ノート:大追跡 (テレビドラマ)

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「遊撃捜査班があるのは多奈川県警察庁」と書き込んだところ「それがわかる話数を表示するまでコメントアウト」とされました。しかし、これは基本設定として明白(庁舎やパトカーが出てくる)なのですが、話数を明示する必要があるのでしょうか?--K-130 2008年2月13日 (水) 03:13 (UTC)[返信]

横浜を舞台の中心にした作品であることが記されれば、作品の概要説明としては十分だと思います。設定上、一応架空の地名となっている件もその状況自体が記されれば十分で、それが何話のどのシーンで確認できるかといった話は記載すべき情報とは思えません、異論がなければ加筆依頼のタグをはがしたいし、必要に応じて該当の記述も整理したいと思います。--Klaatu 2008年3月9日 (日) 11:40 (UTC)[返信]

中心人物?[編集]

放送回により5人の誰がかストーリーの中心になっており、水原のみを中心人物とするのはおかしいです。どうしても水原を中心人物としたいのなら、それを根拠とする出典を付記してください。--Lumi lapsi 402会話2013年1月28日 (月) 15:59 (UTC)[返信]

クレジットの順序(トメ)、第1話における遊撃班配属に至る経緯などを鑑みても、水原がシリーズ構成上の中心に据えられているのは明らかです(各話ストーリーではなく、シリーズ全体を俯瞰した場合の話です)。--180.1.230.105 2013年1月29日 (火) 02:00 (UTC)[返信]
第1話は水原中心かもしれませんが、それ以降は各話により他のメンバーがそれぞれ中心になっています。ドラマをみる人により感想が異なっている以上、「中心人物」の編集を残すことを希望する180.1.230.105さんから検証可能な出典を出してください(WP:UNSOURCED)。本作のDVDは1次資料のため、2次資料でお願いします(Wikipedia:信頼できる情報源#情報源)。--Lumi lapsi 402会話2013年1月29日 (火) 04:30 (UTC)[返信]
ワイズ出版刊『沖雅也と「大追跡」』133Pにおいて、山口剛氏による「藤竜也が主役のドラマをやろうと思った」という述懐があります。また「各話により他のメンバーが各々中心になっている」というのは各話における作劇上の問題に過ぎず、それを「レギュラー全員がシリーズの中心である」というロジックへ直結するには少々無理があると思います。--180.1.230.105 2013年1月29日 (火) 06:25 (UTC)[返信]
その出典だと企画段階の話でしょう。どうしても中心人物と付け加えたいのなら、概要節に「山口剛が『藤竜也が主役のドラマをやろうと思った』と述べている」と出典付き編集をすべきで、主な出演者節に掲載すべきことではありません。出典がないまま「中心人物」と編集を残すことに疑問をつけていただけで、残したいのなら概要節にしてください。
また出典を予め残しておけばこのようなやり取りも不要となるので、闇雲に差し戻しする前に出典を示せば済む話でしょう。人のロジックをどうこう言う前に、編集を残したいほうが出典を示すというWikipediaの基本ルールを認識してください。--Lumi lapsi 402会話2013年1月29日 (火) 08:02 (UTC)[返信]
追加です。概要節へ残すほかに出典は、出典の明記に則り編集してくださるようお願いします。--Lumi lapsi 402会話2013年1月29日 (火) 09:42 (UTC)[返信]
私は(繰り返しになりますが)クレジットの順序やシリーズの基本構成・設定を鑑みるに水原がシリーズの軸に据えられているのは明白であり、敢えて出典は不要だと考えましたが、なるほどそうですね。わかりました。尤も、「水原だけのドラマではない」などと要約欄で断言しておきながら、「ドラマをみる人により感想が異なる」と仰るのはどういう了見なのか少々量りかねるものはありますが。--180.1.230.105 2013年1月29日 (火) 16:20 (UTC)[返信]
水原だけのドラマでない」(私の考え)が編集理由で、「ドラマをみる人により感想が異なる」は180.1.230.105さんと私とでは異なり、不特定多数の読者がいるWikipediaではまた違う考えがあるかもしれないという意味です。仮に私が「各話により他のメンバーが各々中心になっている」、「中心人物でない」という編集を残したのなら出典を必要としますが、除去することは編集方針に反しておりません。今回は「中心人物」を根拠とする出典がなかったため、「180.1.230.105さんの文章が他人によって自由に編集、配布されることに同意する」ことになります(Wikipedia:ページの編集は大胆に)。ノートの初めに「どうしても水原を中心人物としたいのなら、それを根拠とする出典を付記してください」と申し上げ済みで、出演者・スタッフ・ロケの場所・ストーリーぐらいしか出典として成立しないドラマ(1次資料)にも関わらず、クレジットのトメや第1話の視聴のみで「中心人物」とするほうが変でしょう。だから出典を示してくださいと繰り返し依頼してきたはずです。そもそも視聴者により感想が異なる1次資料を持ち出し、クレジットのトメが「中心人物」という考えこそ、180.1.230.105さんの独自研究でしかなく、映画・ドラマのクレジットの「中心人物」は最初であることがほとんどです。もちろん例外を認めますが、本ドラマでそれが該当するという根拠を出典(ワイズ出版刊『沖雅也と「大追跡」』133P)が示されるまでは存在しませんでした。映画・ドラマにより一人の出演者に限定されず、複数の出演者が中心人物になってもおかしくないケースもあります。連続ドラマで「各話により他のメンバーが各々中心になっている」と見るのか(私の考え)、「作劇上の問題に過ぎず」と見るのか(あなたの考え)、視聴者により異なるのは当たり前です。だいたい180.1.230.105さんが繰り返し主張されている、
>クレジットの順序(トメ)、第1話における遊撃班配属に至る経緯などを鑑みても、水原がシリーズ構成上の中心に据えられているのは明らかです。
というお考えは、「特定の観点(中心人物である)を推進するような、発表済みの情報の合成(トメと第1話を観たあなたの感想)」にも該当し、編集方針を明確に反しています(WP:SYNTHESIS)。--Lumi lapsi 402会話2013年1月30日 (水) 04:52 (UTC)[返信]