守は構造上の区分ではなかったと思われ、新人物往来社の「別冊歴史読本 城の見方歩き方」には「外観から~と総称される場合がある。」という表現もありますので、構造ではなく外観での総称である可能性があると思われます。しかも「非常にあいまいな別け方であり誤解を招く恐れがあるため適切ではない。」などともしていますので、それを踏まえると現在の型式内は構造上の区分外観上の区分が厳密には混ざっているがところあり、もしや誤解を招いているかもしれません。--ムカイ2007年12月2日 (日) 13:41 (UTC)[返信]
早速、メッセージをありがとうございます。
天守の構造の知識は、外観の違いを理解する上でも、重要な要素だと思います。ただ、この部分の説明の仕方では、望楼型や層塔型と同じように復古型という建築構造が同格で存在ことと受け止めてしまいます。また、例示されている各城郭は、作事技術の過程において歴史的にそうであったものと、現在見ることができる構造との区別ができてなく、鉄筋コンクリート製であっても、望楼型や層塔型または復古型構造であるかのような印象を受けてしまいます。やはりここに例示すべき城郭は、実際に構造を見ることができる現存天守と木造復元天守に限るべきではないかと思います。現在、存在しないものや鉄筋コンクリート製のものは、必要であれば説明文の中で触れる程度の方が、誤解を招かなくて済むのではないでしょうか。当方の勉強不足かもしてませんが、上下の記述がすばらしいだけに、もっと分かりやすくできればと感じています。--Qje 2007年12月2日 (日) 10:15 (UTC)[返信]
復古型に関して最初に投稿した者としてコメントさせて頂きます。私が参考にした資料がいくつかありますが、中でも、小学館・三浦正幸 著・2005年刊「城のつくり方図典」、NHKブックス・内藤昌 著・1979年刊「城の日本史」を主な参考としました。「城のつくり方図典」には”望楼型”と”層塔型”しか記載がありませんが、「城の日本史」には”前期望楼型”、”後期望楼型”、”前期層塔型”、”後期層塔型”、”復古型”と区分されており、私は天守構造の一つと理解しました。”復古型”の説明として「江戸中・後期は、天守様式に変化がなく、時に望楼風の天守が建立されることがあっても、内実は層塔型の構造をもつものが一般的で、復古様式と理解するのが適切である。」とあります。「城の日本史」は今から約30年前の刊行物でいささか資料としては古いですが、内藤氏は名古屋工業大学教授や日本建築学会副会長を務めた人で、いい加減な見解を著述することはないと思い、これを参考に”復古型”の記載を行いました。著述の中で高知城もこの分類の”復古型”に入っています。高知城の構造を確認した上で、記載した訳ではありませんので無責任かも知れませんが根拠は上記の通りです。現在はこの様な”復古型”という形式は分類上存在しないと言うことであれば、コメントアウトして頂ければと思います。--Reggaeman 2007年12月3日 (月) 09:58 (UTC)[返信]
Reggaemanさん、始めまして。
早速ですが、復古型は分類上全く存在しないというわけではなく、各研究者の考え方や判断によって使用を控えられているという程度ではないでしょうか。ただ、型式という見出しが外観か構造で分けているのかが曖昧ではないかと言うだけでありますので、それを正しい方向にすればいいことではないでしょうか。
ので、たとえば見出しは現在と同じく型式のままで、項目は大きく望楼型層塔型として冒頭に、
構造上では、望楼型と層塔型に分けられ、外観上、その特異なものには、特に規定はないものの、復古・略式・唐造りなどとさらに細かく分けて言うことがある。外観復元や復興された天守などの近代にその天守が建てられた当時の工法ではない工法等で作られたものも、旧状または、当時の造りにならって外観を当時の型式にして建てられるが内部構造は復元されないため構造上の区分ではそれらに当たらない。しかし、これらも外観上では、望楼型・層塔型と分類している。ここでは、主に構造による分類によって書かれている。…
などの程度に記述するべきと考えます。その後に復古型を記述するか、全く項目を造らずに以上のような冒頭の文章などに触れる程度で説明するというようにしてはいかがでしょうか。--ムカイ2007年12月3日 (月) 21:58 (UTC)[返信]
追伸、議論の中ではどうでもいいことかもしれませんが、
高知城天守は「内実は層塔型の構造」ではなく平面矩形の組み合わせや、復古型と呼ばれる岡崎城天守のように基部が取って付けたような入母屋ではないことを考えると古式に近い典型的な望楼型のように思われますので、内藤氏説の主張する復古型天守の説明を元にすると高知城天守は復古型天守ではなくなってしまいます。--ムカイ2007年12月3日 (月) 22:30 (UTC)[返信]
ムカイさん、こちらこそ初めまして。
復古型については、どうも早計に記事を書いてしまったかなと、今更ながら思う次第です。内藤氏の分類によると、復古型天守は高知城の他に、犬山城(復古型ではなく望楼型の典型であろうと思う)、伊予松山城、和歌山城となっています。要は犬山城を除けば江戸時代中期以降に建造された現存天守ですね。復古型とは天守を焼失した後に幕府に願い出て、「旧観に復した天守(全く旧観と同じとは言えないが)」と言えるかも知れません。記事を記載しておきながら誠に勝手申しますが、ムカイさんの博識をもって書き替えて頂ければと思う次第です。なにとぞよろしくお願いします。--Reggaeman 2007年12月3日 (月) 14:01 (UTC)[返信]
内藤氏の復古型の件、了解しました。
私に託していただけるのは光栄に思いますが、ここは、私よりも、問題提起をなされたQjeさんと充分論議を尽くされた上でどなたかにでも、書き換えていただきたいと思います。--ムカイ 2007年12月3日 (月) 15:34 (UTC)
皆さん、こんにちは。また、お手間を掛けてすみません。
私の知識が十分でなく、復古型の意味がよく分からなかったのと、例示城郭が、現状で見えるものか、歴史的にそうだったのかが不明だったため、ノートへ投稿させていただきました。ムカイさんやReggaemanさんの説明で意図的なものはよく分かりましたので、次の点に留意して修正がなされれば、よりすっきりとした解説になるのではと感じました。①天守の建築構造は、望楼型と層塔型に分類されるとの解説を行う。例示城郭は、現状で内部が見える現存と木造復元天守のみ載せ、歴史的にそうであったものは、必要なら解説の本文で触れる。②復古型については、必要なら外観上の意匠の概念として説明する(ちなみに和歌山城は現存ではなく、今は鉄筋コンクリート製です)、というのでいかがでしょうか。ただ、私は天守構造について、あまり知識がないため、どなたかに修正していただければ幸いです(勝手なことを言ってすみません)。--Qje 2007年12月5日 (水) 13:09 (UTC)[返信]
おっとすいません、和歌山城は戦後の再建天守でした。失礼しました。--Reggaeman 2007年12月5日 (水) 13:19 (UTC)[返信]
以上に賛成します。--ムカイ 2007年12月6日 (木) 12:13 (UTC)
とりあえず復古型の説明文を変更してみました。--Reggaeman 2007年12月8日 (土) 12:43 (UTC)[返信]
こんにちは。変更点を拝見いたしました。
外観が望楼風のデザインのもの、または、消失以前のものを忠実に再建したものである。従って建築構造自体は層塔型といえる。
としていますが、高知城天守の建築構造は層塔型といえるのでしょうか。--ムカイ 2007年12月8日 (土) 14:14 (UTC)
冒頭部分の加筆と、望楼型の編集を行い、外観上の分類という項目を設け、そこに復古型をとりあえず入れました。また、全てにある用例一覧において、実際に構造を見ることができるものとそうでないものとに一応分けてみました。--ムカイ 2007年12月8日 (土) 15:41 (UTC)
分類の件了解しました。さて、高知城天守については望楼型です。先の内藤氏の見解に固執してしまいました。すいません早計でした。書き替えておきます。--Reggaeman 2007年12月9日 (日) 07:13 (UTC)[返信]
修正部分を拝見しました。また、分類したことで生じた違和感のある部分を修正、加筆しておきました。--ムカイ 2007年12月9日 (日) 08:03 (UTC)

復元代替天守について[編集]

復元された宇都宮城清明台櫓は二層ですが天守扱いをされていましたが、どこに入るのでしょうか。また、近年、詳細な図面が見つかった2層の川越城富士見櫓及び佐倉城は破却のようですが、どこに入るのでしょうか。御教示願えませんでしょうか。宜しくお願いします。

--Roga246 2008年1月1日 (火) 14:40 (UTC) Reggaemanさん忠告有難うございました。--Roga246 2008年1月2日 (水) 19:28 (UTC)[返信]

あけましておめでとうございます。この場を借りまして、どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます。
さて、天守や天守のような位置の建物に関するその見方には、学者により様々です。宇都宮城に関しては、もし、項目に入れる場合、木造復元天守が適当であると思われます。それの出典が確かであれば、天守に相当する建物としてもよいと私個人としては思います。
ただ、天守扱いという言葉には、天守の代用と同じく、城の、また、人の精神的な象徴という意味も持っているものの、天守とはやや違うもののように捉えることもできます。
城の象徴としての定義、天守の代用天守に相当の線引きなど、従来よりそのあたりが曖昧であったために、差支えが出てきたということもあると思われますので、あまり区別するのは好きではないですが、それらの決まりを作る必要があるのかもしれません。
川越城や佐倉城に関しましては、破却・失火・戦災等により損失した例に入れてもよいと思います。--ムカイ2008年1月3日 (木) 13:43 (UTC)[返信]
ムカイさんへ。あけましておめでとうございます。こちらこそ、宜しくお願いいたします。御返事どうもありがとうございました。ムカイさんのプロフィールを拝見してわたしも熊本城宇土櫓は天守に規模、歴史的に見てそう考えています。話はそれるのですが、佐倉城には古写真がたくさん残っているのに復元しないのは少し寂しい感じがします。今後ともよろしくお願い致します。あと、日出城の現存の櫓は何とか城祉に戻して欲しい気がします。--Roga246 2008年1月3日 (木) 23:19 (UTC)[返信]

松山城の「御三階櫓」表記について[編集]

ムカイさん、こんにちは。精力的な加筆、お疲れ様です。さて、松山城は天明4年元旦の落雷により、本壇天守群などを焼失しましたが、家門松平定国が同年6月29日に連立式の天守群の復興について幕府から許可を得ており(昭和14年「松山城史」影浦勉著など)、71年後の落成とはなっていますが、あくまで「天守」としての再建と認識しています。もし、松山城大天守が「御三階櫓」というのであれば、その根拠をお教えいただければ幸いです。--Qje 2008年1月27日 (日) 13:04 (UTC)[返信]

こんにちは、ご迷惑おかけしております。さて、松山城大天守の御三階櫓としての表記ですが、私も天守と呼ばれていたという認識でしたが、全般的に手元の資料(西ヶ谷恭弘監修 『復原 名城天守』学習研究社 1996年 12頁・「当時の記録では御三階櫓であって、天守とは呼んでいない。」という件より)を信用してのちょっといきなりな投稿だったのかもしれませんので、全くの事実無根でありましたら、修正いたします。--ムカイ 2008年1月27日 (日) 14:22 (UTC)[返信]
寒い日が続きますね。早速、ご回報をいただきありがとうございました。引用された書籍については、手元にないのですが、同じ著者である復原図譜「日本の城」理工学社刊(1992年)、P147において、「慶長から寛永初年に建造された5重天守は…(中略)再築されても天守と呼ばず、ほとんどが「御三階櫓」と称し…」と持論を展開されています。ただ、この部分の記述では、「幕府にとって特例」(P146)であった3重3階地下1階構造で再建された松山城大天守が「御三階櫓」と称していたとは読み取れず、また、享保12年(1727年)に火災により焼失し、延享2年(1745年)に落成した高知城天守を、「御三階櫓」と称していないのは周知のとおりです。問題なのは「寛永初年」以降となる、寛永19年の松山城大天守を5重から3重に改築した際と、天明4年の焼失後の再建申請した際において、「御三階櫓」と幕府に届け、称した事実があったかどうかだと思いますが、松山市の公式記録である「市史第二巻」によると、当時の記録である日下部維岳の「古今記聞」によれば、寛永19年の改築後の松山城大天守のことを「御天守三重」と記載していること(P52)。また、焼失後、「幕府に対して天守の再建計画を提出し許可を得」(P364)、「再建された天守は、焼失前の天守と比べわずかに1階西面の窓に不一致が見られるのみである」(P526)とされることから、当時、松山城大天守を「御三階櫓」と幕府に届け、称した可能性はほとんどなく、また、学研の「[決定版]図説天守のすべて」三浦正幸監修(2007年)P84よる、「武家諸法度公布時に既に天守が存在した場合、または公布以前に創建された天守を公布後に再建した場合は天守としたが、公布以降に創建した場合は三階櫓となった」という記述からしても、松山城大天守は「御三階櫓」にはあたらないものと考えます。これらの理由により、松山城大天守を「御三階櫓」とする記述は、削除された方が…と思いますがいかがでしょうか。--Qje 2008年1月28日 (月) 13:16 (UTC)[返信]
こんにちは、お手数おかけいたしました。御三階櫓についての松山城天守は削除しておきました。一応、執筆者が代表を勤めている日本城郭史学会のほうに問い合わせを行ってみています。まだ返事はありませんが、ございましたらまたご連絡いたします(以前別件で問い合わせたところ返事がありませんでしたので期待はできませんが)。--ムカイ 2008年1月28日 (月) 14:26 (UTC)[返信]
早速の修正ありがとうございます。1999年至文堂刊「城の鑑賞基礎知識」三浦正幸著P96で、「元和元年の武家諸法度の公布以前に創建されたものは、その後に再建や造替をされても天守と称する例が多い(小田原城・犬山城・丸岡城・彦根城・備中松山城〔二重〕・伊予松山城・宇和島城など)。逆に元和元年以降に創建されたものは、天守と呼ばれることが少なかった。法度に配慮したものと考えられる。」との記載があり、これが、現状では通説だと思われます。また、新たなる事実がありましたらお教えください。今後のご活躍をお祈りいたします。--Qje 2008年1月29日 (火) 13:27 (UTC)[返信]


2008年5月12日 (月) 21:44分の編集について[編集]

要約欄に

2008年5月12日 (月) 21:44 ムカイ--(→連結式: 複合連結式・複数連結式を小項目化。現存天守などの{天守を除去。) 

となっておりますが、これは私の操作ミスによるものですので以下を以って要約を訂正いたします。

/*連結式*/ 複合連結式・複数連結式を小項目化。同小見出しの属する大見出しの「現存天守」などの「天守」を除去。

以上です。ご迷惑をおかけいたします。--ムカイ 2008年5月12日 (月) 12:56 (UTC)[返信]


記事内の一覧について[編集]

こんにちは、天守の記事が充実してきておりますが、記事内における個々の一覧が詳細で長大(ページの分量が肥大化したため、読者にとって全体の見通しが悪く不便な場合)になってきているように見えます。ここで、以下のような一覧に関しては新たに天守の一覧などという名前で一覧として分割するべきと考えますがいかがでしょうか。

明治維新以降の天守 に於ける以下のものについてです。

  • 幕末・明治以降に、戦災・破却等によって損失した天守 にあるもの
  • 第二次大戦戦災焼失天守一覧
  • 現存12天守の一覧
  • 復元天守の一覧
  • 復興天守の一覧
  • 模擬天守の一覧
  • 天守閣風建築物の一覧

以上の署名の無いコメントは、ムカイ([[利用者‐会話:ムカイ|会話]]・[[Special:Contributions/ムカイ|履歴]])さんによるものです。--ムカイ 2008年6月18日 (水) 13:38 (UTC)[返信]

どなたからもご意見をいただけませんでしたので以上の提案の通り分割を行いたいと思います。一覧の名称は天守の一覧とします。
これ以降、新しく作成された一覧記事に関しては、天守の一覧のノートにてお願いいたします。--ムカイ 2008年6月25日 (水) 13:58 (UTC)[返信]
遅くなりましたが、分割に賛成いたします。履歴継承がなされていることを確認いたしました。分割ご苦労様です。--ザイル 2008年6月26日 (木) 07:34 (UTC)[返信]
ありがとうございます。引き続き何かありましたら、よろしくお願いいたします。--ムカイ 2008年6月26日 (木) 10:05 (UTC)[返信]